にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

私は私の不安を書かなきゃ生きていけないと思い込んでる。

文章をしばらく書いていないと、その腕が落ちたような気になる。というか実際に落ちているんだと思う。こういうのは続けなきゃいけないと聞いたことがある。なんというかカンのようなものが鈍ったり、運動でいうところの運動神経が鈍ったり、筋肉が落ちたりするように、文章を書く筋力が落ちたり、書くことの神経が鈍ったり、とにかく全体的に落ちてしまうんだろうなとは思う。

 

私は今、映画「ピンポン」でしばらく卓球をサボっていたペコが、再びトレーニングを再開するシーンを思い出してる。「これだけサボってたってことは力を取り戻すにはこれだけやんなきゃいけねえってことか」と汗をたらしながら計算するシーンを思い出してる。

私が文章を書かなかったら、それを取り戻すにはどれくらいの日数がいるのだろう?そもそも私が書いているようなレベルだったらそれほど気にしなくていいことなんだろうか?

 

別に文章は仕事で書いているわけじゃない。むしろ自分を治癒するために書いている・・・・・・なんて言うと大げさかもしれないけども、ワンポイントオートリックスネヴァーが音楽を作り始めたのは退屈な仕事で死んでいく自分の心の治癒だったって、以前どこかのインタビューで答えているのを読んでから「文章を書くのは治癒っすよ治癒」って思ってる自分がいる。治癒っていうと大げさかもしれないけども、ある程度書いていない期間がありすぎると、生活が上手くいかなくなっていく気がする。気がするというより、本当に上手く行かなくなっていく。

 

日曜日から水曜日まで寝込んでいた。あまりにも寝過ぎていて、祖母からは「死んでいるかと思った」と言われた。起きている時も、何にもできなくて起き上がることができなかった。ゲームセンターミカドが配信している色んなゲームの攻略実況動画をただ見ていた。何故かそれを見ていたら心が穏やかになった。『レディアンシルバーガン』と『グラディウス5』の動画を見ている最中に何度か眠りに入った。入眠動画じゃ全くないんだと思うんだけども、それを見ていたら眠ることができたし、それ以外の動画は全く見ることが出来なかった。

 

何か映画やドラマといったものが見たいと思うし、見なきゃなと思う作品も沢山あるけども、全然そちらまで行くことができない。映画もドラマも「頑張って見るもの」という認識になっている。頑張って見るものだから、頑張れないときは見ることができない。そういう頑張れない時期だったのだと思う。頑張れない時期ばかりが続く。いつか頑張れるようになるのかな、って思い始めたのは27歳の頃で、もう私は31歳になっている。

 

何度もこういう「現状が難しいです」って文章を書いてきた。何度目だろうと思う。しかし書いても書いても現状は良くならないし、平行線か、悪くなるし、だからこういう文章にもなる。それ以上に怖いのは私はこのまま本当に狂ってしまうのではないか?と思うことだ。狂ってしまうなんていうと、語弊があるなと思うのでちゃんと書こうと思うけども、何か事件を起こしてしまうのでは?とたまに怯えてしまう。

 

別に何か事件を起こしてやろうと思ってるわけでも、良くない願望や欲望がふくれあがってるわけでもない。でもある種、社会的に切り離された状態が、その状態こそがある日自分に牙を剥いたら?と思う。そしてその攻撃に耐えられなくて「自分の現状が悪いのは、この世界だ」とあまりに抽象的で雑な捉え方をしてしまったら?

しまいには「もうこうするしかない」と言わんばかりに、自分の上手くいかなさを世界(雑で抽象的なもの)にぶつけたら?その結果、具体的でどこかの誰か、それはその人も大事にされてきたかもしれないし、必死に日々を積み重ねている人かもしれない、その人を傷つけることになったら?と想像してしまう。

私はそうはなりたくないと思う。でも、もしと思うし、そしてそういった事件を起こしてしまう人との境界線のようなものはそれほど遠くない場所に自分はいるんじゃないか?と度々不安になっている。

 

今、私は障害年金で生活をしている。色々、これも申請や受付に1年近くかかって、やっと受理されて、二ヶ月で10万が支給されている。一ヶ月で5万円。色々のお金を引くと1日に使えるのは1100円ほどで、そうなると「本当にお金って無いね」となってしまう。とにかく毎日、節約のことをよく考えてしまう。使わないことも沢山考えて、こうしたら安くあがるとか、色々と。でも、ボン!と使ってしまう瞬間があって、それであっという間にお金が無くなって「わー!」とびっくりする。

ボン!も100万とかじゃないっすよ。5000円とか、そういうのだけども、それでも「大金やんか」っていう気持ち。はへーとうなってる。

 

結局、使えるお金を増やすには節約ではなく、源流の増水せねばならないのやと思う。つまりは、ちゃんと収入を増やすってことになるんだけども、またぐるっと話は戻ってそうなると「体調が安定しなくてすぐに寝込んでしまう」というのがネックになっちゃうのだ。これで働いている人も勿論いるんだけども、自分はまだどうやってこれで働いたらいいかわかってなくて、足踏みばっかりしている。

 

この「結局、うまくいかへんやんかサイクル」の中で、今のところうまく生活できているのは、私の創意工夫が上手いから・・・・・・ではなくて、実家や祖母の家で生活できているってのがほぼほぼな理由なのだろうと思う。多分、帰る家が無かったら、私はこのコロナ禍で野垂れ死んでいたんじゃないかと思う。死んでいなくても、相当苦しい目に合っていたと思う。そういう意味ではまだまだ幸運なのだと思う。不幸の中の幸運は評価が難しい。だけども確実にそれは幸運であると思う。

 

でも「結局、うまくいかへんやんかサイクル」にある日うんざりしてしまったり、なんとかしてそのサイクルを変えようとした結果、その行動が暴力的なものになったら?ってことを私はずっと怯えているんだと思う。ずっと私は怖いのだ。社会的なものを失っていった先の自分がどうなってしまうかがとても怖いのだ。

 

 

だから、文章を書かないと、と急かされるように思ってる。落ちてしまった文章の筋力を取り戻して、こういう自分の不安を書かなきゃと思ったりしてる。そうやって、必死に言葉にして、それを不格好でもブログに載っけたりして、失った社会性を取り戻そうとしている。

方法は間違ってるかもしれないし、もっといい方法があるかもしれないけども、これしかできないって思ったりしていて、これしかできないと思うことをやるしかないって、それも強く思い込んでるから、私は書かなきゃと思う。

私は私の不安を書かなきゃ生きていけないと思い込んでる。

それは思い込みかもしれないけども、別の思い込みに取り憑かれて、抽象的で雑に捉えた世界に攻撃してしまうよりは、断然ましだと思う。

絶対にましだと思う。

 

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