にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

黒沢清×篠崎誠『恐怖の映画史 kindle版』を読んだ!

黒沢清×篠崎誠『恐怖の映画史 kindle版』を読んだ!

f:id:gachahori:20210818111011j:plain

 2000年前後、黒沢清と篠崎誠の対談が行われた。黒沢清の特集上映で配布される小冊子のための対談だった。
 対談を主催した映画評論家の樋口泰人はこの対談をもっと行えば深い内容になるのでは?と考え、何度か対談が重ねられ、膨大な量の文章が残った。
 膨大である故にそれらは初めCD-ROMに収められ発表された。それがCD-ROM版『恐怖の映画史』だ。
 2003年、CD-ROM版から枝葉や贅肉を切り削ぎ落とし、物理的なスペースの削減がされた上で『恐怖の映画史』は書籍として出版された。それはすでに絶版になっていて、古本屋を回るか、図書館に行けば読むことはできるかもしれない。
 時は経ち2021年になり、膨大な文章をCD-ROMに収めなくとも、肉を削ぎ落とさなくとも、いい手段がすでにある。電子書籍だ。
 それはCD-ROMよりも読みやすく、書籍では鈍器になりえる膨大な文章を詰め込んでも一切重量か変わらず、データさえあれば、スマホでもリーダーでも簡単に読むことができる。00年代初めに行われた黒沢清と篠崎誠の映画と恐怖についての長きに渡る対談は、時を経て、私達の手もとに凝縮されてやってきた。
 この本は映画がどんな恐怖を描いてきたか、映画がどんな恐怖をもたらすか、そして映画に恐怖を刻み込むには。二人の映画監督が語っていく。それは映画史を辿る行為でもあり、自分たちの極私的映画史を語る行為でもあり、自身たちの映画製作について語る行為でもある……。



なんて堅苦しく書いてきましたが、黒沢清監督と篠崎誠監督が自身たちが影響を受けたり、単純に好きだったりするホラー映画作品について延々と話していくそんな本です。Amazonの商品ページからの引用ですが、紹介されている映画作品を羅列したいと思います。

『恐怖のミイラ』『マタンゴ』『生血を吸う女』『四谷怪談』『牡丹灯籠』『囁く死美人』『吸血鬼ゴケミドロ』「血を吸う」シリーズ、『吸血鬼』『蛇女の脅怖』『妖女ゴーゴン』『恐怖の振子』『吸血鬼ドラキュラの花嫁』『残酷の沼』『吸血狼男』『ファンハウス/惨劇の館』『悪魔のいけにえ』『悪魔の沼』『ファンハウス』『死霊伝説』『ポルターガイスト』『スペースバンパイア』『スポンティニアス・コンバッション』『悪魔のいけにえ2』『スペースインベーダー』『マングラー』『レプティリア』『サンゲリア』『ソンゲリア』『呪われたジェシカ』『家』『スクワーム』『エクソシスト』『マニトウ』『エンティティー/霊体』『ジョーズ』『スウィートホーム』『カリスマ』『地獄の警備員』『スウィートホーム』『ザ・フォッグ』『奴らは今夜もやってきた』『CURE/キュア』『絞殺魔』『エクソシスト3』


これらの作品に「おっ」と思った方は読めばかならず楽しめますし『スパイの妻』がきっかけで黒沢清監督を知ったという人でも、いかにしてこれらの作品が黒沢清監督の血肉になったかを辿れて、とても楽しい一冊になっていると思います。
特にこの本で大きく取り上げられている映画監督が『悪魔のいけにえ』でおなじみのトビー・フーパー。彼は『悪魔のいけにえ』という大きすぎる金字塔を立てたゆえに、世間的にはその後はそれほどな作品を撮っている人じゃない、って評価に対して「いや、違う!トビー・フーパー監督はこういう風な作品を撮っているんだ、こういう部分が面白いんだ!」と熱く語る姿に感化されて、私は読み終わってからトビー・フーパー作品が見たくて仕方ないのです。まずはあの金字塔『悪魔のいけにえ』ですらまた見たい。あの作品を評される時に使われがちな"ドキュメンタリータッチ"という言葉と、ドキュメンタリータッチで作ったとされるその他諸作品と『悪魔のいけにえ』の撮り方の違いなど『悪魔のいけにえ』また見てえ~ってなります。というかなっています。近々見ます。それからプレス機が人を襲うらしい『マングラー』とか。
黒沢清監督はトビー・フーパー監督へ熱い称賛を送るのですが、トビー・フーパー監督のこだわっている部分に黒沢清監督自身のこだわり、それも意識的にしろ無意識的にしろな部分が反映されていることが判明したりして、その映画監督同士を結んでいく影響の線が、一端の映画好きは「そうなんだ!」と楽しく思えたりするのでした。


