にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

父のこと

 父が亡くなった。

 67歳だった。

 膵臓に癌が見つかって4年の闘病の末に、最後は脳に転移して、そして眠るように亡くなった。

 これが数週間前のことで、気がついたら父が亡くなったあとの人生を私は生きている。

 その実感は全く無い。

 父が亡くなるのを目の前で見ていたのに、その実感は全然湧かない。

 父の葬儀もしたのに、ふいにいそうな気がする。

 そこらへんにいて、また失礼なことを言いそうな気がする。

 でも、亡くなっているし、もうどこにもいない。

 


 父のことを思うととても複雑な気持ちになる。

 それは以前にも書いたことだ。

我が家のハイゼンベルク - にゃんこのいけにえ

 一度父が亡くなったことを文章にしてみようとしたが、その父の面倒くささの方が全面的に出てしまい、書くのが辛くなってしまった。

 多分、読むのも辛い文章だったと思う。

 未だに父のことをどう捉えていいかわからない。

 思い返すに「面倒くさい人だった」と思うし、未だに山ほど悪口が出てくる。

 それは生前の父が本当に厄介で、それによって心が数え切れないくらい傷ついたからだけども、そんな父も亡くなってしまった。

 沢山された嫌なことを全て許す前に亡くなってしまった。

 


 脳に癌が転移して、左半身が不随になってしまい、寝たきりになってから、私たち家族は看護師さんやヘルパーさんの力を借りつつ介護をし続けた。

 三度の食事を作り、おむつを換え、小さな要望(もしくはわがまま)にその都度付き合ってきた。

 左半身が不随でもリハビリの成果で一時は少しは動けるようになった。

 ただ、それも一瞬で、急に悪くなってしまい、また動けなくなり、そしてその1~2週間後には食事もできなくなり、最後には水も飲めなくなってしまった。

 許せないことが沢山あると言いながらも、それでもそんな姿の父を見たり、介護をする中でもうそんなことはどうでも良くなっていった部分も沢山あった。

 弱っていく父の側で生活するのは大変だった。

 同時に、父がもうかつての父じゃなくなっていくことに耐えなきゃいけない時間でもあった。

 とても面倒くさく、高圧的で、酷いことをすぐに言う父じゃなくなっていく。

 死が近づいていく父を私は複雑な気持ちで受け入れるしかなかった。

 

 

 

 自分にとって父はどんな存在だったのだろう?

 それが全くわからない。

 いい父だったのか、悪い父だったのかすらわからない。

 一緒にいると比喩ではなくしんどくなってしまうような存在ではあった。

 ただ、それでも私は父の子であって、それからは逃れられない。

 YMOを教えてくれたのは父であって、『タイタニック』を見せて映画の面白さを教えてくれたのも父だった。

 父が亡くなった直後に思い出したのは、私が小学生の頃に父と一緒に大阪の日本橋で遊んだことだった。

 ゲームを買って、カツ丼屋の「こけし」に行ったこと。

 もしくはそのこけしが閉まっていて、隣の喫茶店に行った日のこと。

 数少ないけども、自分にとって父がまだ楽しい存在だった日のこと。

 

 

 

 父は思ったことをすぐに口に出していた。思ったことをすぐに言うので前後もめちゃくちゃ、話もあちらこちらに飛んでしまって、正直付いていくのがしんどかった。

 それでも私が勧めた『ブレイキング・バッド』を見て、その感想を話しているときは、会話が通じたような喜びがあった。

 父は寝室のテレビでfire stickを使ってNetflixを見ていた。そのfire stickの調子が悪くなり、私は新しいfire stickを注文した。

 それが届いた日、父は倒れ、病院に運ばれ、脳腫瘍が見つかった。

 結局、新しいfire stickで映画もドラマも見ることはなかった。

 

 

 

