にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

ドラマ『チェルノブイリ』を見た!

最近、村上春樹の『1Q84』を読んでる。
ドラマ『チェルノブイリ』の感想だって言ってんのに、突然村上春樹を呼んでる告白してんのなんで?って話なんだけども、村上春樹はこの本のことを「総合小説」と呼んでる。
総合小説ってなんぞやって話なんだけども「いろんな人間、いろんな価値観、いろんな物語、いろんなジャンル的要素を一つの巨大な小説の中に放り込み、それらを絡み合わせることで、単独の視点では見えなかった「世界そのもの」を立ち上げる小説」ってことらしい。
『チェルノブイリ』を見た時に思ったのはこれって総合小説的作品ですやんってことだった。

 

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HBOが2019年に制作した『チェルノブイリ』は、1986年ソ連で起きたチェルノブイリ原発事故を描いた全5話のドラマだ。
チェルノブイリ原発事故を描く……と言えばパニックドラマだと思っていたし、実際恐ろしいパニック描写からドラマは始まる。
未曾有の事故に対して、政府は、そして個人はどう対応をしなければいけなかったのか。そういった描写もある。
しかし、全5話重ねて描かれるのはパニックや、政府の決断だけではなく、チェルノブイリ原発事故の影響と余波を描く。
視点は消防士の夫婦から政府の高官まで行き来して、チェルノブイリ原発事故の全てが描かれていく。

 

5時間で明らかになるのはつまりこういうことだ。
何故チェルノブイリ原発事故は起きたのか。
何故"ソ連"で原発事故が起きたのか。
そしてチェルノブイリ原発事故は何を奪ったのか?


印象的なエピソードとして第4話の徴兵された少年の話がある。
彼は駐車場で係員として働いていた。しかしチェルノブイリ事故が起きて、その後処理のため徴兵されすることになった仕事というのが、避難区域に残っている汚染された動物を撃ち殺すというものだって。
犬を殺す。猫を殺す。
彼の顔は曇っていく。
チェルノブイリ原発事故が起きたせいで彼は子犬を殺さなきゃいけない羽目になる。
犬を殺すたびに彼は人間の善性を殺していく。

 

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突然、ここで自分語りになるのだけども、大学生の頃『朽ちていった命:被曝治療83日間の記録』というノンフィクション本を読んだ。
それは1999年に茨城県東海村で起きた臨界事故によって被曝した男性が亡くなるまでの83日の治療を記録した本だ。
タイトル通りに人間の身体が朽ち果てていく。
染色体が破壊されて、新しい皮膚を作り出せなくなり、身体が文字通りぼろぼろになる。
それが克明に描かれた一冊だった。
大学生だった私は打ちのめされた。
当時のTwitterにこんなことを書いた。
「やっぱ原発とかあかんのちゃうかなあ」
そしたら引用リツイートで「じゃあ代替発電とかどうするんですか?」って突然絡まれたことがある。
そこから軽いレスバになって、十何年経っても正直腹立ってるんだけども、要するにその人は世間知らずの大学生が甘いことを言ってるんだと思って煽りに煽ってきたのだと思う。
実際私の脇も甘かったのだと思う。


ただ『チェルノブイリ』第3話に出てくる被曝して死にゆく人々の姿を見て再び思ったのはこのことだった。
「原発あかんのちゃうかなあ」
これは政治思想として言ってるわけじゃない。
現状のシステムを全て否定したいわけじゃない。
実際に代替となるとどうしたらいいのかわからないのが現状だ。
ただ、ドラマに出てくるように、一歩間違えればあんなふうにぼろぼろになって死んでしまうものを、人間が扱うことってそれはやっぱり難しいんじゃないかと思ってしまう。
というかまっすぐ言えばこうなる。
「あんなふうに死にたくない」
ただそれだけだ。

 

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チェルノブイリ原発事故は、現場への圧力と、組織の権威主義的な体質の中で起きた。
東海村臨界事故も杜撰な運営によって起きた。
福島原発事故も発生から15年経っても、燃料デブリの試験的な取り出しは始まっているものの本格的な取り出しをいつ完了できるのか、未だ正確な目処は立っていない。
私が言いたいのは政治思想の話ではなく、原子力は本当に人間に扱える代物なのだろうか?ということなのだ。
そしてその扱えなかった末のことがチェルノブイリ原発事故なのだろうと思う。


