ちゃんと寂しい気持ちになってる。ちゃんと寂しい気持ちってのは目の前に寂しい気持ちが存在していて、寂しい気持ちに肩を組まれているような感覚だ。
その肩の組み方も、優しいやつじゃなくて、ヤンキーの先輩に「なあ、俺ら友達だろ!?」って高圧的にやられるような肩の組まれ方で、私は「へへへ・・・」とから笑いしかできない。
ちゃんと寂しい気持ちになっているときは結局どうしようもなくて「寂しいけども仕方ないからねえ」とその肩組まれているのをただ耐えるしかない。
そのうちに「なんだよ、おもしろくねえな」って言い捨てるように寂しい気持ちは去って行く。そしたら、またある程度はやり過ごせる。解決でも解消でもなく、ただ嫌な時間が過ぎ去ったってだけで、何にも変わってはいない。
ちゃんと寂しいと思ってるのは、大きくはここ数年何にも人生が変わっていないことが起因しているだろう。何度も書いてることだけども、心を病んでから社会をドロップアウトしてしまい、主に実家と病院と祖母の家くらいにしか居場所がない。
大きな変化はない。新しい出会いもない。そのどん詰まりにたまに息苦しくなってちゃんと寂しくなるんだと思う。
とはいえ、変化がないわけじゃない。
むしろ変化し続ける。怖い方向にだけども。
父親は相変わらず大病の治療をしている。祖母も90を超えて、身体の不調を以前よりも訴えるようになってきた。
変わらない日々などはなく、私も、私以外の人々も残り時間を抱えている。いつかは終わる。何を思っていても、どんな人生を歩んでいっても残り時間はあって、それは着実に減っている。
人生はいつか終わる。でも誰もいつ終わるかわからなくて、ゆっくり衰弱したり、急に終わってしまったり、あがいているうちに残り時間が減ったりするのだろう。
私は、27歳から31歳の今までを、ただただ減らしてしまった。
無駄だった、なんて思いたくないけども、でも減らしてしまったなあと思う。
過去は取り戻せない。昔、働いていた場所に怒りは別にない。多分、私はどこで働いていても多かれ少なかれこの病気は発症していたと思う。どこにいても鬱病になっていただろうし、ADHDの問題に直面していたと思う。
でも、ADHDがここまで問題視されなかったから、歩んできた人生だと思うし、それによって得た物も多い。多分、問題視されていた今のような社会であれば、私はこの人生にならなかったと思う。
ただ、わかってしまったのが27歳以降だったから、社会からドロップアウトしてもまだ復帰する方法がわからなくて、落ちて地面にたたきつけられて、立ち上がろうとするけども、そこにはそびえ立つ高い壁あって、その壁はつるつるしていて、登ることはできない。跳躍力があって、やっと登れるんだけども、そんな跳躍力もないし、挑めるような体力もない。
高い壁の前で、あぐらをかいてただただ眺めてる。
たまに壁の上から声が聞こえてくる。
その声を聞いて少しうらやましくなる。
その声を発している人も辛いと思うことも大変だと思うことも沢山あるだろう。
それでも、うらやましく思う。
小さな世界に生きてる。
大病の治療をしている父は、薬の投与の副作用で苦しんでいる。
その間は世話をする。水を運んだり、食べれるものを作ったり。
弱々しく「ありがとうなあ~」と父は言う。
でも副作用がなくなると、いつもの父に戻り、延々と人の悪口を言い、頭の思考回路を喉に繋いだように喋り続ける。その少量の毒が付着した言葉を聞いているとしんどくなってきて「やめてほしい」と言うと「俺はもうすぐ死ぬのに、そんな風に攻撃をする」と怒り狂う。
祖母の家では、祖母が大事にしている仏壇に毎朝水を供える。
足が痛くて、歩くのが困難な祖母のために新聞を取りにいく。
そして料理を作る。
あまりに静かな空間だけども、同時に昔は元気だった祖母がしんどいと言ってる様子を見ると、少し悲しい気持ちになる。
たまに鬱に理解のない祖母になる。発言はとげとげしくなる。祖母は90を超えているし、それは仕方ないことだと思う。それでも少しは辛くなる。
まだ居場所があるだけましなんだろう。私はそう思う。
不幸のどん底のような書き方をしているけども、不幸のどん底じゃないし、私も不幸のどん底だとは思っていない。
でも、幸せではないだろう。多分だけども幸せな状態ではないだろう。
なんとかやれている日々だけども、しんどくなって、動けなくなったときに、ちゃんと寂しくなる。
誰か、ここから連れ去って、ここから抜け出させてと思う。
でも、馬鹿らしくてそう思うこともやめる
私は茨の森で寝込んでる姫でもないし、王子をまってるわけでもない。
そんなことを望んでるわけじゃないし、31歳男性だし。
現実を変えるのは大きな力がいる。社会的な大きな流れもある。あらがえない要因も沢山ある。変えられない時間も変えられない状況もそこにはある。大きな変えられないものと小さな変えられないものがある。
その瞬間に、ちゃんと寂しいが肩を組んでくる。
でもそのちゃんと寂しいに捕まってはいけない。
その心の隙間を見つけて肩を組んでくるちゃんと寂しいに捕まってはいけない。
私は逃げなきゃいけない。
その寂しさから逃げなきゃいけない。
いくら変わらないものが周囲にあろうと、寂しさに肩を組まれようと、そのままにしてはいけない。
私は戦わなきゃいけない。
私は戦うためにこの文章を書いている。
ちゃんと寂しいが、どんな存在かを把握するために。
私にとって何が変わらない状況かを把握するために。
何がつらいことかを把握するために。
何に苦しんでいるかを把握するために。
言葉にすることで、その状況は見にまとわりつく空気から、実体をもった言葉になる。
漠然と肩を組んでくる寂しさは、そうやって実体をもった言葉の集合体として見えるようになる。
そうすることで、私はその化け物にやっと立ち向かうことができる。
まだ、倒す方法はわからない。
でもやっと化け物を実体化することができた。
私は、その化け物の姿を確認して、その化け物から反対側に向かって走ることにする。
壁は高い。
環境は変わらない。
でも化け物に飲み込まれないように反対側に走ることだけはできるはずだ。