黒沢清監督の『花子さん』という短編作品では花子さんの顔を見てしまうと恐ろしくて"消えてしまう"という描写がありますが、その影響元には『妖女ゴーゴン』があると言います。見られたら石にされてしまうから、見られたら消えてしまうへ。好きな作品のリファレンス元を知ることができるのが繰り返しになるけども一端の映画好きにはめっちゃ嬉しい。なんせ『花子さん』はめちゃくちゃおもしろいから。


www.youtube.com


こういった本を読むまでは黒沢清監督って作家性の人だ、めちゃくちゃ好き放題に撮っている人だ、と思っていたのですが、本人はそんなことはないと証言していてびっくりした。
むしろ「作家性」ではなく予算以内に撮ることだったり、スタッフやキャストと共同で作り上げる中で監督がやれることは少ないと言っていたりする。ワンマンアーミーな印象は簡単に覆ってしまって、それでいて出来上がったものが異様なのでやっぱりびっくりしちゃう。『恐怖の映画史』で黒沢清監督は「娯楽性をとても重視している」と言っているし、それでこのこだわりはだめだと思った部分は平気で切っているとも語っている。
ただその上で、自身のコントロールできていない、いわゆる無意識の部分でのこだわりや作る上での手付きが出てきてしまう。その結果がこういった作品になってしまう……と語っていた。
人間が何か作品を作るってそういうことだよなあと思う。
広くマスに届けるんだ!と思っていても、必ずそこには作り手の手付きが出てしまう。
自分で把握でき、削ることが用意な「無駄」的な部分ならまだいいのだけども、自分でコントロールできない、もしくはその部分はこだわりだとは思っていない、なんならこの作品を成立させるには当たり前に入れなきゃいけないものと本人が思ってしまっているもの、それこそがその人の個性であったり作家性って呼ばれるものなのかなあって思ったりしました。


この本で私が一番印象に残ったのは『生き血を吸う女』というホラー作品から派生して語られた"死の機械"というものが映画には度々登場するという話でした。
その死の機械がカタカタカタ〜と動き始めると、死に向かい始め、そしてそれはもう止められないし、動き始めた瞬間から肉体的にはまだそうでなくても、もう死んでしまったも同然というものが、映画には出てくる…という話。
先日、spotifyPodcastで配信している『アフター6ジャンクション』の放課後Podcastで、ホラー作品を数多く手掛けている三宅隆太監督がリスナーから寄せられたホラー映画に対する疑問に答えていく回がありました。

open.spotify.com


これもとても面白い回ですので、もしよければぜひぜひ、なのですが、映画と時間を操作することに話になっていく下りがありました。
今や、動く映像は多数あるわけです。でも映画が映画であるのはなにか?というものの一つの回答が「流れ始めたら止めることができない、手出しを一切できないもの」と言うのです。
勿論、今やリモコンで、シークバーで時間を操作することはできます。しかし、本質的にそこに残ってしまった映像というのはもう変えることができない。
映画そのものが、その作品のなかで死んでしまう登場人物にとっては死の機械かもしれない。映画が始まったときから死は確定している。でも止めることはできない。やがて死の瞬間がやってきて、スクリーンにその死が広がっていく……。

脚本家の高橋洋は『映画の魔』という言葉を使っていましたが、映画にしかない恐ろしい何かがそこにあるような気がするのです。
私はたまに好きで小説を書きますが、小説に『死の機械』はあるのだろうか。『小説の魔』はあるのだろうか。あるとすればどういうものなんだろう?と考えてしまいました。小説でいくらカタカタカタカタ~と書いても死の機械が発動したことにはならないような気がします。文章で「死んだ」と書いても、まだ死が広がっていくわけではないと思います。
小説にとっての『死の機械』的なものはなんなのだろう、って私はこの本を読み終えてからずっと考えてしまうのです。


『恐怖の映画史』は前述の通り2000年前後の対談が元になった本です。それから20年以上経ちました。それから恐怖の映画史はどう歩んでいったのでしょう。この本ではゾンビという存在がまだぎりぎり息をしていると述べられていました。その対談から数年後、世界中でまさかのゾンビブームが起き、ゾンビのドラマを多くの人が見て、ロメロは新作を撮り、『桐島、部活やめるってよ』で「ロメロくらい知ってろよバカ!」って叫んだり、ロメロが亡くなったり、そしてゾンビはブームではなく、もう定番になっています。
そういうふうに恐怖の映画史がまた刻まれていったからこそ、また黒沢清監督と篠崎誠監督による恐怖の映画史についての対談を聞きたいなと思うのでした。


黒沢清の『花子さん』で登場人物が誰もいない客観的なショットで幽霊が登場するシーンについて、脚本家の小中千昭がひっかかりを感じて黒沢清とやり取りを行ったという話が出てきます。
小中千昭はあってはいけないというし、黒沢清にとってはなければならないショットだという。これはどちらが悪いってわけじゃない世界観の違いだと黒沢清は述べた上でこのように語るのです。

黒沢「ただ僕はね、ジャンルとしての幽霊ものが衰退し、替わりに主人公の幻想や妄想が映像化されることが特殊でなくなった時代では、怪しげな物を画面に出してきても「はああ、それって主人公にしか見えてないんじゃないの?」と思われる危険性があるんで、わざと「いや、違う違う。ほら、こんな客観ショットの中にもいるじゃないか」というふうに持って行きたいんですよ。」
篠崎「主人公も誰もそこにいないし、誰も見てはいないけれども、ほらそこで起こっているよとね。
黒沢「それを、物語のどの時点でやるか、ということがポイントなんですよ。それまでは「これ、主人公にしか見えてないんじゃないの」と言われていてもいいんですよ。でもあるとき、「違う。本当にいる」と。そこからやはり、本当の恐怖が始まっていくのだと、僕は思っています。映画の世界ではね。