にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

long season.(wrong season)

 おはようございます。こんばんは。ありがとうございます。さようなら。わたくし、両目洞窟人間は27歳男性。8月生まれなものですので、今月でわたくしは28歳になります。こんにちは28歳。さようなら27歳。生まれてきてからの27年間は過去に過ぎ去ってしまいまして、これから何年生きるかはわかりませんが、28年目の人生がこれから始まろうとしています。

 両目洞窟人間午年は現在休職中。病名は適応障害でございまして、社会と適応できなかった私はこの一年あまりの大半を家の中で過ごしておりました。菊池成孔氏が言うところであればスマホなんか見ていたらそりゃ適応障害にもなりますよとのことで、いわゆる一般的な現代人の病というのに私はかかってしまったのかもしれなくて、そんな私に届けるかのように「菊池成孔の粋な夜電波」で流れてきた音楽はスパンクハッピーの「フロイドと夜桜」でございました。

 右も左もメンヘラばかりのこの世ではメンヘラというのはもはや一般的なものでありますので、メンヘラだとかどうとかそういうことを言うのは、ありきたりなものなのです。どちらかといえば狂わずに社会に適合出来ている方が異端というわけでありまして、異端なら異端である方がかっこええわけです。

 というわけで私はとにかく社会に復帰しなきゃなとは思う。社会に復帰して、異端児にならなきゃなと思う。右も左もメンヘラばかりであるならば、メンヘラとしてこの世を生き続けるのではなくて、メンヘラではなく、普通の人間として社会に適合しなきゃなと思います。

 とまあ、つらつらと述べているだけではよくないですので、最近は身体が動く日は、とにかく外に出ています。厳密に言えば図書館や喫茶店にこもっています。朝からこもって夕方までいて、それから一駅分歩いて、帰宅。そんな生活をしています。そんな風にして復職のトレーニングをしているわけです。とにかく身体を外に出す。そして、外に身を置く。そうやって一年間で失った耐性をなんとか取り戻そうとあがいています。

 まあ、それが復職のトレーニングになるのか、ならないのか、そんなものはわからなくて、でもとりあえずはやらなきゃいけないなと思いまして、わたくしは最近「やっていきの姿勢」を見せようと言っています。やっていきの姿勢とはとりあえずやること、行動をすることを、こころがけようと。そういうことをやっていこうと。そういうことです。

 やっていきです。とりあえずはやっていきなのです。何に関してもやっていきでして、とにかくはやっていかなきゃいけない。何もやらないのは罪だ、なんてことまではもうしませんが、やらずに過ごす1日はとにかくあっという間。何もやってこなかったこの一年間はとにかくあっという間でした。

 この文章を書いている現在から数えて一昨日と昨日も、身体がダウン気味で、何もせずに一日中眠りこけていました。そうすると驚くほどに時間はあっという間にすぎてしまうのです。なんにもせず、というのは恐ろしいことで、何にもしないと、時間というのは身体に残っていかないのです。

 だからこそ、何かをやらなきゃいけないと思います。身体を整えて、身体が動く限りやらなきゃいけないのです。とりあえず動いて、動き続けて、動きまくって、時間を身体の中に残さなきゃいけない。そうじゃないとあっという間に死に向かってしまう。

 しかし、そんな風に強迫観念にとりつかれてしまうと、また倒れてしまうから、ほどよいバランスが必要で。そのバランス取りが難しい。シーソーゲームと同じで、あっちにいけば、こっちが倒れて、こっちにいけば、あっちが倒れるというものなのかもしれません。なので、まあ、そういうことです。どういうことかわかんないけども。

 明日は産業医さんと面談があります。ついにやってきたこのときが、というわけで、何がやってきたのかと申しますと、会社の応接間で面談をすることになったのです。

 会社に行くのなんて、それこそ一年ぶりで、yes、超怖い。怖くて怖くて、私は仕方が無い。

 でも、いつかやってくるのです。そんな日はいつかやってくるのですから、なんとか立ち向かうべきなのです。その立ち向かう日が明日なわけです。やらなきゃいけないわけです。これもやっていきなわけです。

