にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

リラックマと両目さん。(私と帽子をめぐる冒険)

 時は2019年。両目洞窟人間(私、29歳男性)とその実家は恐るべき困難に立ち向かうことになった。私の退職、弱っていく祖父母、そして父の病気である。皆、弱り果てた。困り果てた。どうしたものかと頭を悩ませた。

 そんな頃、Netflixで一本のストップモーションアニメが配信になった。

 『リラックマとカオルさん』である。

 その恐るべき可愛さの暴力に、瞬く間に我が家はリラックマの虜になった。

 リラックマ

 本物のクマではなく、着ぐるみのクマである存在。

 リラックマ

 一日中、部屋でゴロゴロする存在。

 リラックマ

 涙もろい一面を見せる存在。

 

 我々はリラックマのようになりたいと願い、そしてリラックマの姿に傷ついた心を癒していった。

 そしてその心、魂はリラックマを映像だけでなく、実体を望んだ。

 ぬいぐるみ等のグッズを買い漁るタイミングが来たのである。

 我々は梅田に向かった。向かう場所はそう、リラックマショップである。

 リラックマショップで我々は実体を持ったリラックマ(ぬいぐるみ)やリラックマ(グッズ)にときめきを、精神の回復を、生きている意味を得たのだった。

 

 f:id:gachahori:20190829032439j:image
リラックマに心を救われている両目洞窟人間氏

 

しかし、一つ問題点があった。

 たしかに実体のリラックマは可愛かった。確かに可愛かった。

 ただ、どうも買うという行為までは衝動が突き動かされなかった。

 可愛いのに、惜しいのだ。

 実体は確かに可愛いのだが、まだ財布の紐は緩まなかった。なのでその日はただ、目で愛でるだけだったのだ。SAN-Xへ少しばかりの勝手な失望を抱きつつ、帰路に着いたことを忘れはしない。

 

 数ヶ月経った。

 生活は更に混迷を極めた。

 減りゆく預金残高。慌ただしい日々。そして父の退職。

 それらはまたもや、リラックマを求めた。映像は何度も再生された。特にハワイアンリラックマの回は皆のお気に入りだった。

 しかしそれでは満足できなかった。そうまたもや実体を求めたのだ。そうリラックマの実体を。

 

f:id:gachahori:20190829035936j:image

↑ハワイアンなリラックマ達。

 

 我々はある情報を手に入れていた。

 梅田のリラックマショップではなく、あべのにあるリラックマショップがいいらしいと。

 我々は日を調整した。

 そして、行ける日を見つけ、向かうことにした。

 いざ、リラックマショップへーーー

 

 その日、我々はハローワークで父の退職について、相談をし、シビアな現実に打ちのめされた。

 通常ならばへこんだまま、帰路につくところだ。しかし、心の中では微かな光が灯っていたのである。そうリラックマである。

 我々はハロワを出ると、天王寺へ移動をした。1時間近くかかったが、全く苦ではなかった。何故ならばリラックマが待っているからだ。

 そうリラックマが。

 

 話は突然だが変わる。

 私は帽子が似合わない。頭がでかいからだ。そのでかさゆえになかなか入る帽子がなかった。そして、入る帽子があっても全く似合うことはなく、新進気鋭の変態のような雰囲気を漂わすことがほとんどであった。

 私は帽子には見放されていたと思っていた。

 しかしある日聴いたアルコ&ピース D.C.GARGAEで、アルコ&ピースがこう語っていたのを覚えている。

 「どんな人でも必ず似合うニューエラのキャップはあるからね」

 私はその言葉を覚えていた。そしてニューエラのキャップの部分を帽子と変換し、心の中に漂わせていた。

 いつか似合う帽子に出会うことがあるだろう。

 そんな日が来るだろう。

 

 リラックマショップの店頭に、黒いキャップが飾ってあった。

 リラックマっぽくない、スケーターファッションな雰囲気を漂わせたキャップ。

 vision street wearとロゴが入っている。そのロゴから半身を見せるリラックマの姿。どうやら、このブランドとリラックマがコラボしているようだ。

 私はなんとなく被ってみた。そして鏡をみた。

 似合っている。

 そう、似合っていたのだ。

 あの帽子が似合わなかった私が。

 どんな帽子を被っても新進気鋭の変態にしかならなかった私が。

 似合っていたのだ。

 

