公開から数週間経った今でも『ミッドサマー』のことを考えてしまう。もっと言えば『ミッドサマー』で感動してしまったことに対して考えてしまう。私は確かにあの映画で感動してしまった。しかしそれと同時に重たい罪悪感も抱えてしまった。あの映画で提示される救いはとてつもなく邪悪なものだ。しかし劇中の主人公ダニーはそれによって途方もなく救われる。それと同時に私も救われてしまった。多分、あなたもそうだろう。
ここで振り返っておきたいのはダニーは何をもってして救われたかである。ダニーは今まで属してした社会やコミュニティを捨て、スウェーデンの奥地にあるホルガ村のコミュニティに属すことになり救われるのだ。そしてその時に行う選択は彼氏を生け贄として焼き殺すということだ。
今まで属してした社会やコミュニティを捨て、新たなコミュニティ―しかも限りなくそれはカルトである―を選択する。どうしたって90年代のオウム真理教を思い出す。出家と称して全てを捨て去り教団に人生を捧ぐ人々に戸惑ったことを忘れるほどまだ時間は経っていない。オウム真理教だけではない、様々なカルトや理解できない(もしくはしたくない)コミュニティはそれ以前にもそれ以後にもあった。Netflixの検索窓に「宗教」と打ち込むとそういったドキュメンタリーがいくつか出てくる。
ダニーの目線で語られるからこそ、救いとして映っているがこれは私たちが混乱してあざけわらったカルト信者の行動そのものだ。それなのに何故、この映画はダニーだけでなく私たちの心にも救いをもたらすのだろう。
映画の冒頭の時点でダニーは既にもう何もかもが遅かった状況にたたき込まれている。双極性障害を持った妹が引き起こした無理心中によって妹だけでなく父と母、つまりは家族全員を失う。それによって筆舌にしがたい絶望にたたき込まれる。
しかしここでダニーに救いの手は差し伸べられない。一見差し伸べてるように思える彼氏クリスチャンだが、その言葉はただの「正論」だ。正論は文字通り正しい。しかし正論ではダニーの心は救えない。そもそもだが正しさで絶望に陥っている人は救えない。正しさは心が健康な時にこそ機能する。正しくない状況が続いたからこそダニーは絶望に落ちてるのだ。妹が家族を皆殺しにした後に、今更正しさに何の意味があるのだろう?
そもそもクリスチャンはダニーと別れたがっている。映画の冒頭では別れることを友人と相談している。その時に無理心中事件が起きてしまったから、別れることができなくなってしまっているだけだ。これは優しさではなく、ただばつが悪いからだ。全てを失ってしまった彼女を見放すのは確かに後味が悪いだろう。
しかしその関係性こそ、ダニーをまた苦しめる。家族を失ってしまった後、残ってしまったコミュニティもダニーの悲しみを受け止めることはできない。必死になんとかやりすごそうとするが、家族の死という重たい影は生活にずっと付きまとっている。呼吸は過呼吸になり、時間感覚さえ断絶されていく。コミュニティという団体芸の中ではダニー個人の感情はないがしろにされ、ドラッグを断ることすらできない。
しかし一方でクリスチャンのコミュニティの原理もわかる。誰も「メンヘラ」の相手はしたくないのだ。冒頭示されるようにダニーは映画が始まった段階で「薬」を飲んでいる。ダニーが以前から精神的に不安定であり、冒頭のクリスチャン達の会話はそれに辟易していて「別れてもっといい女と付き合えよ」と言っているのだ。もっといい女。エロい女だなんて言っているけども、根底にあるのは「精神的に安定している女」のことだ。精神的に不安定な人となんて付き合いたくない。誰しもそう思っている。そしてその不安はダニーも感じている。冒頭の友人の会話で、ダニーはクリスチャンが私のことを疎ましく思ったらどうしようと話している。そもそもクリスチャンはダニーのことを受け入れていない。ダニーの持つ不安も、恐怖も、そしてトラウマも受け入れること無く、ただ正論を話す。耳障りのよい正論を。
ホルガ村にたどり着いた後もダニーとクリスチャンは一応恋人同士であるというフォーマットで動く。しかしそれは形式上のもので、もう心なんて通い合っていない。いや、既に通い合っていなかった。それは映画の冒頭の時点で既にそうであったし、もしかしたら付き合った時から通い合っていなかったのかもしれない。それでも形式上恋人として動く。しかしホルガ村の雰囲気、空気、倫理、ルールが次第に彼らの関係をほどいていく。