 だから、やっていこうと、勇気を出して会社に行こうと、そう思うのです。

 勇気を出すぞー、なんとか出すぞー。私はこの日のために沢山の物語にふれてきたじゃないか、沢山の音楽を聞いてきたじゃないか、沢山の風景を見てきたじゃないか。

 それら全てを勇気にかえて動かなきゃいけない。社会の属している異端児の皆さんなら普通にできることを、今こそやらなきゃいけない。

 異端児になるのだ。

 それが明日なのだ。

  

 と、面談一つとっても、この大騒ぎ、どったんばったん大騒ぎ、一人じゃぱりぱーく。こんなことで、大騒ぎしなくなる日がやってくるといいですね。全てが当たり前に収まって、こんな日があったなと笑える日がやってきたらいいなと思う。そういう日をつかみにいくのだ。毎日をなんとか過ごしていって、そういう日を迎えにいってやるのだ。

 


 両目洞窟人間27歳はもう少しで両目洞窟人間28歳になります。27歳は休職だけで終わってしまいました。楽しいことも勿論ありました。私の周りには優しい人たちが沢山いて、そんな人たちに助けてもらいました。休職中の身には余るほど、楽しい日がありました。

 でも、同時に辛いことも沢山あって、沢山悲しいこともあって、沢山の無があって。

 両目洞窟人間28歳はいい一年にしたいな。そんな日になれるように明日を頑張りたい。28歳はいい一年になればいいな。いや、いい一年にしていくぞ。していくんや。していきましょう。

 


 28歳も多分思い通りになることなんて少ないと思うし、そのたびに傷ついていくんだと思う。それでもそれはとても一般的なことであって、それでもう世界の終わりのようにあたふたするのはやめにしたいなと、終わりにしたいなと思う。

 思い通りにいかなくたっていいじゃないかと、何にも成し遂げられなくてもいいじゃないかと、そんな風に、そんな風に思ったりして、毎日を過ごせたらと思う。

 たまにはいいことがあって欲しいなと思うけども。

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『黒い十人の女』を見た!

 『黒い十人の女市川崑監督。

 

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 10人の女と関係を持つTVプロデューサー。10人の女達はTVプロデューサーを殺そうと画策するが・・・

 といったあらすじを聞いたときに、一体どのようなストーリーを考えつくだろうか?

 「10人で力を合わせて殺そうとするのだな!」とか「10人が仲違いして事件が発覚するのだな!」とか「OUT的な展開になっちゃうのかな?」とかいろいろ考えると思う。というか僕はそんな風に考えながら見ていたけども、まさかこんな展開になる映画になるとは思いもしなかった!

 というわけで市川崑監督、和田夏十脚本による映画『黒い十人の女』の感想でございます。いやいや笑った。もの凄く笑ってしまった。キービジュアルが海辺でたたずむ10人の女達というものからは想像できないほどブラックコメディだった。

 まず10人の女をたぶらかすTVプロデューサーの風が素晴らしい。なんというナチュラルボーンプレイボーイだろうか。10人の女と関係を持つという、普通に考えてあまりに嫌らしい役柄なのに、全く嫌らしくないどころか、憎めない。こいつなら10人とそりゃ関係を持ってしまうだろうなと思わせる人間力がある。演じているのは船越英一郎のお父さんである船越英二。風というキャラクターに出会えただけでもこの映画を見て良かったなと思えたほどだ。

 そしてなにより伝えたいのは10人の女達のかっこよいこと。今見ても、現代的、いやむしろ現代よりも現代的な女性の描き方をしている。予告編では生活力溢れる女性と評されていたけども、今見る方がこの女性達の描き方はしっくりくるものだと思う。

