にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

父が多弁で多動だから、発達障害の私はめちゃくちゃ辛い。

 とにかくこの頭と身体は生きづらい。要はどうやら私は発達障害を持ってるわけなんだけど、それで未だに一週に一回や二回は一日中寝込んでて、それはまあ、基本的に毎日が休みという竹内まりや級に毎日がスペシャルな状態では全然大丈夫だったわけだけども、実家から家族がやってきて東京観光となると話が変わってきてしまった。

 話は変わるが……というか、話を追加するが、うちの父親はどうやら何かしらの精神疾患があるなと思っていて、私はアスペルガーと踏んでいるのだけども、まあとにかく父親というのは多弁かつ話は飛びまくり、見たものすべてに刺激を受け、そしてその上多動なわけです。

 その一方、発達障害で刺激に弱く、空気を読みすぎるという性質を持つ私が父親と一緒にいると、まあダメージを受ける。 

 その上、東京観光……ということで、雑多で人がとにかく多い街並みを通り抜け続けた結果、翌日倒れてしまいました。

 

 メンタルクリニックに1週間に1回は倒れるんです。って相談しても「体力つけましょう」くらいしか言われないんだけども、もう今回のではっきり思ったのは、これ体力関係ないっていうか、だって30前の私と一緒に行動していた癌で闘病中の父親がぴんぴんしていて、私が倒れるってこんなの体力の問題じゃないじゃん。

 頭の機能由来のものじゃん。ってことで、もうとにかくダメージを受けまくってしんどかったです。

 

 で、一日中、寝込んでいたわけだけども、とにかく頭の中で思考がはちゃめちゃに飛び回っていて、それがまた異様にしんどい。

 頭の中で思考がモッシュしてるんですよ。ぐわーってモッシュしてんすよ。全然休まんないの。

 一日中、改めて寝込んでいて、自分の思考の止まる瞬間のなさにびびった。

 というか、体力が落ちるとそれを辛く感じることがわかった。

 身体が動かないのに、頭の中だけが延々と騒がれると辛い。まじしんど〜。

 延々とうるさいのだ。頭の中が静まる瞬間がないのだ。

 

 発達障害のひとは疲れやすいらしい。昔からずっと疲れやすかった。騒いで騒いで突然倒れての繰り返しで、昔から山ほど約束を破っての繰り返し。

 何をしてるんだろうって思うよ。本当。

 会社も倒れて行けなくて…っての多かったし。有給は倒れてしまった日で使いまくって、無くなるし、それで上司に怒られるし、なんだよこれ。

 とにかく、もうこの頭と身体のせいで日々がしんどすぎる。うんざり。本当もううんざり!!

 

 なまじ人と会話できるから「発達障害には見えないですね」なんて言われる。

 障害が強い方なんじゃないんだろう。

 でも、全然だめ。日常生活をまともに送ることがとにかくむずい。いつもぎりぎりで、綱渡りを強いられてるような状態で、結果落ちてどーん。次の日はお亡くなりになりました。そんなの繰り返し。

 昔、新しい環境になるたびに吐き気が止まらなくて、それも慣れてないからだと思ってたんだけども、今思えば空気を読みすぎていたのだ。とにかく空気を読みすぎる。その割に失敗をする。失敗したこともわかってる。だから辛くてどうしようもない。

 人との会話も延々と音ゲーをやってる感覚に近いというか、いいタイミングで正しいボタンを押しているような感じだ。グレイト!エクセレント!!バッド!バッド!!バッド!!!

 そんなことを書くと会話嫌いなんすか?って感じだけども、会話は好きなのだ。とにかく会話は好き。

 でも、それも雑談なら大好き。人の話を聞いたり、要約したり、話を広げたりするのは大好きだし得意だと思う。

 でも、いわゆる上の人と会話をするのはしんどい。音ゲー。まじ音ゲー。そして父親のようなめちゃくちゃな会話をする人に当たったらもう大変。昔の上司がそういうタイプだったので、まじ辛かった〜。

 

 私も話があっちいったりこっちいったりしてるけども、要するに多弁で多動なタイプと空気を読みすぎるタイプの発達障害の相性まじ最悪ってことです。

 どうにかなんないですかね。

 私は困っています。心から困っています。

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短編小説『とうめいな、たましい』

 むかし、というか、いつだったか忘れてしまったが正しいのだけども、多分ネットで私はある言葉を唐突に読んでしまった。

 「透明な魂が救われることはない」

 それを読んだ時は「透明な魂ってなんだよ。中2っぺえ~」と思って流した。でも、なんとなくその言葉は心に引っかかっていて・・・というか記憶の奥底に保存されてしまっていて、たまに、ふとした瞬間に思い出すのだった。

 透明な魂。

 そもそも魂というものがあるのかどうかさえ不確定なのに、それが透明だなんて。てか魂に色の概念あったのかよ。

 透明な魂って一体どういうものなんだろう?

