にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

『ねこのまち子さん、業務スーパーへ行く』のあとがきと反省。

こんにちは、両目洞窟人間です。


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こちらはビースティ・ボーイズみたいなペンギンの銅像



『Every day is Exactly the Same.(原題:ねこのまち子さん、業務スーパーへ行く)』という短編小説を書いた。
gachahori.hatenadiary.jp

短編といいつつも、1万5000字を超えている。
にゃんこのいけにえに載せている小説では一番文字数が多くなってしまった。
しかもこんな内容で、である。
自分で言うのもなんだけども「こんな内容」だ。
ただ、気に入ってないわけでもない。むしろとても気に入っている。
しかし公開して数日経って、変なものだし、これは受け入れられないよなあと思っている。
これはそんな作品のあとがきというか、どうやって書いたかということについての備忘録だ。
あとになって「この作品はどんなときに書いたか、どうやって書いたか」ってことを忘れることも多い。
それを補うための文章だし、あとは作品の反省が主。
ただ書いたこの作品はさっきも言ったように気に入ってる。もっと正しい言葉だと大好きといっていい。



そもそもこの作品は、今年の1月に予定されていた文学フリマ京都で出すつもりだった。
ただ、コロナウィルスの影響で文学フリマ京都が中止になり、宙ぶらりんになった。
せっかくなので、やっぱり公開しようと思ったが、欲が出てしまい書き直しをし始めた。
そしたら、あちこちいろんなエピソードを足していったり、逆に削ったり、そんなことをしているうちに「あれもこれも伏線に見えてくる状態」になってしまった。
そうなるとあれもこれも繋がって面白いし書いてて楽しいんだけども、同時に目に映るものが全て陰謀に見えてしまう人のような不健康さを感じてしまって、書いているのが嫌になってしまい、しばらく書けなくなってしまった。
書き直し作業もいつまでかかるかわからないし、この作品を延々と書き直しているのも変だなと思ったので、2月ごろに一旦、元のバージョンで公開することにした。


ただ、やっぱり書き直しているうちに良くなっていた部分もあるし、元のバージョンは終わり方に不満があったため、気持ちにずっとやり残した宿題のようなものが残っていた。
先日、鬱がまたひどくなり一晩眠れなくなった。
起きているのもしんどく、しかし何もしていないのももっとしんどい。
動画も見れないし、音楽を聞くのも、ラジオを聞くのも苦しいってなり、逃げるように読書にたどり着いた。
いろいろな方が書いた文章の中で、そのときに読むことができた、というか頭に入ってきて「心地よく読める」文章が村上春樹だった。
そしてその晩に村上春樹の『雑文集』と短編『ドライブ・マイ・カー』を読んだ。
そうやって読んでいくうちに「自分を治癒する物語を書かなきゃいけない」って思った。
でもそれと同時に、それを書く前に宿題で残ったままになってる『ねこのまち子さん、業務スーパーへ行く』を書き直さなきゃいけないという気持ちが出てきた。
次の晩、なんとなく書き直し始めたらするすると言葉が出てきて、どうやって書き直したらいいかがわかり結局一晩で書き直すことができたのが、今回再公開したバージョンになる。
前回とどう変わったかで言えば、大筋では変わっていない。
まち子さんという猫が迷路のような業務スーパーに行って、ひょんなことから地下で捕まっていた別の客とワニを助け、地上にあがると業務スーパーが反業務スーパー派との戦争が起こっていて、命からがら脱出する。
その大筋は変わっていない。


前回から大きく変更した点は特に後半。ワニによる暴力や戦争状態の描写がとにかく増えている。
これはとにかく筆が乗ってしまったという他ない。筆がのってのって仕方なかった。
ただそうなると、主人公のまち子さん含めて目撃した暴力があまりにも凄惨なものになってしまい、元の終わりでは終わらせることができなくなってしまった。
ちゃんとまち子さんが元の日常に戻るまでの時間を書かなければいけなくなってしまった。
というわけで終わり方が元のとは全く違うものになってしまった。