 10人の女達の間には嫉妬や愛憎が渦巻いているのに、気がつけば奇妙な友情が芽生えていく様なんて「女子~!」となってしまった。女子が10人もいるので妙なきゃっきゃ感があるのもよい。特にいちばんきゃっきゃしているのが、中村玉緒。あの中村玉緒である。もう、この映画の中村玉緒ったらとにかくかわいらしいのだ。もう素敵。めちゃ素敵。俺も思わず勝新太郎の目線になってしまって「玉緒、めっちゃかわいいやん」って思ってしまった。

 岸惠子の美しさや骨折した岸田今日子のかわいらしさなど女優陣が軒並み魅力的に撮られているのも素晴らしい。黒い十人の女というタイトルだ、女達を魅力的に映さなくてどうする!って話だけども、この女優陣の美しさを見ているだけでほれぼれしちまいます。

 先日の『日本のいちばん長い日』でも使った言葉になってしまうけども、今作もグラフィカルな画面とテンポのよい編集に見ているだけでただただ心地よい。岡本喜八監督の暴力的なまでの編集テンポと比べると、もう少し流れるようなテンポ感というか、市川崑監督の編集のテンポ感ももう少し見ていってこの心地よさはなんだろう!と調べてみたいなーと思ったりした。

 モノクロの映像なんだけども、全編とにかく陰影の付け方が絵画的で画面をみているだけで多幸感。白眉は中盤のTV局でのシーン。がちゃがちゃとした機械がリズミカルに映し出される編集に、シンゴジラの編集を思い出したりした。こんなところにも源流があったのだなあ。

 さて、物語はTVプロデューサーの風を殺害する話になっていくのだけども、どうやって”殺す”かが肝になってくる。思わず膝をうってしまった。なるほどこうやって殺すのか!あまりに現代的な殺人に「うおお!」と唸りました。

 ここで問いかけられる「現代人」の問題はほぼ50年以上経つ「現代」でも通用する。いや、むしろ今の方が納得するのではないだろうか。「働く」ということ「社会」に属しているその手足をもぐという恐ろしい結末・・・。といいつつ、なんか現代だと「ええ生活やんけ」となってしまうのかもしれないのは、この時代よりももっと忙しくなってしまったからかもしれないというまた別の社会側面が出てきそうだけども。

 でも、まああまりに現代的な結末には感嘆致しました。凄いよ脚本の和田夏十さん!

 今見ても遜色全くない、ブラックコメディの大傑作。途中、ゲストで出演しているクレージーキャッツのシーンですら超かっこいい。全シーン、決め絵の連発。そしてテンポのよい編集。これ以上何をもとめようか。いや何も。男と女と車があれば映画は撮れると言ったのはゴダールだったか。男が一人に女が十人いればこんな映画が撮れてしまう!素晴らしい映画でした。

 個人的には邦画ブラックコメディとして団地ブラックコメディの大傑作『しとやかな獣』と二本立て上映でぜひとも見たいと思ってしまいました。

 この映画もぜひまた見返したいな。

 大好き!

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『人狼』、『日本のいちばん長い日』を見た!

人狼沖浦啓之監督

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 見ている最中ずっと心の中のたかじんが「男と女・・・」とつぶやき続けていた位には渋めの男と女の悲しい物語。赤頭巾の話をモチーフに、描かれるのは獣としてしか生きられない男と愛を求める女のラブストーリーで、そしてその愛は初めから「悲劇で終わる」と観客に告げられているという残虐安心設計。昭和30年代の東京舞台に(ドイツ統治下という架空の歴史線を辿った日本らしいけども)男と女、暴動と鎮圧、地上と地下、弾薬と爆弾、暗躍と内戦が描かれる。

