にゃんこのいけにえ

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『女優霊』を見た!

『女優霊』を見た!1996年の中田秀夫監督、高橋洋脚本の映画。

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映画を撮っていただけなのに…

というわけで中田秀夫監督のデビュー作でもあり「〇〇しただけなのに」シリーズの第一作である。第二作は『ビデオを見ただけなのに』こと『リング』だし近年ではシリーズ最新作『スマホを落としただけなのに』の2作のヒットも記憶に新しい。最新作は『家に住んだだけなのに』こと『事故物件』である。
というのはまあ、面白くない嘘ですけども、中田秀夫監督はある意味「〇〇してしまっただけなのに」というホラーを撮っているのかもしれないし、それは観客にとって一番怖いことかもしれない。
というのも、因果関係が全くない酷い目に合うのがやっぱ一番嫌だし、怖い。むしろ因果関係があるのは安心して見ることができる。だからホラー映画の若者はめちゃくちゃはしゃいで「こいつうざいな、酷い目合わないかな」って思わせるわけだし(因果関係で考えると実は歪んでいるんだけども、観客の感情的な因果でいうと成立しているからあり。だって観客は調子に乗ってる若者が酷い目に合うところを見たいから。酷いですね)こういうことをしたから襲われているという説明をつけるホラー映画も沢山ある。
そういう風に因果関係を建てるのはさっきも書いたように安心して見ることができるからです。じゃあ因果関係が成立していなければどうなってしまうのか?
あまりの不条理さに、耐えられなくなってしまうのではないのでしょうか。
だからこそとても怖い。
Jホラー映画の名作である『リング』と『呪怨』がともに因果関係が成立していない作品です。
「ビデオを見ただけで一週間後死んでしまう」「家に入っただけで呪い殺される」
そしてJホラーの始祖の作品とも言われている『女優霊』も因果関係が崩れた恐怖を描いた映画でした。


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さて、怖い話からずれてしまいますが、『女優霊』という映画はホラー映画でもありつつ、映画製作内幕物としての魅力も存分にあります。
映画製作内幕物といえば古くはフランソワ・トリュフォー監督の『アメリカの夜』(1973)や最近では『カメラを止めるな!』(2017)もそうでした。
映画製作内幕物は結構繰り返し作られているジャンルで、まあ他の仕事について映画はずっと取り上げているのに、自分自身の仕事を取り上げる作品がなかったら変だよねとは思いつつ、それでも映画製作内幕物はお仕事物とは少し違った手触りを感じます。
というのもそこにあるのは熱狂であったり、大変さであったり、それでも喜びであったり、まるで終わらない文化祭の準備のような興奮が詰まっていてそれは見ている私達も「うわ大変そうだな。にしても楽しそうだな」と思ってしまうのです。
映画製作内幕物を作る人々はそれに気がついているのでしょう。「映画作りより楽しい仕事はないよ」と言いたいかのような不敵さと楽しさに満ちた映画製作内幕物を見ていると私はその熱にやられて、なんか作りてえ~みたいな気持ちについついなってしまうのでした。
しかし、映画製作がそんな甘い話じゃない…ってのはもちろん内幕物でも描かれていますし、報道等でもされていることです。
とてもきつい世界なんだろうなと思いつつ、それでもそこにある一瞬の喜びを、羨ましく思ってしまう。それが映画製作内幕物の楽しさだと思うのです。

『女優霊』は怪異が起こるまではある新人映画監督(演じるのは柳ユーレイ。現:柳憂怜)が映画作りに奮闘する、そういう映画製作内幕物のような雰囲気なのです。むしろ、その新人映画監督の頑張りがとてもきらきらしていてたまらない。昼休みですら、休まずにどう撮るかを考えて、誰もいなくなったセットでカメラアングルを考える。そしてそれを支えるベテランスタッフ。ベテランカメラマンを演じるのは大杉漣で、リハーサルをしながら「ここは割ろうか」と指示を出す姿がかっこいい。他にも映画監督でもおなじみのSABUもいたり、結構なメンバー勢揃いである。
そして役者には新人女優もいる。緊張しっぱなしだけども、新人映画監督は「この作品で、この子を女優にしてみせます」と静かに意気込んでいる。
もうなんていうか、たまらない世界観ではないか。なんという情熱の塊、なんという熱意。

