にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

千切れそうな腕時計と映画『首』

 腕時計のベルトがちぎれそうで、いつちぎれるかな、使ってるときにちぎれたら嫌だな、って思いながら使ってる。
 今、使っている腕時計はチープカシオの振動するアラームがついているやつ。
 買った理由は、私はADHD持ちなので、ついつい過集中してしまうことがあり、それを防ごうと思ったというのがよく言っている理由のほうで、この腕時計は設定すれば一時間に一度、毎時00分のところで振動するんだけども、単純にそういう時計が欲しかったってのが本当の理由。
『Mr.ROBOT』という超面白くて、超クールな海外ドラマで、アラームのついた時計を絶えず身につけているキャラクターが出てきて、アラームに合わせて行動しているのがなんかかっこいいなと思ったのだ。
 そういうあこがれが優先だけども、私はADHDのせいか、そういう性格なのか、時間に無頓着というか、気がつけばだらだら過ごしてしまうなんてことをしてしまいがちであったので、そういう時間をめっちゃ守るという正反対のキャラクター性を身につけたいなー、そういう身に付けれる時計身につけたいな~なんてちゃんと思ったのだ。
 調べたら3000円ほどで振動アラーム付きのチープカシオが売っていたので、ありがたいね~と思い、早速ヨドバシカメラで購入。
 それからは三年くらい使っていたけども、この度、ベルトがちぎれ始めて、ああそうですか、いやですねえ、となっているところです。


 振動アラームは結構便利で、普段も便利なんだけども、特に使い勝手が良かったのが映画館で映画を見るとき。
 人によって好き嫌いがわかれる行動だと思うけども、私はだいたい今が上映時間のどれくらいなのかってのを知るのが好きなので、毎時00分で振動する腕時計をつけて映画を見るわけです。
 振動アラームは無音なので、振動が「ぶぶっ」と腕に伝わって、今00分なんだな、何時から見始めたから、だいたい何分目だなと、思うのが好きだった。
 映画好きだけども、終わりが見えてこないとしんどいときってあるじゃないですか。
 おしりとかも年齢のせいかよく痛くなるようになってきたし。
 そういうときに振動アラームでなんとなく終わりが見えると嬉しかったりするのです。


 映画を見るのに、振動アラームなんていう現実を持ち込むのは本当好き嫌いがわかれる行動だと思うのですが、私は映画で現実を忘れつつも、少しは現実をちょっと思い出していたいと思う。
 それが振動アラーム付きの腕時計を身につけながら映画を見るってことで、もしくは半端な覚悟で映画を見ているってことになるのかもしれない。
 もっとのめり込んで見てもいいはずなのにね。
 人によっては映画を見るときはもう全てを忘れたいって人も勿論いるだろうし、逆にエンドクレジット始まった瞬間に携帯の電源を付ける人はやっぱどこかで現実をそばに置いておきながら見ているってことかもしれない。
 なんせ、本当は時間を忘れて見るってのが幸せの姿ってことかもしれないし、そう語られがちだけども、私は毎時00分「ぶぶっ」と振動する腕時計を命綱のようにして映画を見ている。現実を忘れる勇気がないのかもしれない。


 今日は北野武監督の『首』を見てきた。TOHOシネマズで見てきたけども、ポイントがたまっていたので無料で見ることができた。それはそれとしてシネマイレージというのが意味分かっていない。
 この間、調べたら、ポップコーンを無料で貰えることを知ったけども、私は映画を見ている間ポップコーンを食べない。
 もともと間食をするのが苦手で、それは映画を見ている最中もそうです。
 でも、太っている。
 間食しないのに太っていることを皆は不思議がる。私は白飯を沢山食べているだけなんです。
 話がずれてしまった。『首』の話だ。
 不思議な話運びの映画だと思った。どこに不思議さを感じていたのかわからないけども、多分思った以上にあちらこちらに話が行ってしまうのに、不思議だと思ったのだろう。
 もっと一直線に本能寺の変までの緊張感を高める映画をどこかで期待していたのかもしれない。
 そうだとすると、結構思っていた映画じゃなかったなという印象は強い。
 ただ、面白かったは面白かった。
 特に中村獅童演じる茂助の顛末が素晴らしかった。百姓の男が侍大将になろうともがく様。
 その男が最後に見る風景が素晴らしかった。
 あの邂逅こそ、この映画の素晴らしいシーンだと思った。
 それから、あのエンドクレジットの入るタイミング。
 本当最高。
 キレのある行動のあとに暗転すれば映画って終わることができるんだ。
 まだまだ映画の気持ちよさというものわからないなって思ったりした。
 物語は始める面白さ、展開させる面白さが重要視されがちだけども、終わらせ方も相当なウエイトがあるんじゃないかなと思っている。
 私は太宰治の『女生徒』の締めの文章が好きなんだけども、あんな終わらせ方されたら、もううっとりしてしまうじゃないかというものがこの世にはたまにあって、そう言う意味では『首』は切れ味がうっとりするようなものだった。
 雑な論だけども、漫才の終わり的なものも感じた。
 「もうええわ」で終わることができるのが漫才だけども、そういう「もうええわ」を『首』でも見たような気になった。
 どっちかと言えば金属バットの「おらおらあしった!」みたいな切れ味だったような気もするけども。


 戦国時代の映画を見終わって、明かりが付くと、老若男女が溢れるTOHOシネマズだった。戦国時代は最悪だな、戦国時代じゃなくて良かったと思いながらiPhoneに電源を入れて、映画を反芻しながらエスカレーターに乗って、SPY×FAMILYの映画ヒットしそうだよなー、私はSPY×FAMILY好きなので映画見に行きたいな~と思いながら歩いていると腕時計が「ぶぶっ」て振動して、大阪は夜の6時って思いながら、時計のベルトがちぎれそうなことを思い出してまたちょっと不安になった。