にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

映画『リング』を見た!

『リング』を見た。1998年、中田秀夫監督、高橋洋脚本の映画。

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見たら一週間後に死ぬビデオを見てしまったので、一週間でなんとかしようとします。


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Netflix呪怨の最新作『呪怨 呪いの家』が配信開始になって、評判の高さにすぐつられてしまって「私にも見させて…」とかぐや姫の解散コンサートに入った謎の声のトーンで呟いて、『呪怨 呪いの家』への気持ちを高めていたんだけども、ちょいちょいちょいと肩を叩いて止めるもうひとりの私がおりまして。
「そういえば、あんた、ちゃんとホラー映画見とらんじゃろ」って言うてきはって、そういえばちゃんとホラーを通ってないな、じゃあ見なきゃなと思い立ったのが先日。
まず最初に見たのが『呪怨 呪いの家』でも脚本を書いている高橋洋が監督と脚本を手掛けた映画『霊的ボリシェヴィキ』で、これが私の感受性の真ん中にブルショットしたので、じゃあ高橋洋作品をもっと掘ろうとなり、高橋洋が脚本を手掛けた黒沢清監督で哀川翔Vシネマ『復讐 運命の訪問者』を見て、またそれが感受性にブルショットして、今度は黒沢清監督ももっと見たいってなって、続けて運命の訪問者の続編であるものの高橋洋は脚本には関わっていない黒沢清監督脚本で哀川翔主演のVシネマ『復讐 消えない傷痕』を見て、それも更にブルショット
もう掘れば掘るほど、凄まじい作品がどんどん湧いて出てくる(というか存在していたが、見る行動を移していなかっただけなのですが)状況に発狂しそうなほど喜んでしまい、それと同時にここ数年はあまり湧き上がってこなかった映画をもっと見たい欲が一気にエンパイアステートビルの高さ並みに急上昇と、初めてのデートの心臓の高鳴りをビルの高さで表現するダンサー・イン・ザ・ダークビョークが私は好きなのですが、それの状態になりまして、気になった映画をとにかく見ていて、それと同時に「呪怨 呪いの家」からはどんどん遠ざかっているというのが現状です。
いつになったら『呪怨 呪いの家』にたどり着くのだろうと思いつつ、ホラーは映画演出の進化の歴史でもある…とタマフルで三宅隆太監督やライムスター宇多丸が言っていたようなことを心の中で反復して、沢山映画を見ていくことで今見るよりもホラーの最新系である『呪怨 呪いの家』がもっと楽しく見れるのならばそれはそれでいいかなとも思っている。

と『リング』の感想を書く前に、延々と極私的なことをつらつら言っている。申し訳ない。しかしこれは2020年7月の私の感想なので、そこの前提での感想なので外せないのだ。
というわけで『リング』をやっと見た。よくTwitterの映画感想で「今更〇〇を見た」の今更であげている映画が去年くらいだったりすると、夏場の生鮮食品ほどのあまりの鮮度の短さに驚いたりするのですが、2020年に見る『リング』は思わず「今更なんだけども…」と言っちゃうそうになった。
まあ『リング』である。鈴木光司が1991年に発表した小説が原作で、幾度となく映像化され、もはやベタを通り越してメタな扱われ方さえされている作品である。と言っても、2020年に『リング』を見た私は派生作品のどれも見ていないし、原作も読んでいない。コワすぎ!劇場版を2回劇場で見て、サイン会に行ったほどの白石晃士監督ファンの私でも、それぞれの作品をちゃんと見てないから…って理由で「貞子VS伽椰子」を見ていなかった。あと最近の白石晃士作品は全然追えていなくてそれでもまだファンって言っていいかな…?って気持ちもある。