 言葉を思い出す度にふとそんなことを考える。でも日常は考えなきゃいけないことでいっぱいだ。だから私は忘れてしまう。あっという間に忘れて、そして、またたまに思い出すのだった。

 「透明な魂が救われることはない」

 


 魂といえば、人は死んだら21g体重が減る、それは魂の重さなのだ・・・みたいなことも読んだことがある。魂って重さあるんだ-と思っていたけども、あとあと「それ、嘘らしいよ」という記事も読んだことがある。結局どっちなのかわからないけども、私としては多分嘘なんだろうなと思っている。特に理由はないけども、なんか「魂」ってものがあんまり信じれないってのが大きい。

 魂ねえ。と思う。本当に魂ってものがあるとしたら、人の身体ってのはその乗り物にしか過ぎないってことになって、なんかそれはロボットみたいだと思う。それよりは脳が~臓器が~血が~という風に構成されてるだけの生き物である・・・と考える方が私の中では理にかなっている気がした。といっても全然身体の構成もわかってないけども。

 


 というわけで魂否定論者だった私も気がついたら社会人。新卒で入った会社には同期が何人かいて、その1人がゆめちゃんだった。入社初日、がちがちに緊張していた私に初めに話しかけてくれたのがゆめちゃん。笑うと矯正器具が見える女の子だった。同い年だったけども、ゆめちゃんはどこか幼く見えた。外人がゆめちゃんを見たらティーンエイジャーだと勘違いしたと思う。というか日本人でもそうらしくて、あるとき「私、未だに年齢確認されるんだー」と少し自嘲気味に笑いながらゆめちゃんは言っていた。

 ゆめちゃんと私は営業だったけども、部署が違うから普段はあんまり顔を合わすことはなかった。でも会社でばったり会ったら喋ったり、時間があったらお昼を食べたり、たまには同期飲み会なんかもあったりして、そこでは私はゆめちゃんの隣に座り喋ったりしたのだった。要するには私とゆめちゃんは同期の中でも一番仲がよかった。

 しかし仲がよいと言っても、友達にならないのが社会人たるところで、休日遊びに行くことはなかったし、喋ると言ってもプライベートのことをお互いそこまで喋っていたわけではなかった。

 ゆめちゃんと私は冷たい言い方をすれば体のいい話相手だったのだ。

 


 ゆめちゃんはまじめだった。いつも手にはメモ帳。どんな話にもうなずいて、わからないことがあったら質問をして。凄かった。全力で社会人をやっていた。

 私は不真面目な根っこを持っていたようで、そこまでは社会人できなかった。私はよく怒られていた。

 「木村(言ってなかったけどもゆめちゃんの名字)を見習え!」とよく言われた。へいへーいと頭を下げながら、確かになあと思ったのだった。

 ゆめちゃんはいつも真面目だった。いつも全力だった。いつも笑顔だった。

 いつも。いつも。

 


 ゆめちゃんは自分で自分の命を絶った。

 高いところから飛び降りて、ぐしゃぐしゃになった。

 


 その日もいつも通りだったそうだ。

 会社に来て、今日はどこどこに行きますとホワイトボードに書いて、「いってきます」と外回りに出かけた。

 でも帰ってこなかった。

 会社で「遅いなあ」とかのんきにみんなが言ってる頃、ゆめちゃんはぐちゃぐちゃになっていたのだ。

 というわけで、ゆめちゃんは二度と帰ってこなかった。

 私たちはゆめちゃんにさようならも言えなかった。

 


 ゆめちゃんは遺書の1つも用意してなかったから、結局何で死んだのかわからなかった。仕事が嫌で~みたいな話も聞いたし、プライベートが実はうまくいってなかったらしい~みたいな話も聞いたし、なんかの呪いだ~みたいな話さえ出てきたりした。

 でも結局はわからなかった。ゆめちゃんがなんで死んだのかなんて。

 まあ、この後、色々と会社はゆめちゃんの遺族と大変なことになったらしいけども、それについては私は知らない。

 ゆめちゃんが死んだと聞いて、私の心もぽっきり折れてしまった。ある日、会社に行く気がなくなって、ベタに会社と反対方向の電車に乗って、ベタに海なんて見に行っちゃったりして、ベタに海見てもつまんねえなとか思ったりして、それからはベタに無断欠勤の嵐。ある日、携帯電話に上司の怒号と解雇通達が留守電で残ってたけども、私はその頃もう実家に戻っていた。

