さて、毎日書いている日記だけども、最近はどうしたものかと思い続けている。こうやって日々を記録を垂れ流すことによって、私はなにをしたいのだろうかと。
言い換えれば「日記でなにを表現したいのだ?」ということである。日記を書いて書いて書いて、1ヶ月が過ぎた。しかし、書いても書いても書いても現れるのは「凡庸な日常」だ。
言うなれば「それが表現できた」ということなのだろう。凡庸な日々を生きているということが表現できた。それでいいじゃないか。
同時に、日記なんてやめてネットに数多あるような「エッセイ」を日々書いたらいいじゃないかという思いもある。しかし、それほど私は世界に対して「お気持ち」を発信したいとは思ってはいないと、ここまで書いて思い始める。
凡庸な日々でもいいから、それを積み重ねていくこと。それを通じて、両目洞窟人間という人間の人生のログを残すこと。
それでなにかを表現したいだなんて、思わない方がいい。
ログはログで、凡庸な日々は凡庸な日々だ。
ただただ生活は続き、人生は一日一日終わりへと近づいていく。
そのことを書こうと思う。
これは進捗日記だ。なんの?もともとは小説の。でも、最近は書けていない。どうして?なにを書いたらいいかわからないから。
じゃあなぜ進捗日記なんて言い続けるの?人生の進捗日記という言い訳を用意してるんですよ。
人生の進捗日記?
そうです。人生の進捗日記。進んだり、戻ったりする人生の進捗日記。
僕の好きな本に中原昌也の『中原昌也作業日誌』ってのがあって、作業日誌と言う割には、作業どうこうよりも、日々、物を買って、売って、映画を見て、本を読んで、音楽を聴いて、演奏して、小説を書いて、絵を描いて…みたいなそんな本があって、でも、読んでるうちに膨大な日記の中から浮かび上がってくるのはその中原昌也さんの人生で。
そんなものをやりたいと思って、この進捗日記を書いている。
じゃあ、その通りやったらいいじゃない。1000字近くも渡って、ぐだぐだなにかを書くことなかったじゃない。
その通りだと思う。でも、たまには迷ってしまうのです。
なにに?
書くことに。日々、日記を書いたりすることに。そんなことにすら迷ってしまうのです。
僕は。
あっそう。
じゃあいつも通り、進捗日記を書こうと思います。
今日もほぼ寝続ける。なんだか妙にしんどくて、物事を進めることが困難な日だった。
借りてきた映画も見る元気がなくて、結局見ることができず。
夕方、返しに行く。
そばとカツ丼を食べてからドトールにこもって、樋口恭介の『構造素子』を読む。
感想を書く。でも相変わらずエモーショナル先行でなんのこっちゃって感想だ。ちゃんとした感想を書けるようになりたいという一方で、こういうエモーショナルなものは湧き上がらないと書けないから、湧き上がったというだけ、素晴らしかったのだと思う。
構造素子、とてもよい本でした。
構造素子の影響で『ディファレンス・エンジン』を買う。
蒸気機関で駆動する社会というのが読みたくなったのでした。
米を買って、家に帰る。
スクワット100回とお風呂に入って人間性を回復させる。
という感じが、僕の今日の進捗日記。相変わらず凡庸な日々だ。
でも、凡庸な日々を積み重ねることで何かにたどり着きたい。成功だなんて望んじゃない。でも、人生がA地点からB地点に行ったというときにその移動推移を観れるようなログがあってもいいじゃないか。
というわけで、私は今日も進捗日記を書きました。
明日も書いていこうと思います。