しかし、それはゆっくりと壊れていきます。なぜ?ちゃんとした説明はつきません。でもどこかのタイミングで触れてしまったのです。触れちゃいけないものに。


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初めは撮影したフィルムに「撮っていない映像」が混じってくるのです。どうやらそれは昔の映画のようだ。でも、その映像には妙な白い服を来た女が映っている。しかもその女は笑っている。それと同時にその映像には階段を登る子供のシーンもありました。それを見て新人映画監督は「あれ?」と思うのです。このシーン、どっかで見たことあるぞ。これって子供の頃に見たとても怖かった映像じゃないか?
脚本の高橋洋は子供の頃に見たとても怖かった映像について著書で繰り返し触れています。白いぼんやりした存在がドアをすり抜けてきて叫び声をあげるという映像。これは『シェラ・デ・コブレの幽霊』という作品の予告編だったのではないか…となっています。
しかし、後年、この作品を見てみても記憶ほどは怖くなかったそうです。
映像によって植え付けられたトラウマは徐々に高橋洋少年の中で巣食っていき、後年、この恐怖をもとにして作られたのが『女優霊』と『リング』だと思うとまた凄まじいものを感じます。
映画『女優霊』に戻ります。このフィルムに撮っていない映像が混じってしまったのはどうやら、未現像のフィルムを使ってしまったからというのが原因だったというのです。映画撮影のためにフィルムをかき集めているうちにこういうのが混じってしまっていたというのです。一安心、そのはずでした。
しかし、徐々に怪異は近づいてくるのです。だって一度触ってしまったから。


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中田秀夫監督が本当に撮りたいのはメロドラマだというのは有名な話ですが、この作品も結構メロドラマ風味なところもあります。新人映画監督と主演女優が電話で話す場面とかメロドラマの演出で撮られていますし、なんならこの『女優霊』の劇中で撮られている映画内映画はメロドラマ作品です。中田秀夫監督は長編映画デビュー作の中でホラー映画とメロドラマと映画内幕物、その3つをやっていると思うとなんて贅沢!と思いますし、同時にこれはもう無くなってしまった風景の映画でもあります。
劇中怪異のきっかけにもなる未現像のフィルムも、撮影所も、その空気も、もしかしたらもう消えているものかもしれない。
今見る『女優霊』はそんな寂しさもあります。
そしてその『女優霊』に出てくる呪いはまたそんな忘れ去られてしまったものの呪いです。
未現像のフィルムに写り込んでしまった謎の女。それは禍々しいと燃やされてしまいます。でも、その行為がもしかしたら怒りを買ったのかもしれない。
怒りが解き放たれたのかもしれない。
にしてもふっと、ロケバスの中にいるはずのない人が見えるシーンは気持ち悪い。その身体の実態の無さ。本当に幽霊が映っているのかもしれないという気色悪さがある名シーンだと思うのです。

『女優霊』もう一つの怪異が産まれる場所であるのが三重です。「みえ」ではなく「さんじゅう」と呼ばれる、いわゆる天井近くの場所です。
照明を触ったりだとか、そういうための場所ですけども、落ちてしまえば確実に死んでしまう高さであったり、明かりが届かなくて薄暗いスペースから何か気味が悪い雰囲気な場所です。
私も以前、仕事の関係でこういった場所に何度も足を踏み入れましたが、なんていうかやっぱり気味が悪いのですね。それはもしかしたら死んでしまうかも、という身の危険を感じているからかもしれないし、暗闇には何かが潜んでいるかもしれないと、見えないからこその想像による恐怖かも知れない。とにかく三重は気持ちが悪い。
そんな三重から新人女優が落下死することで、この映画製作は一気に重苦しいものになっていきます。