 私は一旦落ち着くことにした。

 店を出た。

 それからぐるりと回った。

 別の帽子屋にもはいった。

 帽子を被ってみた。

 似合わなかった。

 やはり、帽子が似合うようになったわけではなかった。あの帽子が似合っただけだったのだ。

 

 リラックマの実体を私は求めた。しかし、それでも財布の紐が緩むものには出会うことはなかった。

 似合う帽子を私は求めた。しかし似合う帽子に出会うことはなかった。

 それがどうだ。

 実体のリラックマでありつつ、似合う帽子なのだ。

こんな偶然あるものか。

こんな偶然あるものなのか。

 気がつけば私はレジへ向かっていたーーー。

 

 出会い。それはいつ訪れるかわからないものである。

 しかし、何より必要なことがある。

 それは出会った瞬間に、出会ったと知覚することだ。

 リラックマの帽子と出会った瞬間、私は戸惑ってしまった。店からも出た。別の帽子屋にも入った。

 出会えたことに気がついてなかったのだ。

 しかし、本当は出会っていた。

 そう、出会っていたのだ。

 いきなり出会いは訪れる。ずっと似合う帽子を探していた。ずっとリラックマの実体を探していた。

 まさか同時にやってくるなんてーーー。

 

 私はレジでタグと厚紙を帽子から外してもらい、その場で被り、店を出た。

 リラックマの実体を得て、似合う帽子を手に入れた私は、この時の感情をあえてこう記そうと思う。

 最強であったと。

 

 気がつけば日は落ちていた。

 涼しい風が吹いていた。

 もうすぐ秋がやってくる。

 日々は過ぎていく。

 人生は混迷を極めていく。

 それでも、探していれば、いつか出会いは訪れる。

 私は秋風の気配の中、リラックマの帽子を被り、街を歩いた。その顔は希望に満ち、足取りは未来へ向かっていた。

 リラックマ

 それは希望。

 似合う帽子。

 それは自信。

 リラックマの似合う帽子。

 それは、そう、それはーーー。

 

f:id:gachahori:20190829034453j:image

波動を見たかい?: Dr.ハインリッヒ単独ライブ『波動告知』を見た。

 

Dr.ハインリッヒの単独ライブ『波動告知』を見た。

 

f:id:gachahori:20190828034607j:image

 

凄かった。いや、凄かったとしかいえないのだ。1時間のライブだったのだけども、終わった頃には笑いすぎて頬が痛くなっていたし、奔放なイメージの濁流によって脳が熱くなってしまっていた。

Dr.ハインリッヒの漫才を何に例えたらいいのだろうか。見終わった後にふと思ったのは「高熱を出して寝込んでいるデヴィッド・リンチが見る夢」だったのだけども、違う気がするし、「デヴィッド・リンチが監督した日本昔ばなし」というのもうまく伝わらない。

ましてやシュールでひとくくりにするのはしょうもなさすぎる。しかし過度に言葉を修飾しすぎて、今から見るという人を怖がらせたくもない。

何よりそれはDr.ハインリッヒのお二人の佇まいを阻害している気がするからだ。

 


佇まい。そう佇まいなのだ。とにかく二人の佇まいが物凄くかっこいい。ミッシェル・ガン・エレファントを出囃子に颯爽と登場する姿に鳥肌が立ってしまった。ロックスターという言葉が廃れてもう久しいけども、それでもこの言葉を使うならば、ロックスターだったのだ。ロックスターが颯爽と登場し、マイクの前に立ち、そして漫才を繰り広げる。摩訶不思議な漫才を披露する。そして唐突にその漫才は終わって、また立ち去っていく。その佇まいのかっこよさよ!!

