にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

『田園に死す』を見た!

田園に死す』(1974)を見た!寺山修司監督脚本の映画。

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「絶対に見たほうがいい」なんて言われると、つい小さく反発してしまう天の邪鬼な性格である。というか、こういうのは天の邪鬼と言わず、ただの怠惰なんだけども、『田園に死す』は怠惰が怠惰を重ねて、見るまでに15年くらいかかりました。かかったね。
そもそもは私の父親が寺山修司大好きなのもあって、映画を沢山見ていた子供の私にむかって「お前は寺山修司を見たほうがいい」と『田園に死す』を勧めてきたわけですが、当時の私が好きな映画は『マーズ・アタック!』とか『トレマーズ』とか『versus』とかだったので、スルーしておりました。まあ、自分が見たいと思うような映画じゃなかったと思ったのですね、そのときは。
というわけで2020年になってやっと見たのですが、うわ!これ大好きなやつだ!好きな映画10本選べって言われたら入れるやつだ!!!と半狂乱になるほどめちゃくちゃ好みな映画でした。なんなら早く見ておけよ、と思うかもですが、でも今見たからよかったのです。こんなの、10代で見ていたら私はまともな人生を歩んでいなかったでしょう。
多分、10代でこれを見ていたら私は今頃関西ではなく、吉祥寺らへんのアパートにいるのです。そして「芸術」を追求しているのです。いや「藝術」と書いておるでしょう。で、食う金を稼ぐためにバイトをするのだけども、その最中も「本当の自分はこうじゃない」とか仕事を周りの人々を見下しながら仕事をするのです。そしてたまに演劇をやるわけですけども、なにやら難解といえば聞こえはいいですが、支離滅裂で自意識だけが肥大した作品を10人や20人が見に来ればいいような規模でやるわけです。終わったら終わったで、鳥貴族で演劇論と藝術論を叫び散らかす。Twitterには自分の作品論や藝術論を書き散らし、そして日本を憂い、世界を憂うのです。そして私はどんどん自意識を肥大させて、その自意識を自らの藝術にぶつけていくのです。そしてその吉祥寺のアパートの壁にはこの『田園に死す』のポスターが貼られているのです。

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と、あったかもしれないもう一つの私の今をついつい幻視してしまうほど、『田園に死す』は恐ろしい作品でした。そういう意味では今見てよかったのかもしれません。と思いつつ、これを見ちゃって狂っちゃう人生もまたええのかなとも思ったり。わかんないですね。
でも、とにかく『田園に死す』は見るときに見たら人生が狂ってしまう映画なのです。それはもう修正がきかないほどに。

田園に死す』は1965年に寺山修司が出した歌集で、それの映画化…っていうどういうルートの作品なのだと思うのですが、その歌集は「寺山修司全歌集」という作品に収録されておりましたので、映画を見終わったあと買って読んでみたら、劇中に詠まれる歌はここに収録された短歌でございます。
というわけでまごうことなき原作ではありますが、短歌で詠まれた物語の映画化ではなく、その景色や雰囲気やニュアンスの映画化と言ったほうがええかもです。でも流れている血液は歌集も映画も同じ、その核となる心臓とは寺山修司その人なのです。(なんて知った口で書いている)


寺山修司ってどんな人?なんの人?調べてみました!
なんて多分記事山程あると思うので、今それほどあえて調べずに書いております。実家には父親が買った寺山修司の本や、生涯を描いた本があって、それはちらちらと読んでいました。ちゃんとは覚えておりませんし、寺山修司が演劇界で築き上げたもの、同時代の唐十郎らとの関係も説明はできません。というかこの辺のことを書いた本もあるでしょう。私自身またこの辺は改めてちゃんと調べたいと思いました。
寺山修司天井桟敷って劇団をやったり、もうそりゃ凄い活動をしまくった人…なんだけども、ここだけでも本何冊も出てますし…
だから今の人に寺山修司ってどんな人?って伝えるにはどうしたらいいだろうって思ったのですが、多分ですか幾原邦彦の『少女革命ウテナ』に影響を与えたり、魔法少女まどかマギカを手掛けたシャフトや劇団イヌカレーに影響を与えた凄い人というのが一番なのかな…。あと『アーバンギャルド』やらの昭和っぽさをデザインに取り入れている音楽とかも、寺山修司の影響下って言ってもいいかもしれない。
というか、ブレードランナーのロサンゼルスと同じで、ブレードランナーが作った「未来都市」があまりにその後普遍的な未来像になってしまったがゆえに、ブレードランナーが直接の影響ではなくなったように、寺山修司もその後に派生した影響の影響というのも多すぎるかもしれない…。ちゃんと勉強したいこと沢山です。