 親にもめちゃくちゃ怒られた。でもそれすらもどうでもよくなっていて、私は日々の不真面目に過ごした。一日中毛布にくるまって寝たり、起きてもベランダで煙草を吸ったり、高校ジャージ姿で近所のコンビニに行って煙草を買ったり、歩き煙草をしながら家に戻ったりした。

 


 で、ここからだけども、よくこういう話だと死んだ人が枕元に立ったりする。生前言い残したことを伝えに来たり、なんなら呪いにきたり。でもそんなことはなかった。少なくとも私の所にはゆめちゃんは来なかった。

 私はすやすやと眠れた。びっくりするくらいすやすや眠れた。

 まあ、ゆめちゃんが幽霊になったとしても私のところには来ないだろう。

 だって、幽霊にもなって体のいい話し相手くらいだった人にわざわざ会いに来ることなんてないだろうし。

 それに来たかったとしても私の実家は知らないだろう。私たちはプライベートの話をそれほどしなかったし。

 

 

 

 でも、ゆめちゃんの夢は見た。

 夢の中で、私とゆめちゃんは会社員じゃなくて、高校の同級生だった。

 それで文化祭の準備をしていた。出店の看板を一緒に作っていた。出店はたこ焼き屋さんだった。

 夕方の教室だった。夕日が窓から差し込んでいた。教室には私とゆめちゃんしかいなかった。沢山の空っぽの机を移動させて、ブルーシートをしいて私たちは看板を作っていたのだった。と言っても、作業はほとんどゆめちゃんばっかりやっていた。私はほとんどあぐらをかいていただけだった。

 ゆめちゃんは絵を描くのが凄くうまかった。ちゃっちゃっちゃとどんどん看板に絵を描いていった。私はそれをあぐらをかいてずっと眺めていた。

 「ゆめちゃん。絵上手いね。芸大行けるって」と私が適当に言うと、ゆめちゃんはこちらを振り向いて笑った。矯正器具が光っていた。

 


 起きてまず思ったのは「ゆめちゃんの夢って!」という韻の踏みっぷりに笑ったりしたんだけども、でも本当はちょっとだけ泣いてた。ゆめちゃんが絵が上手かったかなんてしらない。ゆめちゃんがどんな大学に行っていたかもしらない。でも、なんとなくその夢は妙に立体的だった。そんな過去が一瞬あったと思うような手触りだった。少なくとも私の夢の中のゆめちゃんは絵が上手くて、多分芸大に行って、それで・・・どうなったんだろう。夢の中のゆめちゃんは死を選んだんだろうか。ゆめちゃんにとって死は避けられないものだったのだろうか。ゆめちゃんは絶対高いところから飛び降りなきゃいけなかったのだろうか。ゆめちゃんはぐちゃぐちゃにならなきゃいけなかったのだろうか。

 結局、わからなくて、私は財布を持ってコンビニまで行く。高校ジャージを着た20代女性という社会性なんてない姿で煙草を買いに行く。

 


 買った煙草を歩きながら吸っていたらあの言葉を唐突に思い出す。

「透明な魂が救われることはない」

 透明な魂。

 ゆめちゃんはもしかしたら透明な魂の持ち主だったのかもしれない。

 馬鹿みたいな連想をしてしまう。でも、その考えはどんどん深度を増す。

 透明な魂を持っていたゆめちゃん。透明な魂ってのがどんなのかわかんないけども、魂があるならば、そしてその魂に色があるならば、ゆめちゃんは確実に私の魂よりは透明なはずだ。

 それも半透明なんかじゃなくて、凄く綺麗なビー玉みたいに透明。

 多分、そんな魂をゆめちゃんは持っていたのだ。

 煙草の煙を吐く。

 でも、そうだとしたら、最悪だ。

 「透明な魂が救われることはない」としたら、そんなことってあるかよと思う。

 透明な魂を持っていたが故に救われることなくて、結局死を選んだとしたら、ゆめちゃんはとても馬鹿だ。

 大馬鹿野郎だ。

 魂なんて濁らせばよかったのだ。

 どぶにつけて、ペンキにつけて、あとなんだろう、なんでもいい、カレーの鍋でもタールでもなんでもいい。とにかく汚せばよかったのだ。汚してしまえば良かったんだ。

 高いところから飛び降りることなんてなかった。

 ぐちゃぐちゃになることなんてなかった。

 死ぬことなんてなかった。

 ゆめちゃん。

 私の同期で、がちがちに緊張していた私に話しかけてくれて、私の体のいい話相手になってくれて、私より真面目で、幼く見えて、笑うと矯正器具が光っていて、それで、それで。