ドラマを見ているとはっきり言って呆然とする出来事ばかりだ。
第4話の90秒の長回しなんて恐ろしすぎる。
屋上にある黒鉛を落とさなきゃいけない。しかし90秒間以上浴びると……というか、本当はそれだけ浴びてもやばい放射線量の中、駆け回るシーンの恐ろしさよ。
あんなことが本当に起きていた。
あんなふうに命を粗末にすることが本当に起きていた。
しかしそれをするしかなかった。

 

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『チェルノブイリ』は海外ドラマの中でも名作と評価を受けているが納得しかない。
チェルノブイリ原発事故で何が起きたかを5時間にまとめあげた手腕は凄まじいものがある。
パニックにホラーにバディものに法廷劇とあらゆる要素も詰め込まれている。
そこに立ち上がってくるのはあの時のチェルノブイリであり、ソ連であって、これを描くには5時間が必要だったのだと思うし、よく5時間でまとめきれたなと思う。
余談だが脚本のクレイグ・メイジンが近年手がけた作品は『ひつじ探偵団』ってのも話題になっていた。
作風の幅が広すぎる。


2019年の名作ドラマに対して、いまさらに必見というのも遅すぎるくらいだけども、確かに必見な作品だった。
5時間のドラマだからこそ立ち上がってくる「チェルノブイリ原発事故」とソ連という国を描いた名作だった。
いまさらだけども必見です。

両目洞窟人間、文学フリマ大阪14に出店する!!

皆様、こんにちは。
両目洞窟人間です。
早速ですが、2026年9月13日(日曜日)にインテックス大阪2号館で開催される「文学フリマ大阪14」に出店いたします!
今年も来ました文学フリマ大阪の季節。
9月と言えば文学フリマ大阪でございます。
2022年から参加し始めてもう4年目。あっという間の4年だったな……。

ちなみに今年のブース数は1757だそうです。凄すぎる。
そんなナンバープレートの数字のような数の1つに私がいます。
にしても途方もない数字だね……。
初めて出店した文学フリマ大阪10の時のブース数を調べたら506で、それの三倍以上だからもう「うひゃ~」と目が回ってしまいますね。


それはさておき、私は今回新刊を作りましたので、そちらを持っていきます!


今回の新刊
両目洞窟人間小説集『恋愛、わからねえ、情けねえ』


両目洞窟人間小説集『恋愛、わからねえ、情けねえ』でございます。
だいたい2025年夏から2026年夏に書いた短編小説18本と、中編小説1本が入った一冊です。
218ページで19作品小説が入ってお値段は800円。
安い!!!!!!!!
頑張りました!!!!!
そして収録作品リストが以下です。

ごっついバラエティある19作品……!!
実際、いろんなジャンルの話を書きました。

目が悪くなったフクロウが夜勤バイトを始める話
フクロウが人を殺す映画を作る学生たちの話
友達が住んでいるコピー機にお邪魔する話
ポメラニアンが蒸発して世界がめちゃくちゃになる話
不発弾の隣で雑談するバイトをする話
引越しをしたら家にワニがいる話
巨大熊が掌底で人々を虐殺する中から逃げ惑う話
明日ねこになる人を読み上げる番組が流れる話

少し抜粋してもこんな感じです。
お気づきかもですが、『恋愛、わからねえ、情けねえ』ってタイトルですが、恋愛小説集では一切ないです。
っていうか恋愛小説はほぼゼロです。
ではなぜタイトルが『恋愛、わからねえ、情けねえ』なのか!
それはそのタイトルの話が入ってるからなのですが、それを表題作に選んだ理由は……ってことはあとがきに書いております。読んでいただけると幸いです。


それから既刊の中編小説『夕焼けパラレル団地城』とエッセイ集『記憶は全部、文字の中』(各500円)もそれぞれ5冊ほど持っていきます。

出店ブースの場所は「おー76」です。

地図で言えばこんな感じ。

というわけで9月13日は文学フリマ大阪に出店してます!
よければ来てください!よろしくお願いします~。



文学フリマ大阪14の公式はこちら↓

bunfree.net

ハイパー双極ADHDだった。

ハイパー双極ADHDだった。
ハイパー双極ADHDってなんのことってなるけども、めちゃくちゃ双極だったし、めちゃくちゃADHDだった。
いや、今も実際は双極だし、ADHDだ。
でも、発達した現代医療はそれらを抑制する薬があって、それらを抑制する薬を私は飲んでる。
だからハイパー双極ADHDじゃない。
少なくとも今のところは。


