にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

映画が好きだって顔をしているけども

 映画が好きって顔をしている。というか、映画がずっと好きだ、好きだと思ってる。

 けども、どう考えても映画よりも音楽やお笑いやラジオに接している時間の方が長い。

 話題作だって全然見れていないし、俳優さんだって全然知らない。

 映画が好きって顔をしているけども、実のところ映画が好きだなんて言えないのかもしれない。

 そう書きながら「いや、映画は見る本数じゃないよ!」と訴えかけてくる私の中の私、リトル私がそう言ってるんだけども、それでも「でもやっぱり」と思ってる部分もある。

 


 毎回になっちゃって申し訳ないんだけども2017年に心を病んじゃってしまってから、映画を見るのが難しくなってしまった。精神的にも体力的にも、もっと言えば金銭的にも。

 映画館にはあまり行けなくなった。同時にサブスクリプションサービスでの映画の配信も増えてきた。

 そうなると私は日々増えていく話題作や見なきゃいけないと思うような作品、それから過去の名作の山に圧倒され、そして押しつぶされているような感覚になってしまった。

 映画が好きだって言ってる。けども映画を見るのが難しいと思うようになってしまった。

 


 思えば、いつ頃から映画を好きになったんだろう?

 小学生の頃、父に連れられた『タイタニック』と母に連れて行ってもらったローランド・エメリッヒ版『ゴジラ』が大きかったような記憶がある。

 私は口をぽかんと開けてスクリーンを眺めていた。

 沈む船での阿鼻叫喚にはらはらし、怪獣が歩く度に揺れるニューヨークに興奮し、ジャックとローズの運命に涙をし、ミサイルであっけなく死んでしまうゴジラに寂しさを感じたりした。

 それからはレンタルビデオを借り続ける日々に入る。

 TSUTAYAのシネマハンドブックという映画のカタログ集を読み込んでは、面白そうな映画を借りてくる。最初は大作ばかりだったけども、まだミニシアターブームの余韻が残っていたり、テレビでも映画番組も沢山あったからそういうのも見たりした。

 中学生の頃になって、1人で映画館に行けるようになったら、自転車で映画を見に行ったり、友達を誘って『宇宙戦争』を見に行ったりした。

 大学生になったらオールナイトで映画も見たし、就活で行った東京で映画を見たりした。友人と『アベンジャーズ』のアイアンマンがビームを出して、キャプテンアメリカが盾で跳ね返すシーンのモノマネをしたのもいい思い出だ。

 Twitterも最初は映画の情報を調べるために使っていた。

 最新の情報が入ってきて、知らない映画の面白そうな感想にメモをして、見たことも沢山あった。

 忙しくなった社会人になっても、それでも必死に映画に縋りつこうとしていた。

 研修中でも『県警対組織暴力』のDVDを借りて見たり、大きな仕事で疲れてても『キングコング』の髑髏島のを見たり、作業着を着たまま映画館で『インサイド・ヘッド』を見て、隣の子供と一緒の場所で大きな声で泣いたりした。

 『シンゴジラ』も初日の深夜に見た。終わったら外は朝で、破壊されていない東京の街並みに感動しながら帰った。

 映画を見るのはとても楽しいことだった。映画を見続けていたらいいと思っていた。

 

 

 

 でも、今はそんな状態じゃなくなってしまった。

 私は映画が好きじゃなくなったわけじゃない。まだ映画は大好きで、映画を見たいと思っている。

 それよりも嫌いなのは映画を見る意欲が前よりも減って、そしてその気持ちが減ってしまっていること。そのことに気がついてるのがとても寂しいのだと思う。

 沢山の要因はあると思う。日々流れてくる情報量はこの10年だけでも圧倒的に増えてしまった。レンタルビデオ屋に行かなくても映画は家で見られる時代になった。映画よりもドラマがいいって言われるようにもなった。映画を好きになればなるほど、見なきゃいけないと思うような作品は圧倒的に増えた。

 その中で、体調を崩して思うようにいかない日々になった。

 そして私は見なきゃいけないと思うのに見れない自分にいらだってしまったのだと思う。 

 


 でも見なきゃいけない映画なんて本当はなくて、やらなきゃいけないことも本当はない。 体調を崩したのだったらその回復を優先することは当たり前のことだ。

 映画が見られなくなったのと、同じ時期にラジオを聴くようになって、お笑いのことをどんどん好きになったのは、それが私にとってフィットする時期だったからだと思う。

 でも、映画が好きだというのが大きな自分にとってのアイデンティティーでもあったわけだから、それが遠くなっていくのはとても寂しい。

 できることなら沢山見漁りたい。でも、そんなことはできないって分かってる。

 そしてできないことに寂しいって思ってる。

 

 

 

 フラワーカンパニーズに『ロックンロール』という曲がある。

 10代にロックンロールに出会ってから、どんな時でもロックンロールが流れていたという曲だ。授業中も上京した日も子供が産まれた時も胃カメラ飲み込んだ朝にも。

 でもそのロックンロールはある日聞こえなくなる。

 

 

 ロックンロールがある時止まった 無言でどっかへ行ってしまった

 あったかい春を待たないで 心臓の音だけを残して

 

 

 

 でもそのロックンロールは戻ってくる。理由もなく。

 

 

 

 何ヶ月がたったある朝 ロックンロールはまたやってきた

 何にも変わってないのに 心の奥まで届いてた

 

 

 

 私はこの文章を書く前から、フラワーカンパニーズの『ロックンロール』のことを思っていた。私にとっての『ロックンロール』が映画だとしたら、私の「映画」は無言でどっかへ行ってしまったのかもしれない。

 でももしかしたら、ある日戻ってくるのかもしれない。

 そして何にも変わらなくて、また鳴り響く瞬間がやってくるのかもしれない。

 同時に、もう帰ってこないのかもしれない。

 それでもいいかもと思ってる。

 嫌いになったわけじゃない。昔みたいに見ることはできないかもしれない。

 昔のような気持ちにはならないかもしれない。

 それでも映画は見ようと思う。映画は変わらない。

 ただそこにあるだけで、私はそれを、じゃあ見ようと思うときに見ればいい。

 その映画が、私の心に鳴り響いたらと思ったりする。

 でも鳴り響かなくても、全然それでもいい。

 生きている限りは好きだったということは変わらない。

 そして好きだったということが産み出してくれた様々なことに構成されたのが今の自分なのだ。

 だから今は寂しいけども、嫌いには絶対にならないから、どこか遠くで鳴り響いていて。 

 

 

 


 いつだってバカみたいに10年後も20年後も

 ロックンロールは続いていく どこにもたどり着かないで

 進歩も成長もしないままで そのままで

 何にも変わらず続いてく 迷いのない声で続いてく

 ロックンロールはずっと続いてる

 ロックンロールはずっと続いてる

 ロックンロールはずっと続いてる

 ロックンロールはずっと続いてる

 

 

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