にゃんこのいけにえ

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今の私のこの人生。/『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を見た!!

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を見た!ダニエル・クアン、ダニエル・シャイナート監督・脚本。

あらすじ

コインランドリーを営む平凡な主婦エブリンが国税局に行ったらなぜかマルチバースに巻き込まれ、宇宙の命運をかけた戦いに挑むことになります。

ネタバレあり感想

私は大きいものと小さいものが並行かつ平等で混じり合いながら語られる物語が大好物なのですが『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』はまさにそんな映画だった。
並行世界と宇宙の危機が家族(もしくは自ら)の危機として描かれる!しかもそれがほぼ国税局の中で語られる!
もう超たまんなかった。
そのスケールの大小が入り乱れる作家性の強い作品ってのもあり、鑑賞後のテンションは凄い演劇を見た後みたいな感じになってしまった。
全然違うんだけどもままごとの『わが星』とか、そういうのを見た時のスケール感を思い出したりした。
冒頭の複雑さと何かが起きている感じはヨーロッパ企画の舞台も思い出したり。

にしても、目まぐるしい展開に(アクションと平行して設定が語られるのって、カーチェイスしながら設定語っていた『ターミネーター』みたいだなと思いました)、ミシェル・ヨーキー・ホイ・クァンらによる凄まじいアクションの数々!(ウエストポーチ拳やワンちゃん拳!)やびゅんびゅん目に飛び込む視覚効果、ドラッギーな編集、あれこれなパロディ(ウォン・カーウェイ的なあれ最高!!)そしてどぎつい下ネタ!(お尻にまるでスマブラの下B的動きであれを刺しにいくの、どぎつすぎて最低で超笑った。)
でも、そんな、なんでもありな表現の果てに描かれるのが、めっちゃ優しい物語って本当たまんないじゃないですか。
本当たまんなかったんです。




映画と関係ない話をするんだけども、芸人のダイアンが凄く好きで彼らがよく言うネタに「津田が高校落ちた」って話がある。
先日、放送されたドラマ『ブラッシュアップライフ』と関連して「人生でやり直すとしたらどこからやり直す?」と聞かれた津田は「俺はやり直したくない。過去の全てがあって今の自分があるもん」と言うが、ユースケは「高校落ちてるやん」と言うのだ。
家庭教師もつけてもらいながら、高校に落ちたダイアン津田。
でも津田は「別に人生をやり直したくない」と答えるのだ。


youtu.be


で、ここから私の話だ。
人生は選択の連続だと言う。明確に意識した瞬間は「就活」の時だった。
企業に落ちた瞬間、面接で失敗した瞬間、エントリーシートを出し忘れた瞬間、未来が閉じていくような感覚がした。
それはあったかもしれない未来を逃しているような感覚だった。
同じく就活をしていた頃、Twitterの人生が辛いと嘆いているアカウントばかりが目に入り「人生とは辛いものなのだ」と絶望をよくしていた。
未来が消えていき、そして人生を悟ったようになっていたのが、あの就活の頃だった。


主人公エブリンの娘ジョイは、別バースでマルチバースの破壊者として出てくる。
そしてジョイは「ベーグル」を作っている。
それは虚無だ。いくら異なる可能性を見いだそうが感じる人生の虚無だ。
どうせ、いくら生きたところで、最後には死んでしまう。
もしくはあらゆる可能性を見ることができるからこその虚無。
私はあのTwitterを見て、人生のネタバレを食らっている気持ちになっていた頃を思い出していた。
いや、今もそうかもしれない。
「人生」はそういうものだ。辛く悲しいものだ。あらゆる可能性なんてない。
私は何もつかめない。
全てが無意味だ。
そう思う瞬間は、今だって0じゃない。


『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』ではあらゆるバースの「自分」が出てくる。
彼氏と別れたことで、アクション女優として開眼し、スターになっている自分。
一流のシェフになっている自分。
盲目になったが、歌の才能が開花した自分。
アニメーションの自分。
岩の自分。
マルチバースといえば、難しいが、簡単に言えば「ありえたかもしれない自分」だ。
この映画のマルチバースへの分岐は本当に簡単で、少しの選択の違いだ。
もしかしたら本当にそうなのかもしれない。
誰しも「あのとき、ああしていれば」と一度は思ったことがあるだろう。
一度ならずとも、何度も思うかも知れない。
私たちは思う。今生きている人生はなんでこうなんだろう?と。
そしてありえたかもしれない人生、オルタナティブな人生を生きることは出来なかったのかと。


