にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

そのままでいると辛いから、音楽も聞くし、文章も書く。

 落ち込んでいる。
 大変なことが起きたからで、正直まだ理解が追いついていない。
 どうやってそんな日のことを言葉にしたらいいかわからない。
 自分のことなら、自分の身に起きたことなら、多分山ほど言葉は出てくる。
 でも今日のは身内のことで、そういった場合は書くことに抵抗がある。
 細かく書くのは違うし、書きたいわけじゃない。
 かといってぼやかして書いているうちに、多分本当に伝えたいことからは離れてしまう。
 それにあまりにも現在進行系すぎて、私はただ混乱している。
 ずっと頭はぐるぐると回っている。
 後悔も悲しみもこれからのことも不安も。
 ただ結局残るのはやるせなさだけだ。
 私の中にはやるせなさだけが残っている。


 人生ってのを考えていると、よくわからなくなっていく。
 何度も何度もしている問いで、結局答えなんて出ていない。
 まあ、簡単に出る問いなら、本屋に山ほどの自己啓発書なんて置いてないわけだし。
 ガンジス川でもう生き返りたくないと願う人もいるくらいで。
 それほど生きるのは苦しいことなのかとか思ったりもする。
 それでも考えてしまう。
 人生とは何か。
 唐突に訪れる不幸に翻弄されるだけなのか。
 長く続く苦しみに耐えるだけなのかと思ったりする。
 人生ってなんだろう?なんて考えている時点で結局のところ、苦しいと言いたいのだと思う。
 生きているのが相当に苦しいのだ。
 ずっとなんだかんだで苦しいのだ。



 私は音楽を信じているところがある。
 別に音楽で世界が変わるなんて思っていないし、なんなら救われるなんて思っていない。
 いや「音楽、私を救って!」と大音量で聞くことはある。
 結局救われることなんてない。
 状況が変わることはない。
 でも、その音楽が流れている3分だか4分、もしくは長い曲で10分、1時間のアルバムの間は、助かっているような気持ちになる。
 もしかしたら、その時間だけは生き延びたのかと思う。
 音楽を聞いてる時間、私は生き延びている。


 The Birthdayってバンドを私はたまに聞いている。
 前身であるミッシェル・ガン・エレファントが大好きだったけども、それでもThe Birthdayの優しさを信じたくなる日がある。
 思えば鬱になりたてのころ、The Birthdayが優しく響いていて、ずっと聞いていたときがあった。
 あの頃よりは状況は更に悪くなっている。
 千葉の小さな部屋で聞いていたときが人生の底だと思っていたけども、更に底はあって、私はどんよりしている。 
 そんな中、私は今、大阪の実家のリビングでThe Birthdayを聞いている。
 The Birthdayの『愛でぬりつぶせ』を聞いている。


 なあ パンクス 愚痴ってばっかいねえで 愛で 愛でぬりつぶせ
 あの娘を お前を この星を 愛でぬりつぶせ


 長く生きた果てに幸運が待っているわけじゃない。
 善人がどれだけ善を詰んでも報われるわけじゃない。
 因果応報なんてことを信じたくなるけども、世界も人生も道理がつかないことばかりだ。
 直視をするとそのあまりのえげつなさに心が折れてしまいそうになる。
 直視をしていた今日は混乱ばかりしていた。
 それでも、混乱の中でも少しばかり私はがんばれていただろうか。
 ひどい状況の中でも私は踏ん張れていただろうか。
 同じように傷ついている家族に優しくいれただろうか。
 愛だなんて、そんな大きなことを言うのは恥ずかしいけども、愛を、愛を持ってがんばれていただろうか。
 辛いときに優しくいれるのは難しい。
 報われないと思いながら頑張るのも、踏ん張るのも難しい。
 それでもと思う。
 これからどれだけ続いて、どれだけ大変なことがあるかわからない。
 しんどいときは始まったばかりで、これからまだまだ続く。
 だからやっていくしかない。
 踏ん張るしかない。頑張るしかない。
 恥ずかしいことを言うならば、The Birthdayが歌っているように「愚痴ってばっかいねえで愛でぬりつぶせ」たらなんて思う。
 愛でぬりつぶせってどういうことかわかんないけど、それでも愛をもって、辛いときほど優しくいれたらって思う。
 
 私はこうやって文章にすることで自分を鼓舞してきた。
 今日もそんな文章だ。
 書かないと進めない。
 進むために書くしかない。
 やっぱりね、辛いから。
 そのままでいると辛いから、音楽も聞くし、文章も書く。
 その上で、わけのわかんない人生と戦いたいと思う。
 


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 なあ パンクス 愚痴ってばっかいねえで 愛で 愛でぬりつぶせ
 あの娘を お前を この星を 愛でぬりつぶせ