 

これまで、ぶっ飛ばされたとか、摩訶不思議とか言っているけども、観客を置いてけぼりにするわけではない。それどころか要所要所にえぐいくらいに突き刺さる言葉をぶち込んでくるのだ。

「メイキャップの話ではないですよ。あなたも仮面をつけて生きているんです」

「なにかを失ったわけではないのに、なにかを取り戻そうとしている」

「香港返還」

「新進気鋭の露出狂」

「あなたもなにかを作るメンバーに知らず知らずに参加している」

「独特の間合い」

「エアパレスチナとエアイスラエル

「こんにちはー!!こんちは。こんにちはーーー!!」

「私はどの時代にも行きたくないし、何もしたくない」

 


こんなの序の口で、脳を揺さぶられるような言葉がDr.ハインリッヒの漫才には詰め込まれている。

そして言葉だけではなく、その言葉を紡ぎ合わせて広げられるイメージの豊かさったら!純文学のようで、絵本のようで、屏風絵のようで、夢のようで、何にでもないような。そしてなによりだけども、物凄く面白いのだ。とにかく笑ってしまうのだ。なんで笑っているかわからないけどもとにかくおかしい。本当におかしい。笑ってしまう。頬が痛くなるほど笑ってしまう。センス優先的なものじゃない。めちゃくちゃにお笑いしていることもちゃんと記しておきたい。

 


1時間のライブだったけども、1時間でよかったというか、もうこれ以上続いたら体調が悪くなるんじゃないかってくらい笑ったし、なにより見える世界が変わりすぎる気がしてしまった。そしてこのライブを見ることができて本当に良かったと思った。心の奥底からノックアウトしてしまった。

自分も変な短編小説を書いていたりしたけども、全然満足しちゃだめだと思った。というか自分のやっていたことがどれだけ浅瀬でやっていたかを思い知らされて恥ずかしくなった。Dr.ハインリッヒが作り出すハードコアなのに、ちゃんと面白いというものを見てしまった以上もっと頑張らなければならない。

ハードコアでありつつ、ちゃんと受けるものは作れるのだ。

 


単独ライブのタイトルは『波動告知』。波動についてはYouTubeに上がっているDr.ハインリッヒトークライブ「ディアローグハインリッヒ」で語られているので、そちらを参照していただくとして、このライブを見た人は全員「波動」を感じたのではないだろうか。

これは決してスピリチュアルな話じゃない。確実に「波動」を感じるようなライブだったのだ。

1時間で9本の漫才。途中フリートークゾーンも幕間VTRも休憩もなし。ストイックな構成。

見た人に問いたい。「波動を見たかい?」と。私は見た。そして、あなたも見たはずだ。

 


アートワークにも言及したい。フライヤーやポストカード等を作成したのはヘンミモリさん。Dr.ハインリッヒの世界観を汲み取り、そしてめちゃくちゃかっこいいものを作っていて、これに心底痺れてしまった。

ヘンミモリさんとDr.ハインリッヒのコラボをこれからも見続けたい。この先、どんな作品を作り上げていくのだろう。とにかく楽しみは尽きない。

 


ライブを見終わってから、毎日、ミッシェル・ガン・エレファントを聴き、ディアローグハインリッヒを見て、そして漫才の内容を反芻している。それでも足りない。

とにかくまた見たいのだ。Dr.ハインリッヒの漫才が見たい。

また見る日まで、また波動を浴びる日まで、生き続けなきゃいけない。

生きる希望すら湧いてくるような、ものすごいライブだった。

ライブの始まりは彩さんのこんな言葉から始まった。

「やあ、信徒たちよ!」

私もすっかりDr.ハインリッヒの信徒の一人だ。

 

f:id:gachahori:20190828034830j:image

アイ・ワナ・ビー、関西のつじあやの。

 後輩から誕生日プレゼントにウクレレを貰った。ウクレレである。ハワイアン楽器こと、ウクレレである。弦が4弦しかないウクレレである。なによりも今年の最重要作品の一つである(個人的)『リラックマとカオルさん』のハワイ回でリラックマが演奏していた楽器ことウクレレである。

 私はすっかりテンションが上がってしまった。そりゃもう『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のビョークが歌っていたように心臓の高鳴りはエンパイアステートビルを超えてしまったのだ。

 私はその場で早速ウクレレの練習に取り掛かった。大学時代のサークルの同窓会だったにも関わらずである。久しぶりに会う友人、先輩、後輩がいたのにも関わらず、次々とご飯が運ばれてくるのにも関わらずウクレレを弾き続けたのであった。