6年間やっているPodcastがある。
『はぐれラジオ純情派』ってPodcastだ。
弟とやっている。
もう206話も録ってる。
ずっと実家で弟とやっていた。
6年の間にいろんなことがあった。
それでもお互い、実家にいたから定期的に録って、録らない時もあって、気がついたら206話までやっていた。
Podcastは各種Podcastが聞けるところで聞くことができる。聞いてくれたら嬉しい。


ただ弟が実家を出ることになった。弟とやるPodcastは減っていくんだと思う。
それは寂しい。ただ私たちは共に30代になった。30代の兄弟が二人とも実家にいる方が不健全だろう。
だから一人は出ていく。弟が出ていく。
私は金銭的な面と、病状的な面から出ていくことはできない。
それで良かったのだと思う。寂しいけれども、良かったことだと思う。
まあ、弟も遠くへ行くわけじゃない。
電車で1時間半くらいのところに行く。
すぐに帰ってこれる。
ただ実家から離れる。
それはこの6年で、とても大きなことの1つだ。

6年間、いろんなことがあった。
Podcastを録り始めた時、29才だった私も、この夏には36才だ。
信じられないよ。
小学生ならもう中学生になってしまう。
これからの人生、何回、小学生が中学生になる時間があっという間に過ぎ去っていくんだろう。
何回、過ぎていったことに怯えてしまうんだろう。多分、怯えることばかりが増えるんだと思う。


6年前のPodcastの初回と20回目くらいを聞いた。
6年前の自分達がいた。
記憶の中の私たちよりも楽しそうに喋っていた。
私はとにかく喋り続けていた。
話題があちこちに飛んで、ハイテンションで、かと思ったら情緒不安定で……。
ってハイパー双極ADHDやないか。
ハイパー双極ADHDやないか。私はそう思う。
6年前はまだ双極の薬もADHDの薬も飲んでなかった。
その頃の恐ろしい状態の私が詰まっていた。
ずっとエンジンをフル回転させて、アクセルをベタ踏みしているような私がそこにいた。


ハイパー双極ADHDだった。
今もそうかもしれない。
今も人から見たら、エンジンをフル回転させて、アクセルをベタ踏みしているような私がそこにいるのかもしれない。
それに6年だ。6年も経てば年をとる。
双極の薬を飲んで、ADHDの薬を飲んで、6年年をとった。
そりゃ落ち着くのかもしれない。
だから、今の方が絶対にいいはずなのだ。
というか、落ち着いた今だからこそ、いろんなことができている。


6年前、私はずっと寝込んでいた。
一日動いたら二日は何もできなかった。
90代の祖母と同じような体力で生きていた。
人と喋る時に、頭がオーバーヒートして汗がだらだら溢れ出た。
頭の中は常に騒がしかった。
しんどくて寝込んでいたかと思ったら、突然めちゃくちゃな行動をすることがあった。
買い物をし、あちこちに行き、人と会い、いろんなところでトラブルを起こした。
沢山遅刻をした。体調も悪いからドタキャンばかりだった。
突飛なことをしてはお金が飛んで、自分も傷ついた。人に沢山迷惑もかけた。
家族にも、友人にも。
いろんなことがあった。
本当にいろんなことが。


変な行動力で言えば、突然映画の『リング』にハマって、その感想を書くためにリングの脚本家の高橋洋の本を借りるためだけに1時間半かけて図書館に行ったりした。
なんかそれが自分にとっては象徴的な出来事だ。ハイパー双極ADHDだった頃の。
他にも沢山ある。覚えているのも。思い出していないのも。


