にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

映画『ひゃくえむ。』を見た!

映画『ひゃくえむ。』を見た!

 

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足が速いってことが嫌いだったのは、私の足が遅くて、その世界では勝てなかったからだ。

とにかく子供の世界では足が速いことがナンバーワンで、パワーの象徴で、いけてるってことで、私は、足が遅いから、それが全部嫌で、ただその構造が嫌いって思えば良かったのに、あほだったので「足が速いことが嫌い」と思い込んでしまった。

 

それから何十年も経って、先日の世界陸上2025を観て、かつて足が遅かった少年は、テレビの中で肉体の限界のスピードで走る陸上の選手に感動をしている。

人ってこんな早く走ることができるんだ。

人間の身体ってこんなことができるんだ。

速いって、やばいな。

やっと「速いってすげえ」ってコンプレックスから立ち直った矢先に公開された映画が『ひゃくえむ。』だった。

足が遅いことにコンプレックスが無くなった私は観にいき、劇中何度も繰り返される100メートル走に心を熱くし、ぼろぼろと泣き、そして劇場を出た瞬間に「恥ずかしいけども、今めっちゃ100メートル走りたい!!」って叫んだのだった。

 

 

と、この映画は足が遅かった男に「100メートル」を走らせたくなる魔力がある。

映画館の外が競技場だったらやばかった。ピストルの合図で俺は「どべどべどべどべ」とぼのぼのの走る時の擬音を垂れ流して遅い走りを見せていただろう。けども、その顔は喜びに満ちていて、なぜなら100メートルを全力疾走することでしか見えない景色が見えている。

 

 

小学生から社会人まで、20年に近く及ぶ100メートル走に取りつかれた人々の映画だ。

早く走ることを競い合う。早く走れば全てのことは解決する。

100メートル走のルールは簡単だ。一番速い奴が勝つ。

けれども続けていくのはいつだって難しい。

速く走り続けるのは難しい。

この映画は多くの哲学的な問いが繰り返される。

そしてその問いは全てここに戻る。

「何故走る?」

 

 

私は足が遅かった。だから、走るってことを全然してこなかった人生だ。命をかけて何かに狂い、噛みついて、生きるか死ぬかをやったこともない。

それでもこの劇中での「走ること」の問いは、私が趣味でやっている小説を書くことの問いとして、何度も自分の中で反芻をした。

何度だって心が折れそうな瞬間がある。

誰かに追い抜かれた時、思うように走れなかった時、記録が伸びない時、何のために走ってるかわからなくなった時。

趣味でやってる小説なんて軽くて軽くて仕方ないものだ。

それでも、何度も映画の問いが身体に押し寄せる。

そして趣味の小説じゃ辿りつかないアスリートの残酷な現実がやってくる。怪我と老いだ。

人生をかけていたものが、ある日自分から奪われる。

人生をかけて守っていても、何のために守っているかわからなくなる。

結局、何のために走るのか?

いや、何のために生きるのか?

それは、この瞬間を生きようとするためだ。

明日でも昨日でもない。この今日のこの瞬間を強く生きるために走る。

言葉にすれば簡単だけども、その今日のこの瞬間を生きるために、繰り返し練習し、何度も、何度も、何度も走り続ける。

一瞬の生を感じるためには、走り続けなきゃいけない。

 

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試合時間たった10秒のために、数え切れない緊張が彼らを襲う。

それを見事に表現したのが中盤の長回しだ。

実写の長回しロトスコープで見事にアニメーションにした3分30秒。

完成までに一年を要した、そのカットから伝わるのは、その試合時間10秒までの、途切れることのない緊張だ。

一瞬の走りのために、一瞬の生のために、緊張する時間はずっとある。

そしてその一瞬の走り、一瞬の生のあと、待っているものが幸福とは限らない。

むしろそれは絶望の方が多い。

 

 

それでもだ。

それでも、やっぱり走ることを選ぶ。いや、選ぶしかない。

主人公は絶望の中で、だらだらと明日を生きるのを選択するのではなく、最後に一瞬を走ることを決意する。

かつての友と走る中、最後の10秒の中で、垣間見るのは初期衝動だ。原点回帰だ。生命だ。

ただ走るのが楽しいと、ただ生きるのが楽しいと思った瞬間そのものだ。

 

 

夢と現実、才能と平凡、幸福と絶望。

100分に詰め込まれたこの映画が描くものは、優しい話なんかじゃない。

厳しい、現実の話ばかりだ。

しかし現実を直視すること、ちゃんと直視しきれたものが現実逃避をすることができる。

現実を駆け抜けることができる。

優しくない現実を駆け抜ける姿に、虚しさを乗り越えて走り切る姿に、絶望に飲み込まれる前に最後の生きた証を残すように走る姿に、心は熱くなり、俺も思うのだ。100メートルを走りてえと。己の100メートルを走りてえと。

己の100メートルはどこにあるのか。それはわからねえ。ただ、それを走らなきゃいけないのだ。

それを全力疾走しなきゃ、その全力疾走した時に見える景色を俺は見たいんだ。

だから、映画館の外で俺は100メートル走りたいと叫んでる。それは現実の100メートルもだけども、俺にとっての100メートルだ。

それは頭の中にあんのか?それは世界のどっかにあんのか?人生に落ちてんのか?どこにあんのかすらわかんねえ。

そんで、走れるのか?それすらもわからねえ。

でも、どれだけ、遅くても、どべどべどべどべと音がなるような遅い遅い遅い走りでも、走りてえ、走り切りてえ、いや走らなきゃいけねえと叫んでる。

いくらどべどべどべと遅かろうが、走らなきゃいけない。

それこそが人生だからだ。

生きるってことだからだ。

 

 

スターティングブロックに足を乗せ、両手を地面につき、息を吸う。その先を見据える。100メートル先に何が見える。まだ何も見えない。それでも多分100メートル先を睨みつける。

ピストルが鳴る。

力強く地面を蹴る。

その一瞬を走るために。

その一瞬を生きるために。