にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

音楽は作れない。文章は書ける。

 ギターを弾けないから文章を書いているって言ったのは『バトルロワイヤル』の原作者の高見広春だったと思う。
 私はその言葉が好きで、音楽も作れないので文章を書いているって自分に言い聞かせている。
 とはいえ『バトルロワイヤル』は読んだことない。漫画版は結構読んでた。映画は見ていない。
 最近になって原作をブックオフで買った。
 110円のコーナーで二冊あって、片方のは巻頭の地図が結構塗りつぶされていたので、そちらは買うのを止めた。
 バトルロワイヤルの原作を買ったのは「今、これだけバトロワ系ゲーム流行ってるし、その源流をちゃんと抑えておきてえ」って気持ちからで、あの頃バトルロワイヤルを読めなかったり映画を見れなかったのは子供だったから修学旅行に行くと思ったら殺し合いをさせられるというのが本当に怖かったからだ。
 そして私は音楽も作れないから文章を書いている。
 ギターは少しだけ弾ける。
 ギターソロは弾けない。


 どうやら音楽は作れそうにないって思ったのはGarageBandってiPhoneに入ってるアプリをポチポチと触ってる時だった。
 それこそ勉強をすれば、なにか作り方は身についたと思うんだけども、根本から作りたい音楽ってのが全然ないなこれは、って私はなってしまった。
 音楽は凄く好きだ。
 毎日聞いてる。歳を重ねるごとに音楽を聞かなくなるって話もよく聞くけども、めっちゃ聞いてる。
 音楽サイコー。好きな曲もどんどん増えてる。日に日に愛が深まっていく。愛してるぜ音色~なんてKREVAみたいなことも思う。
 けども音楽は作れない。作れやしない。
 いや、やっぱり作れないのは作り方を知らないからで知ったら作れるんじゃないか?
 でも、それでも、今の段階で「作りたい!この音楽を作りたい!」って気持ちが湧いていない。
 そうだとしたら、才能があるかもって掘りに行くのは、そこに油田があるかもと思って0に等しい可能性にかけるようなものだ。
 いや、そんな残酷な言い方をしなくてもいい。
 そんな才能あるなし、の話ではなくて、もっとやわらかい言い方がある。
 別にスポッチャもダーツもボーリングも興味がないんだったらラウンドワンには行かない。
 それが私の音楽を作るってことへの距離感だと思う。
 だから多分、今まで作ってこなかったんだろう。


 「音楽が作れないので文章を書いている」
 こういう気持ちで文章をよく書いている。
 でもそれは音楽の代替じゃないし、映画の代替でもないし、漫画の代替でもない。
 なにかの代わりに文章は書いていなくて、同時にそれらができなかったから文章を書いてるんだと思う。
 たまたま、そこに文章を書くってことだけがあって、文章を書いてみたら意外と自分に合っていた。
 この文章は(文章)とかっこでくくることができて、各々、自分が得意とすることに置き換えてもらえればいい。
 私はそれがたまたま文章で、それが料理の人もいれば、服飾の人もいるだろう。映画もいれば、音楽もいるだろうし、人付き合いもいれば、飲食もいるだろうし、喋りもいるだろうし、鍵を作るってことも、絵を書くってことも、ダーツをするってことも、とにかくなんでも置き換えられる。

 
 私は音楽を作ることができなかった自分を悲しいとは思わない。
 だって文章は書くことができる。
 文章を書きながら、好きな音楽を聞いているときの感情のようなものが、この文章に乗っけることができれば、と考えてることもある。
 でも音楽が作れない。
 映画も作れない。
 絵も書けない。
 運動も全然。
 でも文章は書ける。
 そして文章の中で、もしかしたらそれらはできるだろうと思ってる。
 それは祈りなんて大層なもんじゃなくて「できたらいいな~」って子供の願望みたいなものだけども、私は文章の中だけはまだ子供の願望を持っている。


 それでも音楽を作っている人の姿とか、めちゃくちゃに今でも憧れていて、ビートメイキング動画とかよく見てしまう。
 でもそれを見ながら思うのは「こういう感じに文章を書くにはどうしたらいいんだろう」ってことで、いつでも音楽を文章に流し込むことを考えてしまう。
 音楽は作れない。文章は書ける。
 私は音楽を作るように文章が書けたらなって子供のように願ってる。


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