というわけでここ数日、更新が増えているのだけども、今の気分的に「雑文を書こう」となっているのであった。
読んでも読まなくても別にいい雑文。
自分としても力はそれほどいれない文章。
私は文章を書くとなるとついつい力(りき)が入るので、その力(りき)を抜こうとしている。
力(りき)って言葉が好きで、なんで好きかと言えば映画『殺し屋1』での菅田俊が「力(りき)いれて探せよこの野郎!!」って叫んでたシーンが好きだからってのがある。
一時期、そのシーンは菅田俊の滑舌がめちゃくちゃ過ぎて、Netflixの字幕が匙を投げたシーンとして話題になっていた。菅田俊の叫びに「(判読不能)」みたいなことが書かれていて笑ってしまった。
というか菅田俊ってもう70歳なんですね。黒沢清のVシネマや90年代〜00年代三池崇史作品に出てるのでしか触れてなかったのもあって、最近の姿を全然知らなかった。
先日見た黒沢清のVシネマ『勝手にしやがれ!!強奪計画』には弱気な元医者役で出てきていて、そのコメディリリーフっぷりが素晴らしかった。
他にも見た黒沢清のVシネマ『復讐 消えない傷跡』の菅田俊も凄く良かった。
もしかしたら菅田俊が好きな俳優なのかもしれないけども、結局のところはわからないし、最近の仕事は一切知らない。全部90年代か、いって00年代初頭だ。
ダウ90000の蓮見さんが遅く映画を見ることを頑張る「遅映画」を推奨していた。
何にしても早く見なきゃいけない、早く話題についていかなきゃいけないってことへのアンチテーゼ的なこと…だと解釈している。
そんでそれには凄く同意する。
先日、Xの映画系アカウントが新作映画を公開から一週間経って見ただけで「遅ればせながら」と書いていた、ゾッとしてしまった。
最近は話題にいかに早く飛びつき、消費できるかが先鋭化しまくっている気がして、それは息苦しいなと思う。
特に映画なんかは、公開初日…どころか、公開初日の夕方くらいには感想が出揃ってる…みたいな状況はやっぱなんか怖いと思ってしまう。
まあ、見て感想を書くのは全然いいことだと思うけども、まるでもうその映画について語り尽くされた雰囲気すら漂ってるの、なんか怖いなって思う。
黒沢清の『勝手にしやがれ!!強奪計画』を見ていて、その映画の楽しさにきゃっきゃと喜んでいたのだけども、同時に「今見なくていい映画を見ている」という感覚に爽快感を感じていた。
最新作でもない、話題作でもない、何かの作品の予習でもない、履修しなきゃいけない作品でもない。
なんとなく、気になったから見る昔の映画。
しかもそれがとても面白い。
なんかその状況に凄く爽快感を感じたのだった。
公開一週間の映画を見ることを遅ればせながら…というのならば、90年代の菅田俊の演技を褒めるのはどれくらい遅ればせながら…なことなんだろう?
けれども、そういうことをしている時間はとても幸せだ。
今、しなくていいことをしている時間に私は喜びを感じるみたいで、その喜びの矢は90年代の菅田俊から放たれている。
