樋口恭介の『構造素子』を読んだ。
あらすじは以下の画像から
面白い本だった。しかしどのように感想を書けばいいかわからない。ネットの海にはこの本の構造を解説している文章、自身の人生と引き合わせて書いている感想があった。
今更、構造の解説や僕の人生と引き合わせた感想なんていらないと思う。
だから、どう書けばいいかわからない。
しかしどうしても何かを書きたい。なぜならば読んでしまったからだ。誰にでも読める本はない。しかし誰かには読める本はある。そう言う風なことをツァラトゥストラは言ったそうだ。
誤読だったとしても私はこの本を読んだ。そして何かを語りたいと思う。それは虚栄心や自尊心を満たすためではなく、読んでしまったから、その感情の果てに気持ちを吐き出したいからと言うことを付け加えたい。
そもそもなぜ読もうと思ったか、といえばTwitterを見ていたらこの画像が流れてきたからだ。
『これは学園ラブコメです』という本で最初に引用されるのがこの『構造素子』の文章だそうだ。こういった文章のことをエピグラフっていうそうですね。勉強になりました。
で、これを読んだ時に何か惹かれるものがあって、次の日には図書館でこの本を借りていました。その直感は当たっていたなと思いました。
売れないSF作家だった父が残した草稿を息子が読んでいる…という体裁の小説である。
その草稿を読むというのが、本書の8割を占めている。
ここで軽くネタバレになるのだけども、その草稿には生まれてこなかった命についての記述がある。そして亡くなってしまった父の人生がある。
その草稿を通して息子は対話をしていく。死んでしまった父と、生まれてこなかった兄と。
対話といっても霊的なことではない。
全ては物語の中で行われる。
物語がそうさせる。
草稿にはさまざまなものが引用されている。SF小説、哲学書、宇宙戦争のラジオドラマ、ミュージシャンのワン・オートリックス・ポイント・ネヴァーのインタビュー。
それらが浮かび上がらせるものは何か?
世界そのものであって、そして物語を語るということではないか?
とここまで書いていて、両目洞窟人間はかなり動揺をし始めている。言い切る…ということがかなり危険な行為であることを知っているからだ。言い切ってはいけない。本はそもそも読めるものではない。誤読の先にしか物事を考えることはできない。
だから、言い切ることはやめよう。
この本で書かれた世界はなんであったかをまずは整理しよう。
雪の日の思い出が語られる。
雪の日に、橇(そり)を持って丘を登り、そして下っていく。瞬間は永遠になる。
降る雪の結晶は一つ一つが異なる結晶を持つ。
その結晶を眺めることは異なる宇宙と世界を見つめることになる。
亡くなった父ダニエル・ロパティンは本を通して、宇宙を見てきたと語る。エドガー・アラン・ポー、H・G・ウェルズ、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア。
息子のエドガー・ロパティンは父から勧められた本を読むことはあまりなかった。父から勧められた本で繰り返し読んだものはデカルトの『方法序説』だったと語る。
父はSF作家としては売れなかった。時代遅れの作品を書き、それは誰にも読まれなかった。
父は作家を辞め、小さな新聞社の記者になった。
その父が死ぬ前まで書いていた草稿。『エドガー曰く、世界は』。
タイトルから分かるように世界を書こうとした物語だ。
物語はあったかもしれない人生を書く。
あったかもしれない人類史と二人の生活を書く。
それは滅亡する。第一回目の人類。
第ニ回目の人類は自らで物語を語り、生み出していく。そうすることが人類であるかのように。
しかしその第ニ回目の人類は、異なる物語を語り始める人物の登場により、滅亡にいたる。
そして滅亡した先に、草稿は終わる。
草稿は終わらないことで、無限の可能性を見せる。
それでも続きを書く。エドガー・ロパティンは書こうとする。
その中に、亡くなった兄を見る、亡くなった父を見る。
父がなにを書こうとしていたかを明らかにするために、父が読んでいた物語を読む。
父と息子の対話が始まる。物語を通して、物語を書くことによって。
生まれることは死を意識することである。
生まれた瞬間から世界の終焉は定められている。
世界の終焉を迎えた者の声を聞くこと、それが物語を書くことなのだ。
息子は書き始める。物語の続きを書き始める。
物語の声を聴いて、兄の、父の、幽霊達の声を聴いて物語の続きを書く。
物語を書くことは世界の終焉と対決することなのだと思う。
世界の終焉とは大きな世界の終焉ではなく、一人一人の人間が迎える人生の終わりであり、その人が迎える人生の終わりこそ、世界の終焉である。
その一人一人が迎える世界の終焉に対して、周りの人間ができることは喪に服すことである。
喪に服す。それは彼らの人生を語り直すこと。言葉によって語り直すことだ。
その一方で発声での語りというのは、残っていかない。
だからこそ記述が必要なのだ。
世界は終わってしまった。ならば、その世界を語り直すことが必要なのだ。
物語は残っていく。物語は何度も語り直される。物語は何度も生まれ変わる。
人は死ぬ。いつか死ぬ。絶対に死ぬ。世界は終わる。世界の終焉を迎える。
だから、物語は語られなきゃいけない。死ぬからこそその、幽霊達の声に耳を傾けなければいけない。
物語を語るということは世界をもう一度捉えるということだ。目の前の世界をもう一度捉えることだ。
それは一つ一つが異なる雪の結晶を見つめることだ。
それは雪の日の思い出を何度も反芻することだ。
それは生まれなかった兄に思いをはせることだ。
それは父が残した草稿に耳を傾けて、遅すぎた対話をすることだ。
書くということ、失敗に失敗を重ねることだ。冗長な表現を生み出すことだ。回収できなかった伏線を残すことだ。陳腐な表現を使うことだ。破綻した物語を語ることだ。
それでも、それでも物語は語られなきゃいけない。
物語は語られるべきなのだ。
世界を捉え直すために。
生きなかった方の人生へ思いをはせるために。
生まれなかった者の声を聞くために。
死んでいったものの想いを知るために。
一つ一つ異なる完璧な結晶を見るために。
そして宇宙を見るために。