にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

ぽんぽこりん、考察。

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 たぬきがお腹を叩くってだけでも嘘なのに、その上に、ぽんぽこりんって嘘の擬音を乗っけた人、かわいいを作る才能がありすぎる。
 しかし、いつからそしてどこから、たぬきに「ぽんぽこりん」ってイメージがついたのだろう。
 あの高畑勲監督の映画よりも前に「ぽんぽこりん」というイメージがあったのだろうか。絶対あったんだろうなと思う。
 そしてこういうのはだいたい調べたらすぐ出てくる。
 しかしでもまだ調べない。これは億劫をしているわけではない。
 知識として定着させる前に、まだ私は「ぽんぽこりん」とお腹を叩き鳴らすたぬきで遊んでいたい。
 遊び場は私の頭のなかで、そこでたぬきがお腹を叩いている。
 ぽんぽこりん。


 起源はどうでもよいと思う。しかしどうしたって疑問が生じる。
 ぽんぽこりん。この最後の部分である「りん」って音、これは一体なんだ?
 明らかにこれまでとは違う音が入っているように思える。これまではたぬきのお腹を叩く音が「ぽんぽこ」だったはずだ。
 しかし「りん」はたぬきのお腹を叩いて鳴るとは思えない。
 「りん」という字面、そこから想像するに鈴の音のように思う。
 そうなると、一つの推測が私の頭の中に生じる。
 この「ぽんぽこりん」という音は、たぬきがお腹を叩く音に合わせて、誰かが鈴もしくはトライアングルを叩いているのではないのだろうか―――。


 第三者の存在。そうここには誰かがいる。
 しかし、それが「誰か」と追求する前に、整理しなければいけない部分がある。
 それは「ぽんぽこ」という音だ。ここに注目してほしい。
 「ぽん」と「ぽこ」。
 これは二音なっているということではないだろうか。
 そして音色から想像するに、たぬきが鳴らしている。
 たぬきは自らの腹を叩き方を変えて二音鳴らしている
 そう、これは叩き方の強弱の話―――。
 

 たぬきは意識的に強弱をつけ音を変えている。パーカッショニストとしてのたぬきが明らかになったところで、前述した疑問点に立ち返ろう。
 たぬきが強弱を付けてお腹を叩く、その隣で誰かが鈴かトライアングルを叩き鳴らしている。
 誰が鳴らしているのか? 
 残念ながら「ぽんぽこりん」という字面だけじゃ誰が鳴らしているかはわからない。
 しかし「ぽんぽこりん」という擬音に、私は今までしていた誤解を反省することになった。
 これは音じゃない。音楽(ミュージック)だ。
 そして彼らは音楽家なのだ。


 
 と、ここで、思い出してほしいものがある。
 絵本や童話で繰り返し伝えられてきたあの存在だ。
 そうそれはあの集団。
 「森の音楽隊」だ。
 我々読者は森の音楽隊が登場すると、無条件で受け入れていたのではないか。
 しかし、ここは立ち返るべきだ。なぜ彼らが存在するのか。森の音楽隊はいかなる存在か。
 ここであなたに想像してほしい。森に生きている動物達を。
 それは森の音楽隊ではない、ただ生きている動物たちだ。
 彼らは生きている。生きるためには日々、何かを食さねばならない。食すためには、食べるものを探す必要がある。
 生きるため、食べ物を探し、そして食べる。
 生きるために食べる。
 それが動物であり、彼らの生活だった。
 しかし、それだけでは、ある時から生きていけなくなったのかもしれない。
 生きるために食べ物を探すだけの日々に疲れたのかもしれない。
 もっといえば、そんな生きるためだけの生活に飽きたのかもしれない。
 そんな生活を変える……そんなつもりがあったのかどうかもわからない。
 彼らは発見をした。それは「森の音楽隊」のスタートだった。
 しかし、最初に生まれたのは「音楽」じゃなかった。
 もっと純粋な「音」だった。
 ある時、たぬきは自分のお腹を叩くことで「音」が鳴るのを発見した。
 なによりもここで大事なのは、その「音」を面白いと思う感性だ。
 「音」は他のたぬきも見つけていたかもしれない。しかしそのたぬきはそれを面白がる感性を持っていた。
 だから叩いた。そして音が生まれる。そして楽しむ。
 それは、たった一人から始まったのかもしれない。しかし、その熱は伝わっていく。音が空気の中を伝わるように。
 彼らは叩く。自らの腹を。
 そしてその過程で、力の強弱で「音」が変化することを発見する。
 腹を叩き、「音」を作る。
 最初に音を見つけた。
 しかし、そこから強弱を見出す。そして連続して鳴らす。
 その中で、彼らは「リズム」を発見する。
 その瞬間、音はリズムになる。
 リズムがすべてを変える。
 音がついに音楽になり始める。
 動物たちの生活が変わり始める。


