よく人に「なにかしら文章を書いたらいいよ~」って勧めている。私から与えられるのはこれだけやから……、という気持ちで、伝えている。私は与えられるものをあまり持っていない。
とはいえ、文章を書いたらいいよ~ってのは、「文章を書いたら人生が好転するよ!」みたいな意味ではない。自己啓発的なことじゃない。
むしろ、文章を書いたどころで、そんな魔法のパウダーのようなことは起こらない。そもそも魔法のパウダーにそんな効果があるかわからないし、魔法のパウダーというものがどういったものかもわかっていない。
なんにしても、文章を書いても、何か期待できることはない。
むしろ文章を書くこと、そしてそれを発表をするというのは、結構リスキーなことのように思える。
最近では、公開された文章がきっかけで炎上が起こった、なんてことを週に1度以上は見ているだろうし、議論が起きるのは「誰々かこんなことを書いていた(言っていた)」と、書かれてしまったことを、誰かが読んで傷ついて、そして最悪な事態になる。
そしてこれは紛いなりにも文章をちょこちょこと書いてきて…の実感だけども、文章を書いて発表をするたびに、私は自分の弱点を世間に晒しているなあと思う。『ハウス・オブ・ザ・デッド』というゲームではボス戦に入ると弱点の箇所が記された本が登場するけども、文章を書いて発表するってのはそんな本を自分で作っている行為と変わりない。
世界に向けて、自分の弱点を晒す行為。
全く、まともでは無い気がする。
しかし、それでも文章を書いたほうがいいよ~って安易に人に勧めるのは、やっぱり書いた方がいいと思うからだ。その根拠は、私の実感からで、実感が根拠ってそれは信用ならないけども、それでも理由を説明させてほしいと思う。
文章を書いたほうがいいと思う理由は、自分は思っている以上に自分のことをわかっていないんじゃないかと思っているからだ。
四六時中付き合っている自分のことをわかっていない、ってのはどういうことだと思うけども、でも実際のところわかっていないんじゃないか、少なくともそういう人たちは結構いるんじゃないか。
もちろん、自分のことは隅々まで把握している、完璧だ、っていう人もいるだろう。
でも、中にはわかっているつもりでも、自分のものの考え方であったり、思考の流れの癖だったり、そういうものはわかってないってこともあるんじゃないかと思う。
私自身、長いこと自分自身のことをちゃんとわかっていなかった気がする。
でも、徐々に何か自分ってものをわかる…というか、こういう考え方をしている人なんだ、ってのをすべて把握してなくても、少しはつかめるようになったのは、文章をよく書くようになっていった頃だった気がする。
なんとなくその頃のことを思い出すと、霧がゆっくり晴れていったような、そんな感覚だった。
だからこそ、文章を書いたらいいよ~って安易に勧める。
そもそも文章ってなんだよって話だけども、なんでもいい、日記でも感想でも小説でも何かの考えの断片でも記憶でもとにかく書いてみたらいいと思う。
そうしていくうちに、文章を書いてみるうちに、何か掴めることがあるかもしれないし、霧が晴れるようなこともあるかもしれないし、やっぱり何も変わらないかもしれない。
それでも、例え弱点を晒す行為だとしても、使い勝手の良いネットミームに頼らないで、自分で考えた、自分で書いた、そんな文章は自分を助けてくれると思う。というかそう祈って、私は文章を書いている。
でも、人に文章を書いたらいいよ~と勧めることは多かったけども、最近は全然書けていなかったので、改めて私も文章を書くことに向き合おうと思います。
そんなこんなでまた弱点を晒す日々だけども、それはそれで、と納得させる。
私はやっぱりまだ私をわかっていない気がする。
何にせよ、そこからしか始まらないことも沢山あると思うのだ。