 原作・脚本が押井守なので、端々に押井守節が出てくるけども、それほどアクが強くないのは監督が沖浦啓之だからなのかもしれない。演出には神山健治も参加している。

 プロダクションI.Gが最後に制作したセルアニメとのことだが、作画のことに詳しくない私でもはっとさせられるシーンの連続だ。冒頭のデモのシーンの群衆の動きの違いや、火の生きているかのように燃える動き。後半では撃たれた人間が、ある一線を超えた瞬間に「魂」が抜ける瞬間を描写していて素晴らしいと感じた。

 愛とかどうとかわからないけども、ここではないどこかに行きたいという感情はわかるものであるし、その思いを感じるのがデパートの屋上遊園地のが胸に刺さる。どこかに逃げて変わりたい。しかし若者達の愛は大きな組織の内戦に潰されてしまうのだ。

 昭和30年代の風景の描写の素晴らしさ、そして対照的なほどかっこよすぎるデザインのプロテクトギア。語りどころは人それぞれに変わってくるのだなと思うほど、噛み応えのある映画だった。

 

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『日本のいちばん長い日』岡本喜八監督。

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 シンゴジラの元ネタ映画とも言われるこの映画を、シンゴジラ公開から2年経ってやっと鑑賞。素晴らしい映画だった。玉音放送が流れるまでの24時間を舞台に、様々な人々が交錯する。前半は会議に会議を重ねていき、後半はクーデターの発生と鎮圧が描かれる。1945年8月15日に終戦したことは知っていても、何がそこで起きていたかは知らない。終戦するということだけでもこれほどまでに大変だったとは。まさしく日本のいちばん長い日だ。延々と終わらない討論と玉音盤を巡る攻防に手に汗を握った。

 登場人物も多く、一度では把握が難しい物語であったが、それを一気に見ることができたのは岡本喜八監督の演出力によるものだろう。グラフィカルな構図にコマ単位でカットされたという編集力。スタイリッシュな演出によって、今でも新鮮な気持ちで見ることができる、言い方は不謹慎だが、そんなかっこいい映画であったように思える。

 史実を元にしているとはいえ、結構血みどろな展開もあり驚いてしまった。特に三船敏郎演じる阿南陸軍相が切腹するシーンは目を見張る。

 玉音放送が録音されている最中、飛び立っていく特攻機。クーデターを起こす若者が持っている書物。誰もいない中ばらまかれるビラ、それを拾う親がいない子ども。細かな描写であるが、戦争という狂気の世界に潰される者達の目線が見終わった後では強く残る。

 始めるのは簡単だが、終わらせるのは難しいといわれる戦争。その戦争が終わる瞬間を描いた2時間半の力作。これから毎年夏になったら見たいと思うような作品だった。

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短編小説『フランスパン同好会』

 フランスパン同好会

 


 私はフランスパン同好会の会長だった。といってもフランスパンのこと、めちゃくちゃ好きだったわけじゃない。フランスパンに詳しいわけじゃない。ただなんとなくフランスパンが好きだと言っていたらフランスパン同好会の会長になっていた。あるコミュニティではそれを好きだと言っているうちに何かになってしまうことが往々にしてあるものだけども、私の場合それがフランスパン同好会だった。

 フランスパン同好会のメンバーは私とその時の友人達、みよちゃんとたまちゃんの計3人だった。

 活動日は毎週水曜日の4限終わりから。場所は学食のいつもの角席。私たちは毎週欠かさず集まっては、フランスパン同好会としての活動を行っていた。

 フランスパン同好会の活動は、4限終わりの学食でフランスパンを食べること。ただそれだけだった。フランスパンについて研究したことも探求したこもなかった。フランスパンを食べながらああでもない、こうでもないといった話を私たちはした。ああでもないこうでもないと言った話題を提供するのはみよちゃんで、ああでもないこうでもない話題を膨らませるのはたまちゃんで、私はそれに乗っかったり乗っからなかったりした。私たちはずっと話し続けた。2時間ほど話し続けるとフランスパン同好会の活動は終了し、私たちは帰路についた。