 森に音がなり続ける。
 いや、もうそれはすでにリズムになっている。
 リズムに身体を揺らしはじめる動物たち。
 具体的なメンバーは、たぬき、きつね、ねこ、コアラ、ラビット、そして、虎―――。
 突如現れた虎に、森の動物たちに緊張が走った。
 食物連鎖の気配。食うか食われるか。命の取り合い。
 しかし、虎は動物たちを襲わない。食べない。
 虎が口を開く。
 虎はリズムに合わせて、詩を諳んじはじめた。
 虎が、まだ人間だったころ作っていた詩を、リズムに載せて諳んじ始めた。
 人間だったころ持っていた臆病な自尊心や尊大な羞恥心はそこには感じられなかった。
 この瞬間、すべてを変えるそんな瞬間、それが今だった。
 虎はマイクを掴み、詩を諳んじる。
 もう人間時代に書いた詩だけではなく、今思いつく、言葉を虎はマイクに向かって放つ。 
 その虎の姿に、森の動物達がフィンガーガンと歓声で興奮を伝える。
 たぬきのリズムと虎の詩(ライム)が合わさり、森は今かつてないほどの熱気に包まれていた―――。
 

―――はじめにリズムありき
 いとうせいこうは□□□(クチロロ)の楽曲『ヒップホップの初期衝動』の中でそうラップしている。
 リズムとライムがあれば、たったそれだけのシンプルなものがあれば、それはもうヒップホップなのかもしれない。
 そんなことをたぬきの「ぽんぽこりん」のリズムは教えてくれたのかもしれない。
 ちなみに調べたところによると「ぽんぽこりん」の「りん」の音ですが、これはねこDJがサンプラーで鳴らしていた808のカウベルの音色だそうです。やっぱり調べないとわからないですね。
 そうして今日も森にレゲエホーンが響くのでした。パパパパオーーーーン!!!


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俺、味が物足りない時に塩をひとつまみパラパラができるようになる。

  最近の私といえば、ご飯を作ることがどんどん上手くなっている。えっへんと『どうぶつの森』のキャラクターが得意げにするモーションがとても好きなんだけども、今、ご飯を作るのがうまくなっているという言葉のあとにはそのモーションをしていると思ってほしい。それくらい得意げに言っている。
 特に味付けの部分が上手になっている。なんとあの「ちょっと味が物足りない時に、塩をひとつまみぱらぱらと入れる」ということが自然に行えるようになってきた。
 これは大いなる進歩である。
 人類史には見えないかもしれないが、私からすれば大いなる進歩である。えっへん!