ここまで『リング』を避けてきた理由としては、小学校の頃まで遡る。小学校の頃、文化祭でお化け屋敷をやっていたクラスが、よりにもよって廊下で『リング』を流していて、そのときにたまたま見ちゃったのが「超能力実験」のシーンで、それがめちゃくちゃ怖くてしばらくの間トラウマだったのです。
しかもその小学生が廊下で流していた『リング』は当時のゴールデン洋画劇場での放送回を録画したやつで、怖いシーンのあとに唐突にCMに入ったりするやつだった。あのときの体験のせいなのか、これは皆が共通で持っているものなのかわからないけども、テレビCMを家じゃないところでふいに見せられるのってなんか気持ち悪くないですか。
youtubeで昔のテレビ番組を上がっていて見たら、編集していなくてそのまま当時のCMも流れる…ってのがあったのですが、それもすごく気持ち悪かった。ただ昔のテレビCMをまとめた動画とかは全然みることができる。この気持ち悪さは一体なんだろう。

というわけで、その時の体験が2020年まで『リング』を見るのを遠ざけていた要因でした。
しかしもう2020年になってしまった。テレビもブラウン管ではなくなり、薄型の液晶テレビになった。アナログ放送も終了してしまったから、テレビは砂嵐を流さなくなった。何よりもテレビは24時間流れ続けている。放送終了という一日と一日の隙間の時間すらもはや存在しない。
そしてVHSテープは消えてしまった。テレビはハードディスクレコーダーで録画したり、なんならTVerで配信を見るようになっている。なんなら映画はすっかりレンタルしなくなった。ビデオはDVDに変わって、Blu-rayはなかなか普及しそうでしなくて、そして今やNetflixだ。
1998年はすっかり過去だ。大過去だ。
VHSビデオで人々を苛立たせていたトラッキングノイズは今や「クール」な表現として様々な映像に用いられている。
テープを使わずに撮った映像に、あとから編集でトラッキングノイズを乗せるという倒錯的なことすら起きている。
私の実家にも山程のVHSテープがあった。私が学生時代に撮りためていたテレビ番組の数々。それも去年一気にすてた。多分、映像を吸い出せば歴史的価値のあるものもあっただろうけども、それをする体力も気力も無かったから一気にすてた。壁の一部になっていたVHSテープはゴミ袋二袋になって、そして実家から消えた。

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よく「映画は映画館で見なきゃいけない。家で見ても映画を見たことにはならない」なんて意見が出てきて、そのたびにうるせえなー!と思うわけですが、それでもNetflixで見た『リング』は、あの人々を震え上がらせた『リング』ではないのだろう。
高橋洋の脚本だから…と強引に並べて比較するのは暴力的なことではあるけども、高橋洋脚本で前年の1997年に発表されたVシネマ『復讐 運命の訪問者』が1997年という時代を感じさせない、というより「時代感」や「場所感」を固定せずに作られているのに対して、『リング』は90年代末期の空気を取り込むだけ取り込んで固めきったような作品だ。
なにせ物語を動かしていくものがその時代のものであり、今は消えてしまったものばかりなのだ。
見たら一週間後に死ぬ呪いのビデオは「噂話」で広まっている。そこに「ネット」の影はない。呪いのビデオが見つかる場所もペンションの貸しビデオコーナーだ。そういえば昔はこういうのが宿泊施設にあった。配信がない時代は映画を所有するしかなかったし、その物理メディアを貸し出すサービスがあったし、映画を見るにはその物理メディアを手に入れなきゃいけなかったのだ。なんという面倒くさい時代なのだろう!
呪いのビデオを見たあと、固定電話に無言電話がかかってくるのも、今では難しい表現かもしれない。しかし「固定」電話がこの『リング』では謎解きのキーになっている。その場所にずっと固定された電話。その場所に固定されているから、その場所と異界を繋ぐ役割を担うことになった電話。
今でも固定電話はあれど、それは「まだある」というものだ。それしかなかった頃とはわけが違ってくる。
『リング』には「それしかなかった頃」がぎっしり詰まってる。それしかなかったからこそのサスペンス。それしかなかったからこその恐怖。