 フランスパン同好会の活動はたまに変更になった。フランスパンを食べることに飽きたときはジャムパン同好会になったし、あんパン同好会になったし、クロワッサン同好会になったし、ツナマヨ同好会になったときもある。

 でも、水曜の4限終わりに学食に集まることだけは決して辞めなかった。

 私たちは毎週集まって、パンを、時にはおにぎりを食べながら、ああでもないこうでもないって話をしたのだった。

 ねえ、最近見たドラマの話なんだけども。ねえ、今度のテストのことなんだけども。ねえ、就活心配なんだけども。ねえ、夏だし花火でもやりたいんだけども。ねえ、ねえ。と私たちは飽きもせず毎週集まって話をした。

 それは卒業するまで続けられた。私は卒業するまでフランスパン同好会の会長だった。

 

 

 

 大学を卒業して就職して、フランスパン同好会の会長だった私はただの事務員になって、気がついたら同じ会社に3年勤めている。そして私は毎週のように会社の飲み会に参加させられている。毎週、水曜日、4限終わりという明確なルールの元に開催されていたフランスパン同好会の会合とは違い、何曜日に開催されるかも、何時に開催されるかもわからない会社の飲み会で私はまたもやああでもないこうでもないといった話を延々と聞かされる。

 私は笑顔を作り、笑顔でお酌をし、話に笑い、そしてありがとうございました。という言葉を最後に言い放って帰路につくのだった。

 終わるのも何時になるかわからない。フランスパン同好会は18時くらいには終わっていた。2時間も話せば十分だった。でも、会社の人たちは何時間でもああでもないこうでもないと言った話をするのだった。私は、帰り道、いつも同じ自販機で水を買って、飲む。少しでも酔いを覚ますために飲む。それでも酔いは引かず次の日に持ち越される。二日酔いか?とどやされる。私は笑顔を作って、ええまあと答える。お酒が弱いことを揶揄される。

 


 卒業後も、フランスパン同好会を続けようとした。「ねえ、またフランスパン同好会やろうよ」と私は二人に言った。いいね-!と返事が帰ってきた。でもわかっている。もうフランスパン同好会はどこにもないのだ。私たちは集まってもあの頃には戻れないことをわかっている。それでも集まりたかった。学食なんてもうどこにもないから場所は居酒屋になる。みよちゃんもたまちゃんも忙しい合間を縫って参加してくれる。とても嬉しかった。でも久しぶりの会合だというのに、私たちはフランスパンなんて一口もしなかった。ユッケやチーズや刺身やらを口に放り込み、そしてお酒を飲んで、愚痴を話し合った。あの頃のようなああでもないこうでもないと言った話は一切出なかった。私は会長として、ちゃんとフランスパン同好会を続けようとしたのだ。でも、できなかった。みよちゃんもたまちゃんも変わってしまった。そして何より変わっていたのは私だった。ああでもないこうでもないといった話がすっかりできなくなってしまっていた。

 何かが違う。何かが違う。何かが違う。

 私たちは集まってもあの頃のような気持ちでいれないことが妙に気持ち悪くなる。言葉にせずともわかる。そして、会わなくなっていく。忙しいから、予定があわないから、そんな理由も込みで会わなくなっていく。

 

 

 

 私はフランスパン同好会を続けたかった。私はいつまでも毎週水曜、4限後のあの学食でみよちゃんとたまちゃんとどうでもいい話がしたかった。フランスパンを食べながら、ジャムパンを食べながら、あんパンを食べながら、ツナマヨを食べながら、話したかったのだ。

 でも私はもうフランスパン同好会の会長なんかじゃない。ただの事務員だ。みよちゃんもたまちゃんもフランスパン同好会のメンバーじゃない。ただのみよちゃんとたまちゃんになってしまった。あの頃のフランスパン同好会はもう消えて無くなってしまった。