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↑これは寺山修司の作品やこの『田園に死す』でも音楽を担当し、『少女革命ウテナ』で「絶対革命黙示録」を提供したJ・A・シーザーが『少女革命ウテナ』をベースにして描き下ろした2017年のアルバム『バルバラ矮星子黙示録 -アルセノテリュス絶対復活光とオルフェウス絶対冥府闇-』のジャケットですが、これを手掛けたのは劇団イヌカレー。ぐるぐる回っていく…。


さて、やっと映画を見たって話を書きます。ここからはネタバレ的なことも入れて書きます。1974年の映画なのでいいですよねって思ったけども、これからが初見の人々もいるわけですので、ぜひなんにも情報を入れずに見た方がやっぱり映画は面白いと思うので、ぜひご覧になってください。今ならAmazonプライムで見ることが出来ます。ぜひぜひです。


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自伝的物語、なんていうと「それは全て事実を元にして作られた」と思いがちであるけども、全て事実であるというのは絶対に無理な話なのです。事実を物語に変換するなかで、必ずそれは変容をきたします。そのままの事実では物語にならないとなった場合は、添え木のようにフィクションがたされていきます。事実をそのまま直視するのが辛い場合は、表現を過剰にすることで事実の暴力性を和らげようともします。そもそもエピソードを時系列通りに提示しないこともあります。なんにしろ、事実を元にしたと言っても、物語になった場合は完全にそれは事実じゃない。それはどこまでいっても物語になってしまう。

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「過去を扱うとどうしても美化してしまう」と劇中に出てくる映画監督は自分の今作っている映画に出てくる「自分の過去」と「本当の過去」とがどんどん乖離していくことに悩んでいることを映画の中盤に、その思いを吐き出します。
それまで私達観客が見ていたものは「本当はそうじゃなかった、美化した過去だ」と映画監督は吐露するわけです。
父無し子を生んだ女が村から祝福されることは無かったし、隣の家の人妻との駆け落ちも上手く行かなかった。記憶の中にある過去はそんなにいいところじゃなかったと映画の中盤、その吐露をしたあと、映画監督は自分の「過去」に入り込み、そして「過去の自分」に会うのです。
美化をせず、本当の過去と向き合うために。
隣の家の人妻は、左翼の彼氏と心中してしまった。父無し子を生んだ女は自分の子供を川に流して間引きをした。楽しげに見えたサーカス団は変態集団だった。
「エロスとタナトス」だなんて、古本屋の本棚で今や叫ばれているテーマですけども、この映画に漂う「エロスとタナトス」は濃厚そのものです。
なにせ主人公の家の近くには日本で一番死と近い場所である恐山がある。そこには死者を自らの身体に下ろすことができるイタコがいる。映画監督は少年時代にそのイタコに「自分の父」をおろしてくださいと頼む。その父は第二次世界大戦で死んだ父だ。
父無し子が自分の子供を間引くのも、奇形を産んでしまったからで、奇形だと村に災いがあるからだと村中から責められて間引くことを決意する。
川に子を流したあとに川上から流れてくるのは雛人形で、この川で間引かれた子供は「この子」が初めてではないことがわかる。(私はこのシーンを見たときにあまりの衝撃に頭に手をやってしまいました。なにこれ……と思いながらかっこよすぎて絶頂。最高っした、あざっした)
村には見たくないもの、見るのが嫌だったことが溢れている。
それを映画監督はもう一度確認する。
そしてその最たるものが自分の母親だ。
日長一日、仏壇を磨き上げている母親。そして自らをしばり続ける母親を憎く思っている。
だから映画監督は少年時代の自分に伝えるのだ。「お前の母親を殺すしかない」と。

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その問は評論家から言われた問にもつながる。「過去に戻って自分のひいおばあさんを殺したとして、今の自分はどうなるだろうか?」
一種のタイムパラドックスで遊ぶような思考実験であるわけだけども、映画監督はそれを考える。
もし「母親を殺していたら俺はどうなっていただろうか?」と。
父親を殺して、母親を手に入れるという「エディプス・コンプレックス」ってフロイトが言うてたやつありますけども、戦争で父親を失っている少年は乗り越えるべき(もしくは殺すべき)父親がいない。乗り越えるべきものがいない中、殺すべき対象がいない中、その思考実験は愛憎入り交じる「母親」に向けられるのです。