 ウクレレはギターとは違う。当たり前だけども違う。なので最初はその勝手の違いに戸惑っていたが、コードを確認しながら弾き始めると、その音の可愛らしさにすっかり夢中になり練習を続けた。黙々と練習を続けた。声が遠くなっていった。ウクレレと私しかその場にはいなかった。そう、つまりはゾーン。ゾーンに私は突入したのであった。

 気がつけば1時間経っていた。先輩がもう時間なので帰ると言い、しまったと思った。ウクレレに夢中になりすぎて会話を、交流を、人間関係を私は疎かにしてしまったのだった。

 開放弦を鳴らすと音がぽろんとウクレレから鳴った。可愛らしい音だった。

 

 一晩遊んだ翌日、帰路につこうと思い京都の祇園四条駅に向かっていた時、鴨川が見えた。

 私は鴨川でウクレレを練習したい欲に襲われた。いや、場所はどこでもよかった。ウクレレをとにかく練習したかったのだ。ウクレレを弾きたい。少しでも長くウクレレを弾きたいと思ったのだ。

 川の流れの音が響く橋の下で、私はウクレレを弾き始めた。今の時代、ネットを調べると色々な曲のコードを見ることができる。それを調べては弾いていった。

 ミッシェル・ガン・エレファントフジファブリックくるりゆらゆら帝国レディオヘッド、クイーン。色々と弾いてみる。時代を感じるアーティストの選択である。それでも弾いてみる。まだ下手なので上手くは弾けないが、それでもかろうじて曲の形になった時はたまらなく嬉しい気持ちになった。

 時間が刻々と経っていった。私はそれを無視した。

 鳩が集まり始めた。私はそれを無視した。

 ステディカムを持った外人が私を遠くから撮っているようだった。私はそれを無視した。

またもや私はゾーンに突入したのだった。ウクレレと私だけのゾーンに。そう、ゾーンに。

 

 the pillowsのfunny bunnyを弾くことにした。サビのコード展開が細かくてなかなか弾けずに、繰り返し何度もそこを練習した。

 気がつけば昼の12時になっていた。お腹も空き始めた。それでも弾いていた。何故ならばゾーンに突入しているからである。そうゾーンに。ゾーンに突入すると、なによりも目の前のことが優先されるのだ。この場合の優先されるべき事柄はもちろんウクレレだった。

 funny bunnyのサビの練習し続ける。

『君の夢が叶うのは誰かのおかげじゃないぜ。』

そう、誰かのおかげでもなく、自分の手でこの曲を弾けるようになるためにも何度も練習をした。

 隣に女性二人組が座った。

 声が聞こえた。

 「あの人、川辺でウクレレ弾いてはるなあ〜」

 その瞬間、ゾーンが途切れ、妙に恥ずかしい気持ちになった。鳩にたかれても、外人にステディカムで撮られても消えなかったゾーンがその瞬間消失した。

 それでも気にせず弾いてみる。しかし一度戻った自意識は過剰になっていくばかりであった。

 

 「俺は関西のつじあやのになるんや!」と私はウクレレを貰った瞬間に叫んだ。

 しかし、つじあやのは関西出身だったし、練習を鴨川でしていたようだ。

 私はつじあやのになれなかった。ちょっとした言葉に、はんなりした言葉に、心が揺れてしまうような人間であったのだ。

 

funny bunnyのサビの終盤の歌詞が目に飛び込む。

 『風の強い日を選んで走ってきた』

 私は荷物をそそくさとまとめて電車に飛び乗った。

 風が、少々強い気がした。

 f:id:gachahori:20190826031358j:image

『夜の浜辺でひとり』を見た。(もしくは浜辺で眠ることの危険性)