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 しかしこの「ちょっと味が物足りない時に塩をひとつまみ入れる」、ということができるようになるまで、結構な時間がかかった。
 なんせ、最初はこの部分ができていないものと認識していなかったのだ。味が物足りないのはそういうものと思っていたので、直すものだとまず認識していなかったのだ。
 認識していない不足や不備を直すことができるだろうか。
 否。断じて否である。
 つうわけで、味が物足りないのは直せるものだって気がつくのにまず時間がかかった。
 それから、じゃあ味付けが上手くいくようになったか……となると、そうではなく、今度は上手に味付けできるようになるまでのはるかな旅路が始まる。
とりあえず初期は過剰に味付けをしちゃっていた。なんせ『テレビ千鳥』を見ていたから。『テレビ千鳥』で千鳥の大悟が料理を作りながら「奥さん、砂糖は思ってる倍ですよ」と言っていたのを俺は聞き逃さなかった。
 それからは砂糖は思っている倍の時期に突入した。
しかし「砂糖は思ってる倍」は正しい。ネットで検索して、その時に薄味なレシピを引いてしまっても、作っている時はそれが薄味だなんて気がついていない。
作り終わって「頑張って作ったのになんだかなあ」……とがっかりすることも多かった。それならば砂糖は思ってる倍入れたほうがいい。
 しかし、千鳥大悟イズムの継承であるそんな過剰な味付けは当たり前だけども「味が濃い」という不満も連れてくることになった。
うーん、どうしたもんかね~と悩んだりしているうちに、徐々に、本当日々の中で、徐々にできるようになっていった。そんな気がします。

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 ここまで、料理の味付けができるようになったよ~なんて、まるで一人でできた手柄のように言ってるけどもそんなことは一切ないです。というかこれは一人で生活していたら絶対にできなかっただろうなって思う。
 そんなふうに書くと、私に「理解のある〇〇さん」がいて……みたいなのが出てきそうな感じだけども、そういうことでない。
 でも、私にはほどほどに理解のある家族や祖母はいて、そんなほどほどに理解のある家族や祖母にご飯を作ることがここ1~2年は増えたのだ。そしてそのことがとても大きい要因なのだ。というかほどほどに理解のある家族や祖母は大きいよ。何を卑下っぽく言うているんやって話です。本当。

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 まあしかし本当、家族にご飯を作るのが増えた。
 というのも、私は相変わらず働けてはいない。4年も働けていない。
 相変わらずやっちゃってる鬱はまだまだ厄介なのだ。
 とはいえ前に比べたら鬱もましになってきている。
 それでも相変わらず寝込む日もある。だいぶ減ってきてはいるんだけども。それでもやっぱり。
 しかしまあ、働いていないとなると必然的に家にいる時間も多い。
 だけど家族は働いている、勉強しに行っている。
 そして祖母は、さすがに働いてはいないけども、身体を動かすと、節々が痛いという。
 私は働きにはいけない。けども、ご飯なら作れる。家にいるし、身体の節々はまだ痛んじゃいない。
 っていうことでご飯を作る日が増えた。
 そうしているうちに、徐々に徐々に、ご飯を作っていくことがうまくなっていった気がする。


 なんて書くと、君は今までご飯も作ってこなかったん?君は何されてる方なん?となりますが、前に一人暮らしをしていた時期もありましたし、その前の実家に暮らしていたときも時々は作ったりしておりました。でも、一人暮らししていた時のご飯は、なんていうか面倒くさいものでした。
 仕事で疲れて帰ってきて、やる気には全然ならなくて、外食や弁当をよく買った。
 最近の冷凍食品は超美味しいのでそれもよく食べていた。特に冷凍食品のチャーハンとからあげはやばい。あれが冷凍食品だなんて信じられない。超美味しい。
 仕事で疲れ切ったあとに得意でもない料理を作る気にはなれない。なんならそのご飯を食べる時間は短くしたかった。
 言うなれば食事RTA。とにかくいかに食事の時間を減らすか、そのルート構築に神経を使っていた。(ここで、冷凍食品を大量買いすることで、三日後の自分の食事時間を大量短縮することができます)
 とにかく私は仕事ですり減った自分を取り戻す時間がとにかく欲しかったのだった。
 そうしたら鬱をやっちゃって、仕事に行かなくなったら、ではやっとまともにご飯を作るようになったか……といえばそんなことはなかった。
 日々適当にしか食べていなかった。住んでいたところの台所が嘘みたいに狭いのもあったし、鬱でしんどすぎて、ご飯を作るどころではなかった。
 冷蔵庫からウィンナーをそのままかじったりしていた。せめてレンジで温めた方がいいのに。
 だから「味付け」だなんて、そんなアウタースペースな領域にたどり着くことはなかった。
 一人分の料理を作るのはとても大変で、そこまでは全然いけないまま、数年が過ぎて実家に戻った。
 