今はもうハイパー双極ADHDじゃない。
多分。
でも、落ち着いていなきゃできない仕事をしている。
同時にハイパー双極ADHDだったからできる仕事をしている。
頭の中は全部が全部静かになったわけじゃない。
相変わらず喋り続けている気がする。
けれども爆音で喋り続けていない。昔はZEPPなんばのスピーカーが頭の中にあるようなもんだった。
せいぜいラジカセくらいなものだ。多分。
でも、この前、イヤホンをせずに歩いたら、頭の中で自分が喋り続けてびっくりした。
普段は音楽を聞いて抑制しているけども、そんなのがなかったら、とめどなく頭の中で喋っちゃうんだと思った。
この文章だってそうで、書き始めてから20分くらいで2000字ぶわーって書いている。
結局ずっと多動ではある。

ただハイパー双極ADHDじゃなくなったのだ。
それは全部そうだ。
Podcastも、書く文章も、行動も。
人からはどう見えるかわからないけども。
少なくとも自分からは。

それで良かったのだと思う。
そうじゃなかったら生きれていないと思うし、それで良かったのだと思う。
でも、6年前のPodcastで、情緒不安定気味に、でもアクセルベタ踏みで喋り続けている自分を聞きながら、どこか寂しい気持ちになったのもある。
もう6年前のハイパー双極ADHDの自分に出会えるのはネットに放流している6年前のPodcastの中だけで、6年前の私はアクセルベタ踏みで喋り続けている。


遅ればせながらの菅田俊

というわけでここ数日、更新が増えているのだけども、今の気分的に「雑文を書こう」となっているのであった。

読んでも読まなくても別にいい雑文。

自分としても力はそれほどいれない文章。

私は文章を書くとなるとついつい力(りき)が入るので、その力(りき)を抜こうとしている。

力(りき)って言葉が好きで、なんで好きかと言えば映画『殺し屋1』での菅田俊が「力(りき)いれて探せよこの野郎!!」って叫んでたシーンが好きだからってのがある。

一時期、そのシーンは菅田俊の滑舌がめちゃくちゃ過ぎて、Netflixの字幕が匙を投げたシーンとして話題になっていた。菅田俊の叫びに「(判読不能)」みたいなことが書かれていて笑ってしまった。

 

 

というか菅田俊ってもう70歳なんですね。黒沢清のVシネマや90年代〜00年代三池崇史作品に出てるのでしか触れてなかったのもあって、最近の姿を全然知らなかった。

先日見た黒沢清のVシネマ『勝手にしやがれ!!強奪計画』には弱気な元医者役で出てきていて、そのコメディリリーフっぷりが素晴らしかった。

他にも見た黒沢清のVシネマ『復讐 消えない傷跡』の菅田俊も凄く良かった。

もしかしたら菅田俊が好きな俳優なのかもしれないけども、結局のところはわからないし、最近の仕事は一切知らない。全部90年代か、いって00年代初頭だ。

 

 

ダウ90000の蓮見さんが遅く映画を見ることを頑張る「遅映画」を推奨していた。

何にしても早く見なきゃいけない、早く話題についていかなきゃいけないってことへのアンチテーゼ的なこと…だと解釈している。

そんでそれには凄く同意する。

先日、Xの映画系アカウントが新作映画を公開から一週間経って見ただけで「遅ればせながら」と書いていた、ゾッとしてしまった。

最近は話題にいかに早く飛びつき、消費できるかが先鋭化しまくっている気がして、それは息苦しいなと思う。

特に映画なんかは、公開初日…どころか、公開初日の夕方くらいには感想が出揃ってる…みたいな状況はやっぱなんか怖いと思ってしまう。

まあ、見て感想を書くのは全然いいことだと思うけども、まるでもうその映画について語り尽くされた雰囲気すら漂ってるの、なんか怖いなって思う。

 

 

黒沢清の『勝手にしやがれ!!強奪計画』を見ていて、その映画の楽しさにきゃっきゃと喜んでいたのだけども、同時に「今見なくていい映画を見ている」という感覚に爽快感を感じていた。

最新作でもない、話題作でもない、何かの作品の予習でもない、履修しなきゃいけない作品でもない。

なんとなく、気になったから見る昔の映画。

しかもそれがとても面白い。

なんかその状況に凄く爽快感を感じたのだった。

 

 

公開一週間の映画を見ることを遅ればせながら…というのならば、90年代の菅田俊の演技を褒めるのはどれくらい遅ればせながら…なことなんだろう?