 寝たきり生活になってからも、わがままをずっと言い続けて、それに対応するのはとてもしんどかった。

 それでも自分のことを時折『ブレイキング・バッド』の主人公になぞらえて「ハイゼンベルク」と呼ぶことに私はどこかで好感を抱いていた。

 ベッドの上で、かつてお世話になった人や友人に涙を流しながら電話をする姿に心を痛めていた。

 弱って、もうほとんど喋らなくなった父に、ちょっとでも気分転換になるかなと思って伊集院光深夜の馬鹿力を流したら、弱々しく「面白いなあ」と言ったような気がした。

 それがちゃんと声を聞いた最後だった。

 

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 4年前に膵臓癌を摘出したあと、リハビリと言って、家から近くの公園まで歩いて行くのを付き添ったことがあった。

 その時、喋ったことを私は思い出せないでいた。

 でもTwitterに書いていた。「@gachahori 父 公園」で検索をした。

 父に「彼女を作れ」と言われたこと。日に当たる部分が暖かいと喜んでいるところ。

 そして私が公園で遊ぶ子供たちを見て、もう28歳になってしまったよって言ったら「これからやないか」と言われたこと。

 結局、父が生きている間に彼女を作ることも出来なかったし、これからの姿を見せることもできなかったのかもしれない。

 私のやっていることに完璧な理解はしないまでも、それでも気にかけたりはしていたのかもしれない。

 父が倒れる二ヶ月前、私が文学フリマに出店したとき、父はやってきた。

 結局、そこでも失礼なことを言ってきて嫌な気持ちになったけども、父は父なりに、私のことを思っていたのかも知れない。

 ただ、それがもっと優しくあったらなと思う。

 もっと付き合いやすい人間だったらなと思うよ。

 もう叶わないことではあるけども。それでも、それでもと。

 

 

 

 2019年に父が眼科で手術をした時、父は『アンダルシアの犬』みたいだったと言ったことを覚えている。

 まだ私が子供の頃、プールに行った父が、水面から半分だけ顔を出して『地獄の黙示録』って言ったことを覚えている。

 私が子供の頃、やけに『タイムクライシス』シリーズが好きだったことも覚えている。

 演劇で父と和解するシーンを描いたら、やけに喜んでいたことを覚えている。

 寝たきりになりながら、家族を呼ぶために『ブレイキング・バッド』に出てきた老人みたいにベルでも付けるかと冗談を言ったことを覚えている。

 5歳の私にパソコンのDTMソフトのサンプル音源で流れるYMOの『ライディーン』を聞かせて「かっこいい曲やろ」って言ったことを覚えている。

 父と一緒にいるのが嫌になり、2ヶ月くらい離れていたのに、久しぶりに会った瞬間に謝るでもなく『全裸監督』の國村隼が凄かったって話してきたことを覚えている。

 膵臓癌の手術をし、まだ元気だった2019年に東京にやってきて、ずっとはしゃいでいたことを覚えている。

 抗がん剤治療が始まることになって、副作用で髪の毛が抜ける心配をした父が「今のうちに、遺影を撮ってくれ」と家の外で写真を撮らされたことを覚えている。

 

 

 

 その写真は遺影になった。

 カメラだって買ったとき、父から「すぐやめるやろ」と言われたものだ。

 ずっといらないことばっかり言ってたし、言われてきた。

 それでも、くやしいけれど思い出すのは父のチャーミングな部分だ。

 それがとても悔しい。そして忘れたくない。

 父は67歳で亡くなった。

 まだ実感はわかない。

 生活のいたるところに父の影がちらついている。

 久しぶりに入った映画館の予告で『タイタニック25周年リマスター』を見ながら、私は子供の頃『ポケモン』の映画を見に行くと嘘をつかれて『タイタニック』を見たことを思い出してしまった。

 小学二年生の私は『タイタニック』に号泣した。『ポケモン』と嘘をつかれて、字幕版で、3時間で。それでも私は映画にのめり込み、そしてぼろぼろと泣いたのだった。

 映画が終わっても私は泣き続けていた。

 その時、父はどんな顔をしていただろう。

 おぼろげに思い出すのは満足げに笑っている父の顔だ。

 

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