 
 そして前述の通りに家族のためにご飯を作る日が増えた。
 そうなるとご飯を作るの意味合いが変わっていく。
 「面倒くさい」のは変わらないけども、それでも家族に喜んでほしいというか、仕事や学校で疲れて帰ってきた状態の人に、不味いものは出せないよな~と思って取り組んだりする。
 そして外にあんまり出ることができない祖母には、普段食べないものや、今まで食べてこなったものを作って、これが祖母の生活にとってちょっとした刺激になったらいいなと思っている。
 ただでさえ気が滅入るニュースが多いから、美味しいものだけは作ってあげたいって思う。祖母は外に出られないから、テレビしか楽しいことがないらしく、それはやばいと思ったのだ。外にでることができない老人は、びっくりするくらい坂上忍宮根誠司を見る羽目になっている。まじでやばい。なんとかしなきゃいけないと思ってる。
 でも、節々の痛みを散らす薬を作れるわけでもないので、せめて、頑張れることは頑張りたいってことでご飯を作ってる。


 そんなこんなな日々の積み重ねで、私は味が物足りない時にひとつまみの塩をぱらぱらとできるようになったのだ。
 とはいえ、まだ味付けは間違う。
 先日は初めて「砂糖」と「塩」を間違えた。マンガみたいな間違え方をして、死ぬほどに辛いそぼろができて、私はかなしくなって、山盛りのそぼろを三角コーナーに捨てた。
 まあ、上手くなっても間違う時は間違う。だって人間やからねえ。

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私は、文章を書いたらいいよ~って、人に安易に勧めがち。

 よく人に「なにかしら文章を書いたらいいよ~」って勧めている。私から与えられるのはこれだけやから……、という気持ちで、伝えている。私は与えられるものをあまり持っていない。
 とはいえ、文章を書いたらいいよ~ってのは、「文章を書いたら人生が好転するよ!」みたいな意味ではない。自己啓発的なことじゃない。
 むしろ、文章を書いたどころで、そんな魔法のパウダーのようなことは起こらない。そもそも魔法のパウダーにそんな効果があるかわからないし、魔法のパウダーというものがどういったものかもわかっていない。
 なんにしても、文章を書いても、何か期待できることはない。


 むしろ文章を書くこと、そしてそれを発表をするというのは、結構リスキーなことのように思える。
 最近では、公開された文章がきっかけで炎上が起こった、なんてことを週に1度以上は見ているだろうし、議論が起きるのは「誰々かこんなことを書いていた(言っていた)」と、書かれてしまったことを、誰かが読んで傷ついて、そして最悪な事態になる。
 そしてこれは紛いなりにも文章をちょこちょこと書いてきて…の実感だけども、文章を書いて発表をするたびに、私は自分の弱点を世間に晒しているなあと思う。『ハウス・オブ・ザ・デッド』というゲームではボス戦に入ると弱点の箇所が記された本が登場するけども、文章を書いて発表するってのはそんな本を自分で作っている行為と変わりない。
 世界に向けて、自分の弱点を晒す行為。
 全く、まともでは無い気がする。


 しかし、それでも文章を書いたほうがいいよ~って安易に人に勧めるのは、やっぱり書いた方がいいと思うからだ。その根拠は、私の実感からで、実感が根拠ってそれは信用ならないけども、それでも理由を説明させてほしいと思う。
 文章を書いたほうがいいと思う理由は、自分は思っている以上に自分のことをわかっていないんじゃないかと思っているからだ。
 四六時中付き合っている自分のことをわかっていない、ってのはどういうことだと思うけども、でも実際のところわかっていないんじゃないか、少なくともそういう人たちは結構いるんじゃないか。
 もちろん、自分のことは隅々まで把握している、完璧だ、っていう人もいるだろう。
 でも、中にはわかっているつもりでも、自分のものの考え方であったり、思考の流れの癖だったり、そういうものはわかってないってこともあるんじゃないかと思う。
 私自身、長いこと自分自身のことをちゃんとわかっていなかった気がする。
 でも、徐々に何か自分ってものをわかる…というか、こういう考え方をしている人なんだ、ってのをすべて把握してなくても、少しはつかめるようになったのは、文章をよく書くようになっていった頃だった気がする。
 なんとなくその頃のことを思い出すと、霧がゆっくり晴れていったような、そんな感覚だった。