それと同時に凄惨な暴力を書いたことで、余計に混乱を生む作品になってしまったと思う。
「猫が業務スーパーに買い物に行く話」と聞いて読んでくれる人は戸惑って嫌になるほどの暴力描写があるし、書かれている暴力が好きな人には「猫が業務スーパーに買い物に行く」というあらすじでは読んでくれない。
ニッチがすぎる話だ。
私自身はとても楽しく書いたし面白いとは思っているけども、これを面白いと思ってくれる人に届けるのはとてもむずかしい。
多分面白いと思ってくれるのは各県に10人くらいしかいないと思う。それも多く見積もりすぎかもしれない。しかし仮にその全国に面白がってくれる人が470人いるとして、面白いと思ってくれるけども何も知らない470人届けるのは大変だ。
私も宣伝力もないし、作品自体にもそこまでの波及力もないし。
力不足だ。
だから随分と悔しい気持ちになってる。
やっぱり書いたものを多くの人に読んでほしいし、本当は多くの人が面白いと思ってもらえるものを書きたいと思う。


しかし同時に読んでくれる人だとか、誰に向けた作品だと考えることなくこの話を書いたことがとても楽しかった。
好き放題に想像力でぶんまわしまくったり、イメージがスパークするような言葉をつなげていく、そんな文書や物語を書くのは楽しかった。
しばらく真面目に自分の人生と向き合ったり、「誰か」を想定して物語を書いてばかりだったのもある。
その結果、ノイローゼ的に結局物語ってどうしたらいいんだ?と悩んでいたからこそ、こんなふうに物語を書けたのは凄く嬉しかった。
それに物理的な制約なく想像力を飛ばすのっていいなって思った。
小説だったらどこまでも飛ばせる。
私はそんなふうにもっと物語を書いてもいいんじゃないかって思ってる。


長々と書いたけども、久しぶりにこんなに楽しく小説を書いて、今後もそんなふうに書きたいってことが言いたかった。
反省の多い作品だけども、書いたことは後悔していないし書けて本当良かったと思う。




そういえば、今回は表紙の画像を作った。

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前から小説の最後に自分で撮った写真を一枚載せることはあったけども、今回は思い切って作品の表紙になる画像を作ってみようと思い作ることにした。

今回使ったのはCANVAという画像編集サイト。
https://www.canva.com/

ここは無料で使えるし、軽い画像編集ならできる。
本当は画像編集をするならPhotoshopとか覚えたいけども、お金もないからフリーで使えるものを探していたら見つけた。
サイトでの編集だけども使い勝手は結構よかった。無料で使えるフォントも多くていい。
見よう見まねで画像編集した割にはいいのができた気がする。
ただこれも続けるならば、やっぱもっと勉強していきたいなって思った。
自分にセンスがないのはわかっているから、勉強でそこを補いたい。
完璧なものは作れなくとも、ダサいものつくることは避けれるかもしれない。
今回表紙を作ってみて、作品世界を伝える画像を作るのも楽しいと思った。
これも続けていきたい。



私はこれまでいろいろと話を書いたりしたけども、辛いときに一番自分の心を救ってくれた暴力映画への感謝を捧げるような物語を書くことができていなかった。
そのことはずっと気になっていたことだった。
私は私を救ってくれたある種のジャンルの作品ではない作品ばかり書いているのは不誠実ではないのかと思うようにもなっていた。
繰り返しになるが、自分の人生を見つめ直す話ばかり書いていたのもあって、物語の起点や中心に自分があるのも嫌になってしまった。
暴力映画に敬意を払おう、自分というものを話から追い出そう……そんなことを思って書き始めたわけではないが、結局はそういう作品になったように思う。

