にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

ただなんかいいなって空気

「ただなんかいいなって空気……」って書くと、私はすぐにsyrup16gのrebornの歌詞を思い出してしまうから、頭の中で五十嵐さんが叫び始めちゃって大変だけども、それはそれとしてただなんかいいなって空気に出会うのは本当に難しい。

「ただなんかいいなって空気」ってそもそもなんだろう?と思うけども、言語化できないから「ただなんかいいなって空気」としか言いようがないのだと行き当たる。

そしてそんな言語化できないものは、作り出そうとして作り出せるものじゃない。

 

 

 

わたしのような天気さんがやられているpodcast『物語に支配されたこのからだ』の第6回、CMディレクターの岩崎裕介さんがゲスト回で「本当に出会った凄い現実を虚構に落とし込むにはどうしたらいいのか?」とまじで凄え悩み合う場面が出てくる。

 

■006 挑み続ける。途方もないほどの現実に。 ゲスト:岩崎裕介 - 物語に支配されたこのからだ | Podcast on Spotify

 

 


岩崎さんは自分が作っているものよりも、突然現れた老人が放った一言の強さに愕然とし、わたしのような天気さんは、ふと深夜にベッドで唸り始めた時の空気を、映画に焼き付けたいけども、それがどうしてもできないと嘆く。

老人はともかくとして、その深夜にベッドで唸り始めた時の空気を「ただなんかいいなって空気」と言うのは違うけども、言語化できない空気であるのは間違いないはずだ。多分。

その言語化できないものに、私たちは衝撃を受ける。それをそのまま別メディアに転写するのは本質的に難しい行為なんだと思う。

意図的に作り出すのも、勿論のことながら難しいことなんだと思う。

 

 

 

映画『リンダリンダリンダ』のことをみんな凄く好きなのは「ただなんかいいなって空気」が全編通して漂い続けていたからじゃないかなと今書きながら思っている。

人工的に、作れるはずのない「ただなんかいいなって空気」が何故か作れて、映画という別メディアに転写できている。

その奇跡に驚き、感動し、癒され、時には悔しいとも思い、最後には呆然とするんじゃないかと思う。私はそうだった。

 

 

 

自分の人生を思い返した時、ただなんかいいな空気は確かにあったと思う。

けれども、それがいつ発生したのか、どうやって発生したのかは、やっぱり思い出せない。

ただ、沢山のゆるい空気から生まれた気はする。

リンダリンダリンダ』で流れていた「ただなんかいいなって空気」がそうであったように。

緊張感がなく、それでいて、沢山の会話があった時に、ただなんかいいなって空気があった気がする。

沢山の無駄話の果てに、私はただなんかいいなって空気に触れたような、そんなことを思い出してる。

 

 

 

だから、ただなんかいいなって空気にまた触れるには、沢山無駄話をしなきゃいけないなって思う。

それは大人になるととても難しいことだなと思う。

もう部室はないし、深夜のファミレスだって全然行けない。明日は仕事だし、家族だっている。

けれども、たまに無駄話を沢山重ねたいなって思う。

本当にたまにでいいから、無駄話を沢山重ねて重ねて重ねて重ねまくる、そんな日、もしくはそんな夜があったらいい。そういえば「ただなんかいいなって空気」は夜の方が発生しそうな気がする。

だから、たまには重ねまくった無駄話のその先にある「ただなんかいいなって空気」に触れられたらって思う。

 

 

そしてその空気は、やっぱり別メディアに転写するのは難しいんだろうと思う。

それに思い悩むんだとも思う。

「ただなんかいいなって空気」を書くことができたらいいなって思うけども、そのときは「ただなんかいいなって空気」を言語化できてるわけで、それは作り出せるかもしれないわけで、それってもはや神様じゃんかとも思ってしまう。

そこまで行き着いて「ただなんかいいなって空気」を人工的に作り出すのが難しいことなんだなと、改めて思う。

誰も神様にはなれんのだ。

そして誰も神様になれないのに「ただなんかいいなって空気」が充満していた『リンダリンダリンダ』のことを神格化してしまうのは、そういうことなのかもしれないと思ったりするのだった。

 

 

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