 ただ無性にフランスパンが食べたくなる時がある。そんなとき私は近くのパン屋に行ってフランスパンを食べる。そしてそのときは決まって涙が止まらなくなる。

 そんな私を誰かは笑うだろうか。ただただ学生時代を引きずっているよくある大人の1人だと笑うだろうか。笑うなら笑えばいいと思うようになる。誰に思っているのかわからないけども、そう思うようになる。

 私はそれでもたまに戻りたくなるのだ。

 あの学食に戻りたくなるのだ。

 

 

 

 だけども、全ては遠くなっていく。

 みよちゃんもたまちゃんも会わないうちにいつの間にか誰かと出会い、その人と結婚する。私はスピーチを頼まれる。なんでって聞くと会長だったからと言われる。私は会長として最後の仕事をする。私たちは学生時代フランスパン同好会でして、とスピーチで言うと毎回笑いが起きる。ふざけんなよと思う。私たちのフランスパン同好会を笑うんじゃねえよと思う。

 二人は結婚して、子どもを産んで、そして遠くへ行ってしまう。

 私も新卒で入った会社を辞める。転職をする。そこで西山さんと出会う。

 西山さんと付き合ってそして結婚する流れになる。

 でも、私は私がフランスパン同好会の会長だったことは言えないままでいる。

 多分、西山さんもフランスパン同好会の話を聞いたら笑うだろう。

 笑われたらその瞬間、私は西山さんの全てが嫌になると思う。

 だから、言わない。全てを穏便にすませるために、私は言わない。

 そして毎週水曜日にフランスパンを買うことはずっと続けている。

 西山さんにも、毎週買うんだねと言われるけども、ええまあと流す。

 

 

 

 私は私の人生のスピードが早くなっていくのを感じる。

 みよちゃんとたまちゃんが早く通りすぎていったように、私も凄い早さであの学食から遠く離れていく。西山さんと結婚が決まる。さらに時間が早くなる。

 遠く、遠く離れたその先の人生を私は今生きている。

 それでも、私はフランスパン同好会が好きだったのだ。

 ずっとずっと好きだったのだ。

 あの頃の時間が好きだったのだ。

 みよちゃんもたまちゃんも4限終わりの学食もフランスパンもジャムパンもあんパンもツナマヨも18時に終わる会合も全てが全て大好きだったのだ。

 でも遠く離れていく。

 そのスピードを緩めることはできない。

 私はもう戻れない。

 


 みよちゃん、たまちゃん、おぼえていますか。フランスパン同好会を覚えていますか。

 私はたまに忘れそうになります。

 あんなに戻りたかった時間を忘れそうになります。

 私はそれが悲しくて、とても辛いです。

 私はまだフランスパン同好会の会長だと名乗っていていいでしょうか。

 それは過去にすがりついているということなのでしょうか。

 私にはわかりません。

 もし、過去に戻れるならあの学食を選びます。ああでもないこうでもないと話していた時間を選びます。

 もっとましな過去にしなよと笑われるかもしれませんが、私にとって一番好きな時間はあの時間でした。

 みよちゃん、たまちゃん、私はたまに寂しくなります。

 もう戻れないことを。

 もう帰れないことを。

 私はそのことがたまらなく寂しくなります。

 

 

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今週のさまざまなできごと。

 昨年から僕はカウンセリングに通っている。カウンセラーの先生は僕と同年代くらいで、その先生にあれやこれやと悩みをぶちまけている。僕は毎回、それほど悩みがないって顔でカウンセリングルームに入って、馬鹿みたいに悩みをぶちまけて、そして気がついたら終了時間。信じられないほど悩みがあって、信じられないほど考え込んで生きていることを、その部屋に入る度に思わされる。