映画製作中の事故によって人が死んでしまう…というのは今なお映画ニュースで流れてくることです。どんな仕事でも仕事中の死というのはつきものですが、映画はその特性上残ってしまう。役者もスタッフも生前の何かが映画の中には記録されている。
新人映画監督のデビュー作は一転していわくつきの映画になってしまいます。それでもなんとか完成させようと躍起になるが、その結果、明らかな怪異をついにカメラは捉えてしまうのです。映画を撮っていただけなのに。

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しかしクライマックス、ついに「怪異」本体のアタックはこれまでと違ってあまりの「人間っぽさ」に拍子抜けしてしまいます。むしろ、ここはモンスター的な側面が強くなっています。これは後に中田秀夫監督も脚本の高橋洋も反省しています。ここの幽霊に失敗は顔を見せすぎたことだと。
また動きの面でも、反省がなされて、より恐ろしい禍々しい存在を描こうとなったのが次作の『リング』の貞子のアタックシーンになるのです。
女優霊の反省を生かして貞子は顔を見せない、動きは舞踏家によるものを逆再生したもの、と演出のブラッシュアップがなされています。
90年代Jホラー演出の推移を見るのに重要な一場面だ!と女優霊の顔が見えすぎてる幽霊を見ながら思いました。
その一方で、幽霊に遭遇してしまった時の新人映画監督を演じる柳ユーレイの演技はめちゃくちゃ最高です。
心が折れる演技が上手くてたまらないものがありました。
そして映画監督が逃げ込んだ場所が、あの幼少期に見てしまった「映像」と同じ場所というのも気持ちが悪い。道理が全く説明できない。でも、回っている。繋がっている。そして取り込まれてしまう。

映画監督が作っていた映画は「怪異」が写り込んでしまったシーンも、ぎりぎりまでカットして、でも残すことにしました。これは本物の「呪い」が写り込んでしまった映画になってしまったのです。
そして映画監督は消えてしまいました。どこに行ったのかもわかりません。主演女優のファンだった、映画監督はその写真を壁に貼っていました。でも、その写真の目のところはなぜが穴が空けられていました。
監督はいつの間にか正気を失っていたのでしょうか。
それとも怪異が潜り込んでいるのでしょうか。
監督の消息も含めて、全くわからないまま映画は終わります。

エンドクレジットでは、誰も居なくなった撮影所の様々な風景が切り取られていきます。
最後に映るのは、そうあの三重です。そこにはぼんやりと白い人影が映っています。するとその人影は大きく笑い始めました。大きな大きな笑い声で。


この映画の恐ろしいところは終盤、怪異が立て続けに起こる中、映画監督が繰り返し言う「もう遅いんだよ」という言葉です。
呪いは触れてしまったらもう後戻りはできない。触れてしまった瞬間から、もう手遅れなんだ。
その諦念感は、ぞっとさせます。
しかし呪いというのはそういうものかもしれません。
またこの触れてしまったらもう手遅れであるというのは次作の『リング』にもつながるテーマでもあります。(リングは手遅れだけども、回避する方法があるというのもがまた乗っかっていてそれがまた怖い)
また触れた瞬間からもう呪いは始まっているし手遅れというのは、近年日本でも人気の映画監督アリ・アスターの『へレディタリー継承』にもつながります。
やはり、恐怖をつきつめていくと「もう手遅れ」という感覚にいきつくのかもしれません。
そういえば映画『ノロイ』でも「もう手遅れなんだよ」って台詞もありましたし…
というわけで手遅れという目線でこれからホラー映画を見ていくのも楽しいかもって思いました。

『女優霊』面白い映画でした。何より映画製作内幕物としても最高でした。中田秀夫監督は1985年に日活の撮影所に入ったそうです。それから10年間の色々な経験がこの映画にぎゅっと詰まっているかもと思いました。柳ユーレイが作った映画は呪われたいわくつきの映画になってしまいましたが、それでも撮影中のあれやこれやの風景は間違いなく青春そのもので、それは中田秀夫監督の青春でもあったのかなとも思いました。

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