 
 だからこそ、文章を書いたらいいよ~って安易に勧める。
 そもそも文章ってなんだよって話だけども、なんでもいい、日記でも感想でも小説でも何かの考えの断片でも記憶でもとにかく書いてみたらいいと思う。
 そうしていくうちに、文章を書いてみるうちに、何か掴めることがあるかもしれないし、霧が晴れるようなこともあるかもしれないし、やっぱり何も変わらないかもしれない。
 それでも、例え弱点を晒す行為だとしても、使い勝手の良いネットミームに頼らないで、自分で考えた、自分で書いた、そんな文章は自分を助けてくれると思う。というかそう祈って、私は文章を書いている。


 でも、人に文章を書いたらいいよ~と勧めることは多かったけども、最近は全然書けていなかったので、改めて私も文章を書くことに向き合おうと思います。
 そんなこんなでまた弱点を晒す日々だけども、それはそれで、と納得させる。
 私はやっぱりまだ私をわかっていない気がする。
 何にせよ、そこからしか始まらないことも沢山あると思うのだ。

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『闇の自己啓発』を読んだ!

江永泉 木澤佐登志 ひでシス 役所暁 共著『闇の自己啓発』を読んだ!

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 「闇の自己啓発」ってタイトルがもう超いいじゃないですか。
 だって「闇」の「自己啓発」だもの。
 「自己啓発」って言葉が、今や勝ち得てしまった、光り輝く「圧倒的成長」的なスタイルは「闇」という単語をつけるだけで消え失せてしまって、それって素晴らしいよね、言葉ってそういうふうに意味があっという間に変わってしまうところが良いよね。
 私は「圧倒的成長~」とか「生産性~」とか、そういう一般的な「自己啓発」が苦手……というより、そんな風に生きることができなかったので、だからこそ「闇の自己啓発」に参加してみたいと思った。
 光り輝く自己啓発ではなく、うす暗くてじめっとしたところでも生きていくための、そんな闇の自己啓発


 本書『闇の自己啓発』は江永泉、木澤佐登志、ひでシス、役所暁らの四人による読書会を書籍化したものだ。
 読書会であるので、それぞれ取り上げている本がある。
 それぞれの本のテーマは”ダークウェブ”、”中国”、”AIとVR”、”宇宙開発、””反出生主義”、”アンチソーシャル”。それに映画『天気の子』や『ジョーカー』を鑑賞しての雑談や”加速主義”をテーマにした雑談もある。
 こういったテーマからも、よくない言い方だけども、自己啓発って目線からは品が悪くて、だからいいなって思う。
 だって自己啓発的なマナーの話なんかよりも、こっちの方が断然に面白そうじゃんか。
 そんで私はいつだって面白そうな方に歩いていきたい。
 
 
 面白そうな方、って言うと、この読書会はとにかく面白そうなのだ。一冊の本から、こんなに話を広げることができるんだ!そして読み解くことができるんだ!読むことの喜びと、それについて話すことの楽しさが詰まってる。
 またその読み解きというのが、この読書会のメンバーがこれまで得てきた圧倒的な量の知識ってのが、超単純な言い方だけども、めっちゃかっこいい~。知識と知識、本と本、思考と思考で、関係あるもの、一見関係ないもの、そんな様々なものがつながっていき、一つの大きな星座のようになっていくのは超きもちいい。
 特に江永泉さんと木澤佐登志さんの知識量が博覧強記に暴力的で、私はノックダウン状態になりながら「もっと読まねば~」と憧れを抱いたのでした。
 