 もう何回目かわからなくなったカウンセリングに行った。

 「どうですか?」と聞かれる。

 「最近、図書館に通うようになりました」と答える。

 「それは大きな進歩ですよ」と言われる。

 「やっとですが、できるようになりました」と答える。

 そして涙があふれ出す。

 ぽろぽろと涙があふれ出る。一滴一滴。ドモホルンリンクルの製造工程のように僕の目から涙があふれ出て、そしてティッシュを貰って涙をぬぐう。

 ありがとうございますと言いながら泣く。

 復職のトレーニングとして、朝に起きて図書館に通うということをし始めた。ただそれだけのこと。小さなことを大きなことだと褒められたことが嬉しくて、やっとここまでこれたことが嬉しくて、それを言葉にするならありがとうございますしか言えなくて、感謝の念を泣きながら伝える。

 この部屋で何度泣いただろう?と考える。何度となくこの部屋で泣いた。男が泣くなんてみっともないと職場で言われたことがある。でも、この部屋で泣いても、先生はとがめるようなことは言わない。だからずっと泣いていられる。涙が止まるまで泣いていられる。

  自分には自分のことがわからない。うまくわかっていない。うまく人に自分の気持ちを伝えることができない。そもそも自分の気持ちというものをうまく認識できていない。

 自分の発する言葉が正解がどうかがわからない。いつからか、自分の発する言葉が全てミスを犯しているような気になって、発するのが怖くなってしまって、自然に言葉数が減ってしまった。

 だから、何が怖いと思っているかの話になる。

 僕は自分が気持ち悪い人間だと思っていると言う話をする。

 じゃあ、なんで気持ち悪い人間なのかと思うようになったかを考える。

 過去のこと。

 高校生の頃に顔をいじられたこと。小学生の頃に女子に嫌われていたこと。沢山の小さな傷の話をする。もう何年の前のことなのに、ずっと忘れられないようなことを話す。

 でも、決定的な何かはみつからない。自分が自分のことをそこまで嫌う理由は見つからない。

 探すけども、まだ見つからない。

 そのうちに、もっと何が怖いかの話になる。自分が怖い物って何かになる。

 自分をむき出しにするのが怖いと言う。

 自分をありのまま見せるのが怖いと言う。

 だからいつも何か取り繕ってでしか動けないような気がしていると言う。

 「もしかしたら、」と先生は切り出す。

 「関係性が怖いのかもしれませんね」と言われる。

 その瞬間に、あっ、と僕は呟いて、頭の中ではいろんな瞬間がつながっていく感覚に襲われる。

 関係性が怖い。

 会社の人との同僚としての関係性が怖い。

 女性との、男女としての関係性が怖い。

 僕自身と、一対一の人間としての関係性が怖い。

 全てが繋がっていって、そうか僕は関係性が怖かったんだと思い至る。

 その瞬間に時間が来る。あっという間に1時間がやってくる。

 「次は2週間後にお願いします」と予定を入れる。

 その2週間でもっと良くなっていたらいいなと思う。

 

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  脚本を書き上げた。誰に見せるでもない脚本。内容は河原で男女が駄弁っているだけの話。夜から朝になるまでの話。小さな小さな話。

 魔法みたいな夜の話が書いてみたかった。サニーデイ・サービスの『夜のメロディ』に出てくるような夜の話。ロロの『校舎、ナイトクルージング』のような夜の話。僕が実際に体験した夜のような話。

 それを書こうと思った。ただ駄弁っているだけなんだけども、終わった頃には何かが変わっていて、それでいて何を話していたかなんて覚えていないような夜の話。

 それを書いてみた。

 弟に読ませてみた。

 「駄弁ってるだけだけども、駄弁っているなりの良さがあるやん」と言ってくれた。

 その一方でもう少し展開があってもよかったかもと言われた。あまりにミニマルな話すぎたかもという懸念はある。そこを付かれたので「うおーやっぱり」という気持ちになったのも事実。

 ミニマルすぎたかもしれない。もっと展開があってもよかったかもしれない

 でも、なんとなくこのサイズの話を書いてみたかったのだった。

 少しだけ変化する話。そこに今はなんとなく自分の希望めいたものを乗せてみたいなと思っている。

 