人生には可能性がある。ありとあらゆる可能性が。
あの瞬間、別れることを選択したから。
あの瞬間、走っていたから。
あの瞬間、まだ続けていたから。
あの瞬間、ただそうであったから。
その瞬間の選択で、私たちは「違う私」になれたかもしれない。
私も選択によっては今、ブログなんて書いていないかもしれない。
もしかしたら、スペイン辺りで料理人をしている人生があったかもしれない。
家族ができて、子供を育てている人生があったかもしれない。
ZEPP OSAKAでライブをしている人生もあったかもしれない。
ちょっとしたお金ほしさに犯罪に手を染めている人生もあったかもしれない。
あの人と付き合っていた人生もあったかもしれない。
鬱病になることも、発達障害がわかることもなく、仕事を続けていた人生もあったかもしれない。
でも、そんなことはなく、私は今、鬱病で無職で深夜にブログを書いている。
その人生になっている。


その人生になっている。とシニカルに悟ってしまうこと。
それは可能性の輪を閉じることであり、人生を虚無的に捉えることだ。
悲観と諦念に人生を捉えることのその先は、そう。ベーグルだ。
いくら可能性があったとわかっても、私が生きているのは「この人生」なのだから。


だけども、この映画ではその今、生きている「この人生」を肯定する。
人生にはあらゆる可能性があることを肯定しながらも、今、生きている「この人生」を肯定する。
それは何故か。
一度きりだからだ。
人生は一度きりだからだ。
いくら無意味な時間が多くを占めていようと、いくら今が輝いていなくとも、いくら今が辛いことが多くとも、今、この瞬間の人生は一度きりだからだ。
ベーグルなんかじゃ断じてない。
そして一度きりの「この人生」を生きることほどの輝きはないからだ。


それと同時にありえたかもしれない「その人生」も肯定する。
数多くのありえたかもしれない世界。
オルタナティブな世界では自分はクィアかもしれない。
そして別の世界で対立している人と愛し合う世界があるかもしれない。
同時に今、愛してる人と離れる世界もあるかもしれない。
それは愛する娘とすらなんだけども、でも、それすらも一度は肯定する。
それでも"今のこの人生を生きる私"はあなたを愛している、と言う。
あらゆる人生を生きる「今の私」だから言う。
「今を生きる私」だからあなたに言うのだ。


ダイアン津田が高校に落ちていない人生もあったかもしれない。
それでも津田が「人生やり直したくない」というのは「今の津田」は「今の津田の人生」を生きているからだ。
私もそうだ。
今、私は「私の人生」を生きている。
あったかもしれない可能性は、たしかに閉じたのかもしれない。
けれども、私は今の私の人生を生きている。
「この人生」を否定なんてしたくない。
私は私のこの人生を肯定する。


にしてもこの映画は他のキャストで成立しているのが想像できない。
疲れ切った姿から、あらゆるマルチバースの経験を得て、カンフーマスターへなっていくミシェル・ヨーのかっこよさったら。
遡っていろいろな出演作品が見たくなりました。とりあえず『ポリス・ストーリー3』見るぞ!
そしてキー・ホイ・クァン!バース移動を特殊効果でなく、自らの身体の動きで表現する巧みさったら!
かっこいい方のウェイモンドも印象的だけども、けれども、何より心に残ったのは終盤のウェイモンドの姿だ。
彼は弱々しく、頼りなく見えるかもしれない。
けれども彼は彼なりにこの世界と戦っているのだ。
男らしさから降りること。
降りることは戦わないことじゃない。
彼は親切にし続けるという戦いをしているのだ。
そしてもし可能であれば、自分もその戦いを頑張りたいと思った。
私もそういう風に生きていきたい。


にしても、なんてことない石ころが転がるって映像で泣かせるんだから、そりゃアカデミー作品賞も監督賞も獲るわ!と思いました。
名プロレスラーは箒とプロレスを取れるって言葉を思い出したりしましたよ。
多分だけども、今年ベストな気がします。相当大好きです。


そういえば、ちょうどアジアン・カンフー・ジェネレーションの『今を生きて』って曲がシャッフルで流れてきた。
タイトルがぴったりだなって思ったら、歌の最後はこんな風に歌われる。

駆け出そう世界へ Say yeah!!!
肉体の躍動だ Baby
永遠を このフィーリングをずっと忘れないでいて



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