小説を一本書きました。
とはいえ、公開はまだ先になりそうです。
好きな感じの話が書けました。
また喋るねこちゃんが出てきます。
喋るねこちゃんの話しか書けない身体になってしまっているので、困っていますが、喋るねこちゃんの話ならどんどん書ける気がしています。
これからも喋るねこちゃんの小説を書いていきたい。しゃべるねこちゃん作品集を出せるくらいには書いていきたい。
その一方で祖母の四十九日が終わりました。実際のは少し先ですが、お寺さんが来られてのは先日終わってしまい、なんだか寂しい気持ちです。
一ヶ月と少し前はまだ生きていたんだなあと思うと、不思議な気持ちになるというか、この一ヶ月と少しは、とても長い期間のようでもありましたし、あっという間だったような気もしました。
でもやっぱり寂しいなと思います。
それほど気が滅入ることは減ってきたのかもしれませんが、ふと訪れる不在の感覚がちょっと強くなったような気がしました。
相変わらず祖母の家にいます。
祖父と祖母が遺した庭に水をやったり、家でご飯を作ったり、庭でできた野菜を食べたりしています。
ふと何にもない時間が訪れます。
昔なら誰かがいた時間ですが、誰もいないし何もない。
今日はそんな日でした。
なので小説の直しをやったり、晩ごはんを作ったり、庭に水をやったりしました。
何かをしていると、気は紛れます。
気を紛らわしたいな。
このことだけじゃなくとも、自分は長い間悲しい気持ちばっかり見つめていました。
ちょっと疲れちゃったなと思います。
多分、悲しい気持ちはあまりじっと見ちゃだめなんだと思います。
見ているだけで自分をさらに傷つけてしまったり、切り刻んだりしちゃうからです。
私はそれをしすぎたなと思います。
喋るねこちゃんの小説しか書けないって言ってるのも結局そういうことなんだと思います。
どんな風に生きていても悲しくなっちゃう期間があるとしたら、それでも悲しい感情を直視し続けるのは危険なことかもしれません。
決して忘れられなくても、見えないような生き方ができなくてもいい。
視界の端に見えているくらいにしか生きれなくてもいい。直視し続けることに比べたらと思います。
喋るねこちゃんのことを考えよう。
それは今、とても有効なことかもしれない。
私は喋るねこちゃんを考えたい。
喋るねこちゃんを考えることはもしかしたら今生きていられる、そんな足腰の部分になっているのかもしれないと少しだけ思ったりするのです。