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 『カメラを止めるな!』を見た。

 平日の昼間に行ったにもかかわらず満席で、そこまで人気になっているのかとびっくりしたけども、本編を見て納得。これは満席になるわ、ではなく、満席にならないとおかしい。

 そして感想としては何にも言えない。ネタバレになってしまうから本当に何にも言えない。何ならどんな喜怒哀楽になったかさえ言えない。唯一言えるとしたら、最高にとてつもなく面白い映画だったということだけだ。終わった瞬間に「めちゃくちゃ面白かったな!」と友人に語りかけたくらいにはもの凄く面白い映画だった。また見に行きたい。そしてネタバレありの感想もぜひ書いてみたい。

 

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 今週は『SRサイタマノラッパー』と『SRサイタマノラッパー2女子ラッパー☆傷だらけのライム』を見た。

 友人から見ろ見ろと言われていた映画だったけども、ここまでぶっささる映画だとは思わなかった。特に『サイタマノラッパー』は辛すぎて、もう見返したくないレベルで辛いシーンが多かった。しかし、それでも、それでもと一番底辺に落ちた瞬間に発せられるラップに心を打たれ涙をどばどば流してしまった。

 『サイタマノラッパー2』は女子特有のタイムリミット感や生きていくことの困難さが描かれていてまたもや辛くなったけども、それを吹き飛ばすラップにまたもや感動。このシリーズは何もない人々に向けて作られているのだなと思った。俺も何もないやんけ・・・と日々悩むので彼らの姿は笑いながらも同時に刺されるような気分になった。俺もIKKUだしTOMだし歩なんだなと思う。だから1の焼肉店でのラップが刺さって、2のエンドクレジットの歩の姿に心が打たれるのだと思う。

 素晴らしい映画だった。3も見るのが楽しみ。

 


 

 羽海野チカの世界展に行った。

 現行の漫画家で一番好きなのは誰かと問われれば秒で羽海野チカ先生や!と答えるくらいには羽海野チカ先生のことが大好きなのですが、そんな僕が羽海野チカ先生の原画展に行くと何が起こるかと言えば号泣しながら展示物を見回るという羽目になるわけです。

 今回もぼろぼろと泣きながら「羽海野チカてんてー!俺だ-!!」と心の中で何度も叫びました。

 途中、ハチクロの番外編が1話まるまる展示されていたけども、それが番外編って枠というより、完璧な後日談すぎて号泣。周りを見渡すと泣いている人多数。

 集英社さん、ハチクロ完全版を出してください・・・。

 その後の展示も素晴らしいものばかりで、改めて羽海野チカ先生の書く物が本当好きだなあと思ったのでした。

 最後、羽海野チカ先生に向けてのメッセージノートコーナーがあったので「羽海野チカ先生の漫画のおかげでここまで生きてこれました」と書く。心からそう思ったので書く。

 僕は羽海野チカ先生のおかげで生きてこれたと本当に思ってる。

 羽海野チカ先生の漫画が無かったらどんな人生になっていただろう?

 今とは全く違う人生になっていたかもしれない。それくらい、自分を作り上げた要因の一つだと思う。羽海野チカ先生、本当にありがとうございました。

 


 にしても、ハチクロの展示を見ていて、もう僕はハチクロの登場人物よりも年を取ってしまったんだなと思う。そのことが意外で驚いてしまった。あとは修ちゃん先生くらいか、年上なのは。ひゃー。かつては大人に見えた登場人物の姿が、今では年下なんて。だからこそ彼らの青臭さがよけいにわかった気がした。大人のように見えた真山の滑稽さも、竹本くんの青臭さも、山田さんの不器用さも、はぐちゃんの切実さも、森田さんは・・・わからないけども、それでも彼らのことを余計に愛おしいなと思ってしまった。

 やっぱり僕にとってハチミツとクローバーは大事な漫画です。これまでも、これからもずっと。

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