にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

2021年に『ダイ・ハード4.0』のラストに違和感を感じて噛み砕けてない。

ダイ・ハード4.0』のラストの自分の肩を撃ち抜いてまで敵を倒すってシーンには違和感を感じるのに、そのちょっと前にある戦闘機をトラックで倒すってシーンには違和感を感じないのはなんでだろうなあ、って焚き火を囲みながら問いかけたい。

焚き火はいいよね。やりたいなって思ってるけども、焚き火をする場所も、する機材もない。

焚き火をするには、キャンプ場に行って、機材をレンタルしなきゃいけないみたいで「それはめんどくせえなあ〜」ってなってるから、youtubeで焚き火を見てる。

そしたら、なぜか動画がジャンプして、ダイ・ハード4.0のラストの動画に流れた。

数年ぶりに見ても「いや、やっぱ噛み砕けねえな」となったりした。だからこそ問いかけたい。問いを問いかけるには焚き火が一番だと思うけども、焚き火はないからブログに書いてる。

リアリティラインが……なんて言い始めるとやかましい感じになりそうな問いだとは思ってる。リアリティラインという作劇として大事な基準と、それを安易に使っちゃうことで生じるやかましさってなんですかね。リアリティラインってわかるようでわからん言葉やからかね。

というかそもそも物語は嘘やからね、と思ってる。しかし前に「物語って嘘やんか」と言うたら後輩に「嘘は言い過ぎです」と怒られたのだった。

そうなのよね。嘘は言い過ぎなのよね。

嘘って言葉にはネガティブな色が含まれているというか、相手を騙そうという気持ちがあって生まれるものだと思う。

物語は騙す、というのはまた違う気がする。

無いもの、なんだけども、でも嘘ではない。

それでも、そんな物語でもたまに「嘘をつかれた」ような気になってしまう瞬間がある気がする。

しかしそれを『ダイ・ハード4.0』のラストの肩を撃ち抜いて…なシーンで思うのはどうなんだろう。

というか2021年に『ダイ・ハード4.0』のことを考えなくてもいいんじゃないか。

しかし、しかしだよ、なんかやっぱり違和感がある。それは見た時からずっと続いてる気がする。

多分、自らの肩を撃ち抜いて敵を倒すってシーンで一番感じてしまう違和感は、それは流石に死んじゃうよ、って思ってしまうことかもなーと思った。

大きなシーンになれば大きな嘘で覆い隠せる。

直前の戦闘機vsトラックがそうだと思うし。

でも、肩を撃ち抜くのは嘘が小さくなってしまう。だって、私らは皆、肩を持っていて、肩を銃で撃ち抜いた時のダメージを想定してしまう。

だから、想像できてしまう範囲で、噛み砕けないことが起きちゃうと、違和感があったりするんだろうなって思う。

しかしここまで書いてだけども、やっぱ、映画に対して、しかも『ダイ・ハード4.0』という楽しい映画に対してこんなことをうだうだと考えちゃうのは良くない気がするよ。

映画を素直に楽しもうよ〜と思ってる自分がいて「せやで、せやで」と思ってる自分もいるんやけども、たまにうるせえ自分もいて、うるせえ自分のうるせえ声は年々大きくなってる気がする。

だから、なんか、嫌だなーと思いつつ、嫌だなーと思ったら、それを制御する方法を身につけたいなって思う。

まだ制御する方法なんて思いついてもないし、身に付けてもないから、2021年に『ダイ・ハード4.0』のラストに違和感を感じて噛み砕けてない。

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