しかし『リング』を見て驚いたのはあれほどキャラクター化し、その後のホラーアイコンになった山村貞子の存在感の薄さだ。
あの見ていなくても、みんなが知っているシーンのテレビから這い出てきてばぁーん!!!…はあれど、出演シーンはほぼそれだけだ。乱暴な物言いをするとその出演シーンだけで貞子はホラーアイコンになったように思えた。
このシーンは多くの作品に影響を与えたり、パロディ化されたり、アイドルがきゃーっと叫ぶシーンが撮りたいバラエティ番組で流されたりした。
今、ブレードランナーを見てもその街並みや未来像が後の作品のスタンダードになりすぎてもはや衝撃を覚えないのに近いかもしれない。
ライムスター宇多丸さんが原作を読んだ上で映画『リング』を公開時映画館で見たそうですが、貞子がテレビから這い出てきたとき、大勢の観客は恐怖のあまり絶叫し、中には恐怖ですすり泣く人もいたそうだ。なにより宇多丸さんはあの貞子が這い出てくるシーンで「俺、こんなシーン知らないんだけど!!」と原作には無い、その展開に本気で恐怖を覚えたと言っていた。
2020年、今『リング』では悔しいけれどその恐怖は味わえない。沢山、影響下にあるものを見てしまった。『リング』が世界を変えてしまった。その変化に立ち会ってしまった人々が羨ましい。私は知らなかった。変えられてしまったあとの世界を生きていたことに。今見ても変化の起点を確認することに近い。衝撃は確認できるが、衝撃を受けることはできない。

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しかし2020年に見る『リング』だけども、面白くないわけではない。むしろ、こんなにめちゃくちゃに面白い映画だったんだ!と嬉しくなってしまった。
大きく『リング』をジャンルで分けるとホラーになる。でも、その中にはミステリーもあれば、サスペンスもあれば、バディ物アクションとしての一面もあるし、不器用なラブストーリーという側面もある。こんなに要素が盛り沢山な作品だとは思っていなかった。
物語を動かしていく小道具や舞台設定が今はもうない物だという話はしたけども、それでも作品の持っているタイムリミットサスペンス性は失われていない。むしろ「ここで携帯があれば!」「ここにネットがあれば!」と別の意味でやきもきしてしまった。便利になりすぎる前の世界だから、何をするにも時間がかかる。そのことが一週間しか時間がないことと相性がめちゃくちゃにいい。

原作を読んでいないので、あとから知って驚いたのが真田広之演じる高山竜司の設定だ。霊能者という設定が映画オリジナルだとは。原作ではそういった意味の能力はない普通の人だとはまさか思わなかった。
高山竜司が霊能者かそうでないかは凄く大きな相違じゃないだろうか。どのように貞子を探していくかにもつながるけども、一番は高山竜司が霊能者であることはそれは常に「異界」と接続した状態で物語が進むことじゃないだろうか。
超能力者、念写されたビデオ、一週間で死ぬ呪い。
後に原作での貞子の呪いは科学的に解き明かすという聞くだけで超かっこいい展開になっていくそうなのでそれは読みたいと思うのですが、ただその科学的に解き明かすということは一切無視をして、異界(もしくはこの世の存在じゃないもの)に触れてしまったことへの恐怖や嫌悪がこの映画『リング』には満ちている気がする。(そしてそれが私が小学校のとき、廊下で見てしまって、恐ろしいものを見てしまったという原体験に繋がっている気もする)
それは高山竜司が登場するシーンにも現れている。まるで嵐のような雨が降り続ける中、高山はやってくる。異常な天気を運んでくるのだ。
そして高山は松嶋菜々子演じる主人公の浅川の部屋に入るなり、何かを感じる。何かがいて、それを感じた瞬間、少しカメラの位置が高くなる。なんとぞくっとするシーンだろう。
しかし高山は霊能者であるが、異界に対抗できる手段を持っているわけではない。感じ取れるが、対抗できる力があるわけではない。
映画の中盤、呪いのビデオを見てしまったあとのことだ。高山はバスロータリーの近くにあるベンチに座って書物をしている。時間はまだ日中で、人通りも多い場所だ。
高山がうつむいて、ペンを走らせている。そんな視界を表現するかのように、人々の往来も画面には入っているが、主に写っているのは足で、それぞれの顔までは入っておらず認識はできない。
往来は激しい。多分、駅前なのだろう。大勢の人が行き交う。その中に、白い靴を履いた人がいる。顔は見えないが、靴や足で女だと思う。
その白い靴の女は人々の往来の流れから、すーっと離れて、高山の近くにやってくる。
高山と観客はその時に確信する。
この白い靴の女は生きていない。この世の存在じゃない。
感じ取ることはできる。この恐ろしい存在を。
でも消し去ることはできない。対抗できる手段はない。
見えているのに、いや見えているからこそ、その力まではないことが恐ろしい。
だからぎゅっと目をつぶる。それしかできないからだ。
私はこのシーンが一番怖かった。

