ここのところはなるべく毎日散歩をしようとしている。
毎月受診している精神科の先生から「散歩をして喫茶店にでも行って外になるべくいるトレーニングをすればいいですよ」と言われたものあって、私は律儀にそれを守っている。
散歩くらい簡単なことのように思えるけども、意外と大変で私は結構な頻度でいつも行っている270円でアイスコーヒーが飲める喫茶店の喫煙室の片隅の椅子で「ぐでーん」と死んだような顔をしている。
しんどい。
しんどいという感覚を伝えるのは難しい。
自分自身でもなんでこんなにも疲れやすくてすぐにしんどくなるかわからない。
やっぱり鬱になっちゃったからなんかなって思うけども、だからと言って家に籠もっていても社会復帰は遠ざかるばかりになってしまう。
遠く、遙か遠くにある社会復帰。
私は社会復帰という天竺に向かって歩かねばならないのだ。
そこにゆけば全てが叶うと言うよ。ゼイセイイットワズインディア。
社会復帰をしなければならない。
ここまで「うち、社会復帰せなあかんねん」と思ってるのには、いろいろな要因はあって、やっぱり一人で生活できるくらいのお金を稼げるようにならないとあかんなあって思うし、社会から隔絶した状態で生活をし続けるのって精神的にもよくないってのもある。
でも一番大きいのは「世間からズレていく」のがとても怖いなあと思う。
世間からズレていく。それは価値観もだし、感覚も、そして思想や言葉も、全てが世間からズレるのが怖いなあと怯えている。
何より、世間からズレてしまい、私は私の世界の中で生きてしまっているという状態になるのが嫌だなって思う。
世界で生きたい。ってクレヨンしんちゃんの映画オトナ帝国の逆襲のクライマックスでしんちゃんが未来で生きたいって叫んでいたことを今思い出している。
世間からズレるってのはそれの反対的なもので、自分にとって心地いいもの、もしくは自分にとって都合のいいことばかりで構築した価値観や思想や言葉だけで埋め尽くして、それを世間や世界が容認しないことに腹を立ててしまうことだと思う。
それは嫌だなと思うし、不健全な気がする。
と、同時にですが、自分にとっての大切な守るべき小さな世界はもってるべきだと思う。というか絶対に大事だ。
文春オンラインに載っていたDr.ハインリッヒさんのインタビューで「自分の中にいる小さな女の子を守るために戦っている」という言葉があったけども、誰しもがそういう守るべき己というものはあって、それは絶対に守るべきだし、守るためなら戦わなきゃいけないと思う。
「“女のクソ仕事”が来ないようにしたい」『M-1』YouTube動画から異例のブレイク、Dr.ハインリッヒが語る“強烈”すぎた「トラウマ体験」 | 女芸人の今 | 文春オンライン
鬱になっていった過程を考えるとやっぱり私はその守るべき己が守れなくなってしまい、それで心を病んでしまった。自分の中には社会や世界がなんと言おうと明け渡してはいけない一線はあって、それを守ること、その線を超えさせないことはとても大事だと思う。
それで社会復帰の話に戻るけども、社会から隔絶された状態だとその一線の位置がわからなくなってしまうんじゃないかって不安ももの凄くあるのです。
なんならその一線の位置がどんどん変わってしまう。
高い場所だったり、妙な座標にズレてしまったり。
言い方を変えると自意識が妙に高くなったり、付き合いづらい人になっちゃうんじゃないかなと思ったりする。
勿論、プライドはあるべきだと思う。一線の話はそういうことだし。
しかしプライドは捨てるべき瞬間もあるし、捨てられるプライドもある。
超えていい一線もあるし、一線の位置を変えるのも大事な瞬間もある。
でも、それがわからなくなってしまうんじゃないかなって私はずっと思ってる。
気がついたら社会から5年もドロップアウトしているわけだし。
私は年齢通りの人間に本当はなっていきたい。今は31歳なんだけども、31歳ならば、31歳として生きていたいと思う。
でも認知ってすぐにゆがんでしまう。
まだ24歳くらいの感覚だったり、もっと下手したら10代くらいの気持ちになってしまうことだってある。
それが怖い。
31歳ならばちゃんと31歳だって思っていたい。
別に「まとも」とされる生き方が一番だって思ってるわけではない。
色んな生き方があっていいと思う。まともでもまともじゃなくても、どんな生き方でも全然いいと思う。
ただズレてしまって、そのズレを使って加害的になりたくないって思う。
忘れたくないのは20歳の頃は30を超えた人はとても年上に見えたこと。
忘れたくないのは自分と同じ年の人には子供がいること。
忘れたくないのは自分が31歳で、若いとされる時間は過ぎていき、人から貰うのではなく、人に与える時間に入っていること。
忘れたくないのは私はもう大人だということ。
社会からドロップアウトして5年経っている。それだけでズレている。
もうズレてしまっている部分は沢山ある。認知している部分、していない部分でも沢山ある。
修正できるものもあれば、すぐには修正できないもの、もう難しいもの、ありとあらゆる部分があると思う。
ズレているならズレていると思うこと。
直したいズレなら直したいと思うこと。
そういうことに敏感でいたいなって思う。
同時に、私だからできることもあると思う。
社会からドロップアウトをして、散歩をして、しんどいっていいながら社会復帰したいなあって願う私だからできることもあると思う。
ズレているからこそ人に優しくできることも沢山あると思う。
社会でずっとやっていますよって人がめちゃくちゃズレていることを言うとか本当よくあることでもあるし、その逆もまたしかりだし。
長々と言ってきたけども、結局のところは私は優しい人間でいたいと思う。
優しくあるって本当に難しいと思う。
心は簡単に淀む。
加害的になることも多くある。
だからなんだけども、優しくありたいって思う。
凄く難しいことだと思うし、結構すぐ私は「どないしたらええんじゃ~どないしたらよかったんじゃ~」って大河ドラマの龍馬伝で切腹を決断する前の大泉洋のようなリアクションになっちゃう。
それに悩み続けるのは体力を使う。
むしろ体力がないときは本当にできない。
それでも、なるべく悩みたいし優しくありたいなって思う。
そういう風な人間でいたいって思う。
私が物語の登場人物なら「優しい人」として出てきたいって思う。
『マグノリア』でフィリップ・シーモア・ホフマンがやっていた介護士みたいな、優しい人。
でもあそこまで優しい人になるのは難しいんだろうな。
「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」って探偵フィリップ・マーロウは言っていたらしい。かっこいいこと言い張るね。
でも"らしい"って言っていたように引用をかましたわりに『長いお別れ』も『ロンググッドバイ』も読んでいない。
読んだ本は読めよ!って文章が舞城王太郎の『ピコーン!』にも出てきたけども、本当読んでない本が多くて嫌になるよ。読書家になりてえ。俺は読書家になりてえよ。
ただ『ロング・グッドバイ』の映画は見ました。ただ映画版にはそんな台詞出てこなかったぞ。
でも、夜中に猫がお腹を空かしていたら、めんどくさいなあって思いつつ、ネクタイを締めて、餌を買いに行くくらいの、そんな人間ではいたいなあって思う。
そんな今日この頃の俺だ~(EXITの漫才で出てくるこのフレーズ大好きです)