日々の生活はある程度繰り返しの中で成り立っている。と、今更なことを私は考える。その考えすらも繰り返し考えている。ルーティン。ルーティン。

お腹が空く。ご飯を食べる。煙草を吸う。散歩をする。本を読む。友人に会う。喋る。お酒を飲む。そして眠る。

その繰り返し。日々はその繰り返し。

しかし時間は過ぎていく。日々は繰り返しの中で消費され、気がつけば私たちは老けていく。

気がつけば遠くの方へ辿り着いている。でも自分が遠くに来たかなんてわからない。

まだ過去にとらわれているかもしれない。過去にとらわれたまま、過去を清算もできずにただ遠くに来ているだけなのかもしれない。

 

f:id:gachahori:20190824183936j:image


ホン・サンス監督の『夜の浜辺でひとり』を見た。久しぶりに入ったTSUTAYAでジャケットに惹かれて借りた。ジャケットを見るまでは知らなかった映画。でも、見終わる頃にはとても大好きな映画に変わっていて、見終わって12時間経った今もなお映画が心の中で漂い続けている。

 


映画監督との不倫スキャンダルによって海外に逃げた女優は、異国の地で日々を過ごす。煙草を吸い、先輩と喋り、公園を歩き、本を買い、異国の人とご飯を食べる。女優は映画監督から届いたメール「土曜の昼にはそちらにいく」が気がかりで仕方ない。また会いたいと思っている。そんなことを先輩に喋る。そして浜辺にたどり着く。夜の浜辺に。

 


それからしばらく時間が経つ。本国に戻ってきた女優は旧友と再会する。カフェで喋り、酒を飲む。女優は酒癖が悪いようで酔った勢いで叫ぶ。「誰も愛される資格なんてないのに」。

 


翌日、女優は旧友の先輩と仕事を再会する兆しを見せる。先輩を見送った後、また浜辺にたどり着く。その浜辺で眠りこけた後、そこに"ある人"が現れる。

 

f:id:gachahori:20190824184002j:image

 

構成は海外でのパートと、帰国してからのパートで別れている。しかしどの場所にいても、妙な居心地の悪さがある。気まずさではなく、そこが彼女の居場所ではないような感じが。映画自体はとても穏やかで、胃を締め付けるようなシーンはあまりない。しかし、ずっとそこが彼女の居場所ではないといった雰囲気は漂い続けてる。

海外では異邦人として。そして韓国に戻ってきてからも、他者として。なによりも、彼女自身がその目の前の世界を生きていないような気がする。

女優は絶えず過去の残響を生きているような気がするのだ。

 


 

主演のキム・ミニは本作の監督ホン・サンスと不倫関係に陥ったそうで、韓国では一時期大きなスキャンダルになったそうだ。この映画はその後に作られたもので、役名は違えどこの映画はキム・ミニをまんまトレースし、そしてホン・サンスをまんまトレースしたようにしか見えない。

 


じゃあ、そういったメタ的に楽しむ映画かと言えば、そういうわけではない気もする。たしかに私小説的である。しかし、主人公がキム・ミニ演じる女優だからか、ホン・サンス監督の物語になっていないのだ。

ここには男の気持ちの悪い自意識はあまり投影されていないように思える。そのかわりに、スキャンダルの後を生きるキム・ミニの姿をただ切り取っていく。キム・ミニがそこにいる。ただそれだけで恐ろしいほど豊かな映画になることに驚かされる。

煙草を吸う、映画を見る、歌を歌う、酔いつぶれる、横になる。どの姿も素晴らしく決まっていてそれだけで映画は映画として成立して豊かになる。豊かな映画というものがどういうものかわからないけども、目が離せない魅力と魔力のようなものがずっと漂い続けている。

 


決まりまくっているキム・ミニに対して、終盤に現れるあの人物の情けなさったら。とにかくみっともないのだ。そして混乱状態に陥っている。これを男女の違いと分けるのは簡単だろうけども、そうはしたくない。

多分、ホン・サンスがそのまま現れているから、彼はひどく情けないのだろう。自罰的な私小説的なシーンだ。

「個人的な映画はつまらないですよ」

それを主演女優に言わせて、自分の映画の撮り方はこうだと解説するその男の姿は、ホン・サンス自身の情けなさや混乱が現れているのかもしれない。そして自分にはこうすることしか出来ないと言っているのかもと。

 


でも、シーンは思わぬ途切れ方をする。

そして、目を覚ました女優は、啜り泣きながら浜辺を歩いていく。その姿はカメラから遠くなっていき小さくなる。そして暗転。

 


あっけに取られながらも、なんとも言えない悲しみにとらわれてしまった。

会えるのも、言いたいことを言えるのも、夢の中だけだったら、どうやって生きていけばいいのだろう。

ただそれでも日々を生きていくしかないのだろうか。夢から覚めた私たちは夢を忘れて生きていくしかないのだろうか。それでも眠たくなってしまうのに?