あと書き出す前に『ザ・レイド』のギャレス・エヴァンス監督が撮ったドラマ『ギャングス・オブ・ロンドン』の1シーンを見たってのも大きい。私は『ザ・レイド』が大好きなのだ。1も2も。アクションシーンだけだったら本当に何百回も見ている。
だから今作の暴力シーンはギャレス・エヴァンス監督が突然演出をし始めたって気持ちで書いた。突然、ギャレス・エヴァンス監督がやってきて、カメラワークはこうで、アクションはこうで、とイコ・ウワイスらと考えてるのを想定しながら、というよりはごっこ遊びの感覚で書いた。
しかし書いてみて、アクションや暴力を書くのって本当に難しいと思ったし、描写不足、文章力不足、色々と反省も多い。
でもギャレス・エヴァンス監督のアクション演出を思いえがきながら、もしくはギャレス・エヴァンスのアクションごっこを想定しながら書くのは楽しかった。
『ギャングス・オブ・ロンドン』も凄まじいらしいからちゃんと見たいなって思っている。


その他にも最近見た黒沢清監督・高橋洋脚本の映画『復讐 運命の訪問者』だったり、最近聞いた三宅隆太監督によるラジオドラマ『令和版夜のミステリー』で思ったことである「暴力や恐怖によって人の心はあまりにもたやすく壊れてしまう。そしてそれを観客の立場として目撃してしまうこともまたとても恐ろしいことなのだ」ってことも意識をしながら、ワニが人を襲うシーンを書いた。
そのせいで読んだ弟から「嫌なものを読ませやがって」と怒られてしまった。
少なくとも、猫が主人公の作品でやることではなかったかもしれない。


今作のラスト、事件が終わって、まち子さんがゆっくりと日常に戻っていく部分を書き直しているときに、なんとなく青山真治監督の『ユリイカ』を思い出したりした。見たのは15年くらい前だけども、ラストを書きながらあの映画に出てきた人々のことを思い出した。
人は簡単に立ち直れないし、破壊された日常は簡単に戻ってこない。それでも少しずつ、痛みを分け合える人と、小さくとも頑張っていれば、壊れた日常が治っていくこともあるかもしれない……って、この作品を書きながらやっと映画『ユリイカ』のことを噛み砕けた気がした。(ただ『ユリイカ』はその壊れた日常を治すことは容易いことではないってことも描いている。単純な治癒の物語であったら、登場人物の一人があんな行動は取らないだろうし、あのバスの旅もあんな行程にはならない。だからこそ素晴らしい映画だと思う)

とはいえ『ユリイカ』にしよう!と思って、今回ラストを書き直したわけではない。というか『ユリイカ』にしよう!なんて思ってもできないし、するならばしっかり向き合うべきだ。
ただ凄惨な暴力を描いたことで、事件現場から脱出できました、めでたしめでたしではいけないと思った。
そうなると日常には戻れないよなって思った。
だから当初書いていた家にみんなで帰って終わりなラストではなく、今回書いたようなラストになった。
でもその結果「ユリイカ」のことを思い出すとは思わなかったし、同時に悪趣味に人が死ぬ描写とのバランスが取れていないのも事実だ。悪趣味に振り切るなら振り切ったほうがいいし、こんなふうな日常に戻る描写を大事にするんだったらそっちにバランスを取ったほうがいいはわかっているけども、私はこんなふうにしか物語が書けない。



これは個人的なことだけども、これまで「まち子さん」という猫のキャラクターを出すときは「どてら」を着ている「どてらねこのまち子さん」というキャラクターで書いていたけども、どてらを着たねこのキャラクターというと『夜廻り猫』という私も大好きな漫画があり、そこからパクったわけではないけども、近しい造形的なキャラクターで好き放題するのもそれは違うよなと思い、まち子さんにはどてらを脱いでもらうことにした。
というわけで「ねこのまち子さん」になった。
気にしなくてもいいかもしれないけども、なんか違うよなとか、なんか悪いよなって思ってしまう自分の感覚は大事にしたい。


それでは、またがんばります。