ダニーはホルガ村に馴染んでいく。観光客であり、外部の人間であったダニーも、ホルガ村で食事に参加し、そこでのしきたりを見てしまい、食事を作ることに誘われ参加もする。ホルガ村に徐々に取り込まれていく。
そして極めつけはあのダンスバトルで、そこでずっと着ていたTシャツとジーパンからホルガ村の服に着替える。ドラッグを飲んだからか、それとも踊りが持つ非言語性からかダニーは踊り狂ううちに多言語であるホルガ村の住人の言葉すらわかるようになる。
そしてダニーはホルガ村の女王になる。ドラッグの影響でまるで呼吸しているかのように見える花びらを体中にまとい、身体は完全に「ホルガ村」に染まってしまう。女王になった後の食事の時間ではダニーの動きに村民の動きが連動する。彼女の動きと世界が連動し始める。
しかしその時に連動しないのは誰だったか。彼氏であるクリスチャンだ。この時点でドラッグを盛られているのもあり、クリスチャンはうつろになっているのもあるが、ダニーとクリスチャンの動きは連動しない。そしてホルガ村に着いてから、隣同士だった席も遠く離されてしまう。ダニーは遠くからクリスチャンを見て、クリスチャンもダニーを遠くから見る。ダニーはホルガ村の人々と話せるようになったが、それと同時にクリスチャンとはもう会話をしなくなる。しかしまだ恋人だったのだ。それでもダニーは信じていた。
ホルガ村の策略により、クリスチャンは村人とセックスをする。それは生殖行為という目的だけに特化したセックスだ。快楽やコミュニケーションとしてのセックスではない。元いた世界とは全く異なるセックスだ。しかしそれをダニーは目撃してしまう。そのおぞましさに、ダニーは泣き叫ぶ。最後の心の糸が切れてしまったのだ。家族を失って、筆舌しがたい絶望の中、世界との接点であったクリスチャンの裏切り。座り込んで泣き叫ぶダニー。その時、ホルガ村の人々はダニーと一緒に座り込み、そして泣き叫ぶ。一緒になって泣き叫ぶ。声は大きくなり、涙もあふれ出る。言葉は一切かけない。ましてや正論なんて。
ディック・ブルーナ氏が書いたうさぎのミッフィーちゃんという絵本シリーズの1つに「うさこちゃんはじょおうさま」がある。うさこちゃん(日本では2つの出版社より販売されていて、講談社より出ているものは彼女をミッフィーと呼び、福音館書店から出ているのは彼女をうさこちゃんと呼んでいる)が想像の中で国のじょおうさまになることを考えるという話だ。新しい物ができたときにテープカットをしたり、国民から来た手紙に一枚一枚返信を書いたりしたいとうさこちゃんは考える。そしてあるページでうさこちゃんはこう考える。
「でも、なにかわるいことがおこって だれかがかなしんでいるとき こんなふうにそばにいって なぐさめるのも じょおうさまです」
女王であるダニーが慰められる、という逆の立場であるが、私はこのシーンでこのページを思い出してしまった。ただそばにいて、一緒に泣いてくれる人。
今のオタクの言葉で言うところの「激重感情」を笑うでも、たしなめるのではなく、ただ受け止めてくれる人。それをダニーはずっと欲していたのだ。映画冒頭から続いていたダニーの悲しみはここでやっと受け止められる。やっとだ。ダニーはやっとここで悲しみを受け止められる人たちに出会ったのだ。
このシーンは感動的であると同時にとても恐ろしい。一緒になって同じ感情を共有するという行為そのものは自己啓発セミナーやカルト教団の勧誘となんら変わりない。そもそも個人の感情を共有するなんてのは本当は不可能だ。個である感情を他人に受け渡すなんて無理な話だ。しかし、皆で同じ感情を持つということは集団という幻想を抱かせてくれる。そこに私という個人は消失していく。今まで苦しかった「私」から抜け出すという幻想を。
目的化されたセックスを終え、我に返ったクリスチャンであったが、ホルガ村の村民に襲われ、薬を更に盛られてしまう。弛緩効果があるのか、身体を動かすことも喋ることもできない。
ホルガ村の祭りはクライマックスを迎える。生け贄を捧げる儀式が始まる。村にやってきた外部の肉体と村人の肉体を焼くのだ。ダニーは選択を迫られる。抽選で選ばれた村民とクリスチャン、どちらを生け贄に捧げるか?