 

f:id:gachahori:20190824184029j:image


変わった映画だ。話運びもそうだし、極端な長回しも、時折挟まる妙なズームを使ったカメラワークもそうだし、時折現れる謎の人物の使い方といい、手触りは変わったものを見せられている気になる。

ただ、変わった映画だと切り捨てるには勿体無い、それどころか、私は前述したようにだいぶこの映画が好きになってしまったみたいだ。見終われば、話運びも、長回しも、変なズームも、謎の人物も、全てが愛おしい。

 

 

 

異国の地でも、母国でも、場所は違うだけで生活は、日々の動作は繰り返される。空腹と食事、煙草、お喋り、飲酒。

場所は違えど人は自分から逃げる事はできない。過去は付きまとってくるし、後悔からは逃れられない。過去の残響音からは逃れられない。

眠りの中でその残響音が最大に響いた後は、ただふらふらと歩くしかないのだ。啜り泣きながらもただその場を離れるしかない。浜辺は眠るには危険すぎる。眠るならばもっと安全な場所を探さないといけないのだ。

 

f:id:gachahori:20190824184040j:image

調べ物がくしゅう。(或いは29歳初日の朝の話)

 29歳になって最初の日の朝は、両親の怒号から始まった。

 実家に帰省中の私は今、リビングで日々、雑魚寝をしている。部屋がないのだ。狭い団地の中で、四人の大人が寝るスペースはあまりない。

 朝のリビングで始まった喧嘩に目を覚ました私は、その喧嘩の理由も自ずと知ることになる。

 父は膵臓癌を理由に今働いている場所から退職するように言い渡された。9月には退職になるという。それに先立って父はハローワークに行き、退職時の雇用保険がどれくらいの期間貰えるのか?と聞いたそうだ。

 しかし想定していた期間よりも短い期間しか貰えないと言ったのがどうやら喧嘩の始まりだったらしい。

 「そう言われたのだから仕方ないだろ」と父は言う。

 しかし、そうやすやすと引き下がってはいけないのだ。お金のことはきちんとしなきゃいけないのだ。

 私は起きてすぐに「じゃあ調べちゃる」と調べることにした。

 

 先日『ニューヨーク公共図書館』という映画を見たときに、自主的に調べ物をするニューヨーカーの姿が頭にこびりついていたのだ。そして調べること、それが何よりの力になるとあの映画から教えてもらった気がしたのだ。

 わからないことがあったら調べる。それが立ち向かう術になるはず。

 

 というわけで厚生労働省が出しているPDF資料をじっと眺めながら、雇用保険に関するあれこれを調べた。1時間ほど調べて、結論が出た。

 父がハローワークで言われたことは大間違いだった。雇用保険は想定通りの長い日数貰える。

 

 「これこれこうだから、ちゃんと言えば雇用保険はこういう条件になるから、期間はこれくらいになるはず」と答えた。父は納得したみたいだった。

 それから父は仕事に出かけていった。それを見送った後、頭が重たくなった。オーバーヒートしたみたいだった。

 

 トム・ヨークの新曲が発表された。MOTHERLESS BROOKLYNというエドワード・ノートンが監督・脚本・主演を務める映画に使われる音楽だそうだ。それを聴きながら、私は横になった。頭がとにかく熱くて、しんどかった。

 調べ物をしたということを、Twitterに書いたら友人から「総務向いているのでは?」とリプライがきた。

 熱くなった頭を抱えながら、総務になりたいなと思った。そういう仕事が向いているのだったら、やってみたいと心から思った。

 でも、1時間の調べ物で頭がオーバーヒートするような現状はなんとかしないといけない。

 私はトム・ヨークの消え入りそうな声を聴きながら横になった。

 なかなか寝付くことができず、時間がかかった。

 夢を見た。起きたときには忘れているような夢だったけども、嫌な夢だったらしくて少し気分が悪かった。

 

 私の29歳はこうして始まったのだった。

 

f:id:gachahori:20190824035043j:image