努力クラブ「誰かが想うよりも私は」を見た。
努力クラブの「誰かが想うよりも私は」を見た。
恋愛体質な主人公の女性が付き合っている人がいるのに別の人を好きになったり、告白してきた人をキープし続けていたり、まだ好きでいてくれる元カレとの関係に心地よさを感じたり、女友達に相談したり、そんなことをしている日々の話。
たまに困った気持ちになってしまう物語がある。
それは面白いとか面白くないとか超えて「この物語は私に身に覚えがありすぎる」と思ってしまうような物語。
私は大体、頬肉を噛みながら見ることになってしまう。
身に覚えがありすぎるからで、大体その身に覚えにあることは辛いことだったりする。
この話に出てくる主人公みたいな女性のことを好きになりがちだ。
私はそういう女性に振り回されてしまう。
そしてそのたびに、ボロボロになっていく。
なんであの人はそんなことをするんだろう?って思って、もう会わないようにしよう、とか思っているのに、連絡があったら舞い上がってしまうような、そんな人。
私は見ながらそれを何度も思い出して、何度も辛い気持ちになっていた。
同時に、私を振り回していたようなそんな主人公がなぜ、そんなことをしていたのかが、なんとなくわかり、それもまた私を強く揺さぶるのだった。
賢い理由なんかじゃない。振り回すのも悪意があるからじゃない。
どうしても空白が心にある。
ただ幸せになりたい。なんなら周りも幸せであってほしいと願う。
その気持ちや言葉には嘘はない。
でも、あまりにそれが自分本位な考えであることに気が付いてはいない。
私は痛々しく感じながらも、この痛々しい主人公にも感情移入している。
その気持ちも痛いほどわかってしまう。
主人公は嘘はついていない。本当のことしか言っていない。
それでも感覚的に気持ち悪いと思ってしまう、感覚的に好きだと思ってしまう、感覚的に私の方がいいと思ってしまう。
嘘なんてついていない。でもその嘘をついていないのが問題なのかもしれない。
嘘は理性だ。対人関係で嘘はどうしても発生する。
それは騙すようなものもあるかもしれないけども、友人間や恋愛的な状況であるならば、優しい嘘ってのもある。
それは言わなくていいこと。言ったらダメなこと。言わない方がいいこと。
それを抑えるのが理性だ。
何もかも正直に、感覚的に生きてくのは理性的なことじゃない。
だからこそ、この物語の主人公は傷ついていくのだと思った。
理性的に生きない、むしろ生きられないから。
もっと狡猾であれば幸せになれたのだろう。
でも、狡猾ですらない。
ただ、正直なのだ。
ただ、自分の求める幸せに正直なのだ。
この物語はその主人公の女性を、非難することはない。突き放すこともない。
でも、寄り添うこともしない。救いを与えることもない。
客席から眺めているくらい、少し離れた場所から、ずっと見守っている。
私はそれをとても優しいと思う。
断罪するでもない、物語でも傷つけるでもない、勝手に救うでもない。
そっと見守る。それは肯定かもしれない。
ただ、見守るだけだ。
だから、ラスト。大きく重たい寂しさが空間を支配している。
ただ寝転がった女性がいるだけなのに、どうしてこんなに空気は重たいのだろう。
大きく重たい寂しさに満ちた空気。
立ち会うのも嫌なそんな場所にいられただけでもいい舞台だったなあと思う。
私はこの感想を書きながら、かつて好きだった人のことを思い出している。
ふと、あの人も、大きく重たい寂しさを感じていたんじゃないかなって思ってる。
でも、どうしようってわけでもない。同時に、辛かったこともたくさん覚えていて、それで、私はどうしたらいいかわからないし。
劇中、たくさんの人が発していた「好き」って言葉を思い出してる。
好きってのはとても変な感情だ。
近くにいる人をなぜか私たちは簡単に好きになって、好きになったら勝手に辛くなっている。
人を好きになるってそんなにいいものでもないのだろう。
ほぼ認知のバグだと思うし。
大きな世界のいろいろな問題からしたらとても些末なことだし。
でも、私たちはその些末なことに右往左往している。
むしろ、些末なことが私たちが生きている世界なのだ。
好きが成就しなくて苦しかったり、反対に好きが成就して嬉しいのが世界なのだ。
同時に、そんな些末なことで私たちは大きく重たい寂しさに襲われている。
些末さゆえに、それはどこにでも漂っていて、逃れることはできない。
いろんな地獄といろんな絶望があって、それはいくら些末であろうと、地獄と絶望であることには変わりない。
私たちはそんな些末なものと戦い生きているのだ。
そのことを忘れてはいけない。
些末であることを馬鹿にしてはいけない。
些末であるから、私たちは苦しんでいるし、些末であるからこそ幸せを感じるのだ。