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浅川と高山は一週間後に訪れる死から逃れるために、呪いをなんとか解除する方法はないか?と奔走する。
呪いのビデオに写った一見意味不明な映像の断片から手がかりをなんとか得ようとする。
この意味不明なものがある瞬間に「そういうことだったんだ」とわかる展開はミステリー的に気持ちいい。
特に一番好きなのは覗き込む男だ。とてつもなく不気味なものが、もっとも残酷で最悪な瞬間を切り取ったものだったとわかるの瞬間の居心地の悪い気持ちよさ。
意味不明な映像が、徐々に意味を帯びていき、断片をかき集め、結局は始まった場所に戻っていく徒労感。
しかしもう時間はない。
時間がない中、貞子の死体を見つけなければならない…!と浅川も高山も何より観客である私も思い込んでいる。
見つけなきゃいけないんだ!と井戸を探し当て、井戸に降りて、汚い水をかき出していくシーンはやっていることこそ、地味なんだけども、ものすごく面白い。夕方から始まり、徐々に沈んでいく陽、やってもやっても終わらない作業、そして肉体の疲労感。時間がない、その絶望感を前に、抗おうとする姿は手に汗を握りすぎてびっしょびしょだ。
Jホラーは欧米ホラーと違ってしっとりしてるよね~なんてJホラーブームのときはよく聞かれた言葉だ。
『リング』も映る風景や小道具はたしかに日本的なものを使いまくってるし、日本的な湿度を感じる。しかしこと話運びや演出には欧米エンターテイメント映画の演出をしっかりと踏襲したものだった。
印象に残るのは「しっとりさ」の部分かもしれない。でもその実、ここまでエンタメに振り切った作品だったとは思わなかった。
その演出や話運びの結果『リング』はとても盛り上がるし、ハラハラドキドキする。そしてだからこそ落とされる。
いつの間にかかわいそうな女の子である貞子を成仏させてあげようという情の部分の救済こそが呪いをとき鍵だと思いこんでいた。
しかし、そんなことはどうでもよかったのだ。
呪いはそんなことでは解除されない。
もっとシステマティックなものだ。
これまでのことは無駄だった。
あの足掻きは全て無駄だった。
それがあのシーンだ。点いてなかったはずのテレビがつき、井戸を映し始め、そしてその井戸から女が這い出てくる。女が近づいてくる。
そして起こるはずのないことが起きる。
映像の中の女がテレビから這い出てくる。
呪いはもっと漠然としたものだと思っていた。違う。
呪いは具体的な形として出てくる。
映像を、映画を、安全なものとして見ている。それは作りものだから?違う、隔たれているからだ。
スクリーンで、テレビで、ディスプレイで隔たれているからだ。
でもその境界線は壊される。
その境界線が壊された瞬間、そのこの世のものではない女の名前を皆が覚える。
貞子は映画を安心して見ていた人々の目の前に現れたのだ。
高山竜司は死の間際にある言葉を残す。それは編集でカットされたが、高山はこう書き記した。
「地獄は実在する」

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高橋洋の著書『映画の魔』に収録された『リング』の回顧録によると、それでも貞子が出てきたシーンの演出には不満を持っているようだった。