けれども、そういうことをしている時間はとても幸せだ。

今、しなくていいことをしている時間に私は喜びを感じるみたいで、その喜びの矢は90年代の菅田俊から放たれている。

 

 

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ただなんかいいなって空気

「ただなんかいいなって空気……」って書くと、私はすぐにsyrup16gのrebornの歌詞を思い出してしまうから、頭の中で五十嵐さんが叫び始めちゃって大変だけども、それはそれとしてただなんかいいなって空気に出会うのは本当に難しい。

「ただなんかいいなって空気」ってそもそもなんだろう?と思うけども、言語化できないから「ただなんかいいなって空気」としか言いようがないのだと行き当たる。

そしてそんな言語化できないものは、作り出そうとして作り出せるものじゃない。

 

 

 

わたしのような天気さんがやられているpodcast『物語に支配されたこのからだ』の第6回、CMディレクターの岩崎裕介さんがゲスト回で「本当に出会った凄い現実を虚構に落とし込むにはどうしたらいいのか?」とまじで凄え悩み合う場面が出てくる。

 

■006 挑み続ける。途方もないほどの現実に。 ゲスト:岩崎裕介 - 物語に支配されたこのからだ | Podcast on Spotify

 

 


岩崎さんは自分が作っているものよりも、突然現れた老人が放った一言の強さに愕然とし、わたしのような天気さんは、ふと深夜にベッドで唸り始めた時の空気を、映画に焼き付けたいけども、それがどうしてもできないと嘆く。

老人はともかくとして、その深夜にベッドで唸り始めた時の空気を「ただなんかいいなって空気」と言うのは違うけども、言語化できない空気であるのは間違いないはずだ。多分。

その言語化できないものに、私たちは衝撃を受ける。それをそのまま別メディアに転写するのは本質的に難しい行為なんだと思う。

意図的に作り出すのも、勿論のことながら難しいことなんだと思う。

 

 

 

映画『リンダリンダリンダ』のことをみんな凄く好きなのは「ただなんかいいなって空気」が全編通して漂い続けていたからじゃないかなと今書きながら思っている。

人工的に、作れるはずのない「ただなんかいいなって空気」が何故か作れて、映画という別メディアに転写できている。

その奇跡に驚き、感動し、癒され、時には悔しいとも思い、最後には呆然とするんじゃないかと思う。私はそうだった。

 

 

 

自分の人生を思い返した時、ただなんかいいな空気は確かにあったと思う。

けれども、それがいつ発生したのか、どうやって発生したのかは、やっぱり思い出せない。

ただ、沢山のゆるい空気から生まれた気はする。

『リンダリンダリンダ』で流れていた「ただなんかいいなって空気」がそうであったように。

緊張感がなく、それでいて、沢山の会話があった時に、ただなんかいいなって空気があった気がする。

沢山の無駄話の果てに、私はただなんかいいなって空気に触れたような、そんなことを思い出してる。

 

 

 

だから、ただなんかいいなって空気にまた触れるには、沢山無駄話をしなきゃいけないなって思う。

それは大人になるととても難しいことだなと思う。

もう部室はないし、深夜のファミレスだって全然行けない。明日は仕事だし、家族だっている。

けれども、たまに無駄話を沢山重ねたいなって思う。

本当にたまにでいいから、無駄話を沢山重ねて重ねて重ねて重ねまくる、そんな日、もしくはそんな夜があったらいい。そういえば「ただなんかいいなって空気」は夜の方が発生しそうな気がする。

だから、たまには重ねまくった無駄話のその先にある「ただなんかいいなって空気」に触れられたらって思う。

 

 

そしてその空気は、やっぱり別メディアに転写するのは難しいんだろうと思う。

それに思い悩むんだとも思う。

「ただなんかいいなって空気」を書くことができたらいいなって思うけども、そのときは「ただなんかいいなって空気」を言語化できてるわけで、それは作り出せるかもしれないわけで、それってもはや神様じゃんかとも思ってしまう。

そこまで行き着いて「ただなんかいいなって空気」を人工的に作り出すのが難しいことなんだなと、改めて思う。

誰も神様にはなれんのだ。

そして誰も神様になれないのに「ただなんかいいなって空気」が充満していた『リンダリンダリンダ』のことを神格化してしまうのは、そういうことなのかもしれないと思ったりするのだった。

 

 

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