そもそも少年時代から母親のことは見捨てようとしていました。それは隣の家の人妻と駆け落ちしようとしたときです。母親を見捨てて、記者に乗ってこの村から離れようとします。でも、それは上手く行かなかった。人妻は別の男と心中してしまい、少年は母親を見捨てることは叶わなかった。
そして映画監督は「過去の自分」と話す中で現在の母親がどうなっているかを語ります。
「こっちに来るときに着いてきた」と。結局見捨てることも出来ず、そして離れることもできていないのです。

だからこそ、過去の自分に頼むのです。お前は「母親を殺さなきゃいけない」と。
それは、今を変えることにもなる。自分を変えることにもなる。過去を美化しないことにもつながる。全てを変えるために、過去の自分が母親を殺す必要があると。
でも、それは上手く行かない。父無し子を産み、村を離れたはずのあの女が村に戻っていて、その女が「過去の自分」を襲うのです。童貞を失った少年は「家に帰れない」という。女は「じゃあ、汽車に乗る?」という。
母親殺しは完遂されない。ならば俺がやるしかない。映画監督は鎌を持って母がいる家に行く。
映画監督の姿はもう中年で、少年の面影はない。しかしその姿を見て母は言うのだ。
「しんちゃん、遅かったわね」
そして母はご飯をすすめる。いつだって殺すタイミングはあったはずだが、殺すことはできない。
いつだってやりなおすことができるはずだ。なぜならこれは映画にすぎないのだから。
でも、映画のなかですら、母を殺せない私は一体何なのだろうか?
そう映画監督は自らに問う。
そして過去であったはずのかつての生家と、現在の新宿がつながる。その新宿には映画の中に出てきた登場人物達がいる。それはかつてのあの村にいた人々だ。サーカス団だ。でもその周囲は現在の新宿だ。それでも母と映画監督は食事を続ける。食事を続ける…

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過去を美化することに違和感を感じた映画監督が、最終的に鎌を持って、母を殺そうとする。
しかし、殺すことはできない。なぜならばその憎くて仕方ない母も、嫌でしかたない村も、全てが今の自分に繋がってしまうからだ。
殺してしまうこと、もしくは「美化」してしまうことは自らのアイデンティティの否定に繋がってしまうから、だから殺せないし「美化」もできない。

自分って一体なんなのだろうか?とその問に悩む人は、今なお、というか今のほうがぐんぐんに増えているかもしれない。
その「自分」ってのを追い求めた結果、極端な思考や行動に走ることも多くない。
その中で否定されがちなのは何故か「過去」だ。一番密接に自分と繋がっているはずの「過去」が否定の対象になる。
否定とまではいかなくても「あのとき、ああしていれば」という考えは誰しもがもったことあるはずだ。
普遍的な悩みだ。それゆえ、誰も解決ができていない。

田園に死す』をみはじめて、当初は面を食らった。アングラ演劇ってやつか~と斜に構えていた部分もある。
でも、それが、そのアングラ演劇的表現が全て「美化していた」ものだと語られて冷水をかけられた気分になった。
寺山修司がどんな演劇をやっていたか知らない。どんな表現を得意だったのかしらない。
得意技とも思える、表現で描かれていたことは「美化」だったと、否定に入るのが恐ろしい。
美化をしないために自らを過去の世界に取り込み、そして過去の自分と対話をする。
過去の自分と今の自分の対話はおかしくも、惚れ惚れするシーンだ。
できなかったこと。できたこと。叶えたこと。叶えられなかったこと。それらがむき出しで襲いかかってくる。
私達はなりたかった大人にはなれていない。でもお前がまだ知らなかったであろうことは知っている。

いくら過去を否定しようが、過去の精算をしようが、今そうやって思考している己自体のそのアイデンティティを築き上げたものはなんなのか。
それをあまりにかっこよすぎるグラフィカルな映像の数々で作り上げた映画でした。
とりあえず、小難しいことも言ったけども、映像がまずはかっこよすぎるので、今見ても斬新かつ新鮮な作品でした。それを目当てに見るのももちろんありだけども、ネタバレするよ!と言ってから、初心者向けな言葉を書いても無理なのだ。ううう。

私にとっては本当に大好きな一本でした。オールタイムベストなのよ。大好きなのよ。


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私は焼跡の女巡礼、うしろ指の夜逃げ女、泥まみれの淫売なのです。「母さん、どうか生きかえって、もう一度あたしを妊娠して下さい。あたしはもう、やり直しができないのです。」