勿論、わかっている。
クリスチャンを殺すしかない。
クリスチャンは死に値する人間だったか?確かに彼は屑だ。軽薄な行動や言動も多い。不愉快にさせるのは人の論文テーマをパクろうとする場面だろう。その場その場で上手くやってきて、上手くいってきた人間特有の面倒くささとプライドの高さが鼻につく。ダニーの目線で見てきた私たち観客は、そのダニーへの誠実ではない行動の数々が嫌で嫌で仕方なくなっている。
しかしそれでも生きたまま焼かれるというのはあまりに非倫理的だ。そこまでの罪をクリスチャンが犯したか?いや、犯していない。クリスチャンはどこにでもいる屑で、どこにでもいる普通の青年だ。だから彼が生きたまま焼かれるという結末にオーバーキルを感じる人も勿論いるだろう。
しかし、ダニーからすれば、そしてダニーと目線を共有してきた観客にとって、クリスチャンは生きたまま燃やさなければならないのだ。なぜなら彼は不誠実だったからだ。彼は私をことを理解してくれなかった。彼は私の苦しみを全くわかろうとしなかった。絶望を理解せず、絶望に歩み寄ろうともせず、それどころか絶望を矮小化しようとした。絶望を正論で押し込めようとした。
ダニーはクリスチャンを生きたまま燃やす。黄色いテントに火がくべられる。痛みを感じない薬を飲まされていたはずの村民が炎に包まれる瞬間、絶叫しはじめる。痛みは感じる。ホルガ村はユートピアなんかではない。ホルガ村は血を定期的に必要とするカルトだ。
近親相姦によって産まれた子供が描く落書きから都合の良い言葉を勝手に産み出して聖典を作り出している狂ったシステムによって成り立つカルトだ。
苦痛の叫び声に村民たちがシンクロをして、叫び声をあげる。ダニーも泣き叫びながら歩く。
火は燃えさかる。クリスチャンも火に包まれる。
しかしラストカット、ダニーは映画の中で初めて笑顔を見せる。素晴らしく美しい笑顔を。クリスチャンは彼氏であり、これまで属していたコミュニティであり、社会の象徴でもあり、そしてこれまでのダニーの人生だった。
それを燃やして殺したダニーは、ダニーであることから遂に解放された。そこに途方も無い解放感が宿っている。邪悪な解放感が。
このラストカットをアリ・アスターは脚本のト書きでこのように書いている。
「ダニーは狂気に墜ちた者が味わえる喜びに屈した。ダニーは自己を完全に失い、ついに自由を得た。それは恐ろしいことでもあり、美しいことでもある」
この映画が提示する解決方法は間違っている。社会的にも倫理的にも間違っている。ホルガ村はユートピアなんかじゃない、血に飢えた恐ろしいカルトだ。
それでも間違ったことでしか救われない魂がある。救われない絶望がある。アリ・アスターはその絶望を知っているのだろう。物語の中だけでも絶望を治癒するしかない。物語にはそれができる。間違ったことで救われる人を描くことができる。それでしか救われない絶望を描くことができる。
この映画に強烈な嫌悪感を抱くのも、強烈な不快感を抱くのも間違っていない。そしてその一方でこの映画に強烈な救いを感じるのも間違っていないのだ。
私はこの映画に救いを感じてしまった。確かな救いを感じてしまった。
その救いが、たまらなく恐ろしい。