 それと同時に、これほど沢山知識があっても、生きづらさという難問はなかなか解決することはない。
 むしろ、沢山知っているからこそ、物事のいろんな側面が見えているからこそ、世界のままならさをわかっているからこそ、生きづらさを解決することはできない。
 それほどまでに生きづらさは難しくてやっかいなものです。


 本書の感想からは外れますが、先日、私はお笑い芸人が多くのラジオ番組を配信しているアプリ「GERA」で吉住さんのラジオ番組「聞かん坊な煩悩ガール」の第7回を聞いていました。
 私は吉住さんのこのラジオ番組がとても好きなのです。毎週欠かさず聞いてるくらい好きです。
 第7回では吉住さんがアメトーークで「生きづらい芸人」をプレゼンし、見事その回が実現し、放送されたあとの収録でした。
 「生きづらい芸人」のある意味先頭であった吉住さんに、あるリスナーから「全く生きづらそうに見えない。自分の方がブサイクだし童貞だし生きづらい」とメールが届いたのです。
 そんなメールに対して吉住さんは「生きづらさでマウントを取ったらだめだよ。そう見えない人も、それぞれに生きづらさを感じて生きているんだよ」と言っていた。(この辺の吉住さんの返答のニュアンスがまた絶妙なので、できれば聞いてほしい。突き放すような攻撃的なニュアンスではないことだけは言いたいです)

 私が嫌う、この感想でも序盤に散々その嫌いのムーブを見せていた、「自己啓発」もまた、ビジネスという世界で生き抜こうとする、もしくはそこで生きづらさを感じている人が、生きやすい方法を模索するために読んでいるんだと思うのです。
 私がこれまでの人生で「あ~この人とは仲良くなれない……」と思った人たちも、またそれぞれの生きづらさを感じて生きているのでしょう。
 だからというか、まあというか、とにかく生きづらさは特別なものではないし、誰もが抱えているものだ。
 それでいてそれぞれの生きづらさは見えなくて、だから齟齬や無理解があって、それがまた生きづらさを助長したりするのだと思う。
 また本書でもマーク・フィッシャーの言葉から、語られていたように、生きづらさや鬱が社会的なシステムや環境にあるのに、個人の問題として処理や解決、そして治療していくことが求められるのも、またしんどい部分だと思う。
 だからこそ、生きていく中で、生きづらさ、それ自体をなくすのは難しい。
 でも自らが抱えている生きづらさを理解すること。そして、それを思いながらも生きる方法を模索するのは大事なのだと思う。
 そしてその方法が普通の自己啓発書であれ、アメトーークの「生きづらい芸人」であれ、『闇の自己啓発』であれ、その人に合うものだったらなんだっていいのだと思う。
 でも誰も何が合うかなんて教えてはくれない。
 だから探すしか無い。
 それは多くの本から、一冊を見つけることかもしれない。
 文章を書き記していって、その先にやっと見つかる思考なのかもしれない。
 ふと聞いていたラジオで、わかるものなのかもしれない。
 なんにしても、簡単な解決なんてない。
 だから探すことを諦めてはいけない。
 そしてできれば、そのやっと見つけた本を、やっと読み終えたその本を片手に、誰かと語り合う場があれば、それはとても楽しくて、素敵なのではないかと思う。
 