"しかしクライマックスの幽霊はまたもや失敗してしまった。逆回転で撮影した"人間ならざる"動きはまずまずとしても、致命的なのは光線である。あの光はそこに立っているのが生身の人間でしかないことを明らかにしてしまった。『リング』のテーマとは念写ビデオが示すように光を媒介としない映像が実在する怖さだったはずなのだが。今回は安全策をとり、幽霊の顔は最後にチラリとしか見せないことにしたのだが、実はあの顔も……不満なのだ。ここから先はもはや方法論の世界ではない。もっと表現の根幹にあるモノ、映像に呪われ取り憑かれているかどうかの領域にある。”

「またもや」や「今回」とは、中田秀夫監督、高橋洋脚本で作った前作『女優霊』のことである。高橋洋は『女優霊』で出てきた幽霊がどうしても人間にしか見えないことを失敗だと捉えていた。ただ『リング』では前作で培った関係から豊かな連携プレーが出来たと語っている。しかしそれでも納得はいっていない。あの伝説になったシーンであるが、満足はいっていない。高橋洋はあのシーンで「人生に深刻な変更を迫る」ような「根深く突き刺さるような」恐怖を与えたかったと語る。あのシーンはただびっくりしただけだと言う。そして編集で「地獄は実在する」がカットされたことも当然だと言う。なぜならば「この映画に地獄の臭いはしない」からだと。


それでもと思う。この映画は1998年当時、十分に、いや十分以上に恐ろしかったはずだ。そしてやっぱり「地獄は実在した」と感じさせるものがあったから、誰もが覚えるJホラーの名作になりえたのだろう。しかし、それはある種の同時代性による臨場感もあっただろう。また中田秀夫監督の演出の塩梅が安全バーがしっかりと降りきって絶叫マシンのようなものだったから、つまりは「人生に深刻な変更を迫る」ような恐怖じゃなくとも、「根深く突き刺さるような」恐怖じゃなくとも、驚かしだったとしても、たとえ安全バー降りきって安全性が保証された中だったとしても「地獄は実在した」と感じさせれたからこのように広く見られる作品になったのではないかとも思う。
高橋洋はこの「リング」を見たら本当に人生が変わってしまう「呪いのビデオ」にしたいと思った。しかし中田秀夫監督はどれだけ叫んでも家に帰ることができる「ホラー映画」に収めた。
『リング』からは地獄の臭いがしないかもしれない。だからこそ、この映画は多くの人に見られ、そして貞子はホラーアイコンになりえたのだ。


2020年に見る『リング』は震えるような怖さはもう残っていない。それについては高橋洋がこのようにも書き記している。

"『リング』のヒットによって恐怖を保証するのはマテリアルな工夫の積み重ね、方法論だという認識はある程度普及するかも知れない。それはそれでけっこうなことであり、恐怖映画全体の質が向上していくのはよいことだ。だが方法はしょせん方法に過ぎない。普及してしまえば表現としては死ぬ。"

呪いのビデオによる死を回避するには、ビデオをダビングして他人に見せる必要があった。同様に『リング』に詰め込まれた恐怖は共有されるように多くの人に見られ、以降のホラー表現に大きな影響を与えた。全世界に『リング』のホラー表現は行き渡った。それゆえに『リング』のホラー表現は死んでしまったのだ。
しかし高橋洋はこうも続ける。

"重要なのは新たな方法を欲望する、その表現の根幹にあるモノ、呪われ取り憑かれた"恐怖魂"なのだ。"
『リング』が発表されて22年が経った。恐怖の現在はどうなっているのだろうか。恐怖の表現はどうなったのだろうか。
私はもっと知りたい。そしてこの目で見たいのだ。
人生に深刻な変更をもたらす恐怖を。
根深く突き刺さるような恐怖を。
地獄の臭いがする映画を。
見てしまったからこそ、高山竜司が「地獄は実在する」と書き記せたように。

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参考文献: 高橋洋, 『映画の魔』, 青土社, 2004年