 この感想の最後に役所暁さんが書かれた『闇の自己啓発』のまえがきを引用しようと思う。
 ここになにかを感じた人に『闇の自己啓発』は合う本だと思う。



 世間や企業、集団は「自己」を嫌う。とにかく上の言うことに逆らうなと、個人の思考や批評精神を封じる方向に動く。その波に押し流されてしまうと、個人はいつしか考えることをやめて、世間を構成する大波の一部になってしまう。さながら押井守監督の映画『イノセント』に登場する、「人形」に変えられ、自我を、自己を失っていった少女たちのように。そして我々個人がその思考力を奪われ、「人形」にされてしまうと、大きな存在はますます大きくなり、誰も批判できない存在になってしまう。
 そんなビッグブラザーの支配する世の中で、自己を奪われないためには何をすればよいのか。私は読書会こそがその答えであると思う。ひとりで思考し、学び続けることが難しくても、ともに語り、学び、思考する共犯者がいることで自己を失わずに、思考することを続けやすくなる。そしてそれを発信することで、思考の種を撒き、共犯者を増やしていくことが可能になる。少なくとも私はそういう思い出、読書会―――「闇の自己啓発会」に参加している。
(中略)
 本書が、自分ひとりが周りと合わないことに悩んだり、既存の価値観に疑問を抱いていたりする人に寄り添うものになっていれば嬉しく思う。私もこの読書会を始めるまでは、孤独に生き、人生に絶望するひとりの人間であった。(江永氏に読書会に誘われたのは、私が誕生日に自殺しようとしていたときだった。)しかし「当たり前」をおかしいと感じているのは自分だけでない。世間に殺され、「人形」にされるくらいなら、世間を変革する方がずっとマシだ。そう気付いてからは、自分の思考を発信することで、どんどん共犯者を増やし、「常識」や大きな存在に対抗していこうと思えるようになった。
 この本を手に取ってくれたあなたは、決してひとりではないのだということを伝えたい。そしてもし、少しばかり本書の内容に触発され、面白いと感じてくれたなら、学び、思考し、発信することで、あなたの打ち破りたい何かに抗ってみてくれると嬉しい。思考の種を播き、ともに「開花」の時を待とう。

 これが私たちの、闇の自己啓発だ。
 役所暁


 

劉慈欣『三体』を読んだ!

劉慈欣の『三体』を読みました。

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 「とにかく面白い本がある」という前提知識だけしか持たず、あらすじも知らずに読んだので「えっ!こんな話だったのか!!」と、とにかく嬉しい驚きが何度もやってくる小説でした。
 物語はあの文化大革命から始まって、そこのパートは陰惨極まりなく、本当にSF小説なのか…?と疑問に思うほど。
 しかし、読み終わるとここが起点であったことを理解するというか、ここが起点でなければいけないと思う。
 その章が終わってからは、エンタメの殴打が始まる。
 なんて言ったって、エンタメが盛りだくさん。
 「物理学」の否定から始まり、まるで『リング』のようなタイムリミットサスペンスあり、ヴァーチャルリアリティもあり、目まぐるしく舞台も変わり、そのときに提示される謎も変わり、読み勧めるごとに興奮が高まっていく!
 半分以上読み進めると、色んな意味で超どでかいスケールな話であることがわかり「うへ~」と衝撃。
 こんなにスケール広がって大丈夫なの?と心配になっても、まだ広がっていくスケール。
 このスケールの広げ方に「これは作者の覚悟がマジなやつだ」と思い背筋がしゃんと伸びる。
 しかし、一巻を読み終わって、まあ一巻だからですけども、それでも「いや、これ序章じゃん!!」と驚く。
 ちゃんと「戦いはこれからだ!!」な終わり方もする。
 肝心なもの、つまり広げたスケールのその先は、続く2巻と3巻。
 一体どうなっちゃうんだろう!とわくわくしながら、読み終えたのでした。
 しかし、「俺は馬鹿だからわかんねえけどよ~」なことを言うキャラとして新たな、そして最強なやつこと史強が最高だった。
 『三体』の一巻、だいたいこいつが問題の芯を喰ったり、問題を解決していた。
 がさつで嫌なことを言うけども、誰かが落ち込んでいたら、励ますのが得意…という、こんなの嫌いにならないわけないじゃん。
 最後の「人間舐めんな!(by RHYMESTERのK.U.F.U)」な説得も完璧。こんなことを言われたら、頑張るしかねえよね~。

 Netflixでドラマ化が決定…ってことですけども、陽子のあれとか、どうやって映像化するんでしょう。
 船のあれとか、充分映像的な小説だけども、これが実際に映像化されるとなると、どうやってやるんだろうと思うようなものが多いので、それもまた楽しみになる、そんな小説でした。