 何があったかなんてわからない。

 透明な魂がどうのこうのも、寝起きの私の頭が結びつけたただの戯れ言かもしれない。

 それでもね、死ぬことはなかったと思うんだよ私は、ねえゆめちゃんってば。

 あー。と煙草の煙を吐く。煙は少し漂って消えていく。

 

 

 

 それから一度だけ、だいぶ後になって私はもう一度ゆめちゃんの夢を見た。

 私とゆめちゃんはやっぱり高校生だった。

 お昼休み。

 何故か解放されている屋上で一緒にお弁当を食べていた。

 ゆめちゃんは私に言う。

 「今度ね、芸大を受けようと思うんだ」

 ゆめちゃん、受けなよ、絶対受かるって。と私が言うとゆめちゃんは笑う。

 そしたら矯正器具が光っていて、それを見ながら私はゆめちゃんが芸大に受かることを信じている。

 

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映画って面白いね『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を見た!

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を見た!!

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クエンティン・タランティーノ最新作ですよ!やっぱりタランティーノ最新作となるとわくわくしちゃいます。私が中学生の頃、キル・ビルが公開されてR-15指定だったので、劇場では見れなかったのですが、TSUTAYAの店頭で流れていたDVDの本編を食い入るように見たり、レンタル落ちになったVHSを店員さんに頼み込んで買った記憶があります…。

そんな自分語りはさておいてタランティーノの9本目の長編映画

そんな最新作の舞台は1969年のハリウッドでございます。

1969年のハリウッドで何があったか、といえば「シャロン・テート殺人事件」なわけです。

シャロン・テート事件とは……なんてことはもう散々語り尽くされているわけですけども、先日読んだジョーン・ディディオンさんの『60年代の過ぎた朝』でも大きく触れられていました。

あの本でも大きく語られていたのは、結局ヒッピーカルチャー(もしくはカウンターカルチャー)が大きくなっていった果てにこの事件が起こり、そして60年代は終わってしまった……ということでした。

時代の終わりを告げる事件…というのはどういうことでしょうか?

タランティーノはインタビューで「ある種の純粋さが消えてしまったんだ」と語っています。

時代に終わりを告げる事件とはそういうものなのでしょう。

純粋さがその事件によって消えてしまった。もしくは消えてしまっていたことを明確に伝える。それがその事件の最大の加虐性なのかもしれません。

 

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そのある種の純粋さが残っていたという1969年のハリウッドをこの作品では完全再現します。

昨今よくあるCGでの再現ではなく、一部1969年の街並みがまだ残っている場所をブロック単位で封鎖して、そしてそこを徹底的に1969年に作り変えるというなんとも力をかけた徹底ぶり。

そんな風に作り込んだ1969年のハリウッドなので遠景ショットで見せる!人々を歩かせる!!そして何より車で移動する!!

この移動ショットの多幸感ったら!

街歩きもそうだけども、街をドライブしている時こそ、その街の空気のようなものを感じたりするわけです。その時代の音楽が鳴り響いたりするなか、移動することによってその時代、その場所にいると強く感じるわけです。

時代とは、その街とは、有名な建物やランドマークだけではなく移動にこそあるんだ!という強い思いが移動シーンの多くからも伝わってきます。本当移動シーンが気持ちいいのだ!!

 

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そんな中で1969年のハリウッドを主に右往左往する主人公が落ち目の俳優リック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)とそんなリック・ダルトンのスタンドダブルを務めるクリフ・ブース(ブラッド・ピット)。

主にこの二人の何でもない日々が描かれていくのです。

かつて映画で主役を張っていたリックの姿はどこへやら。今はドラマの単発の悪役仕事ばかり。アル・パチーノ演じる妙なプロデューサーから「イタリアに行って、あっちのウェスタンに出たらどうだい?」と言われ「わしはもう落ち目や!!」と泣いちゃうリック。それをよしよしするクリフ。そんな冒頭からもう素敵。

リックとクリフの関係がずっと良いのです。つまり、何が言いたいかといえば「友情」って最高やん?ってことで…。タランティーノがここまで純粋な友情を描いたのも本当初めてなんじゃないだろうか。

映画はそんな二人の日常を追いかけていきます。セリフを覚えたり、お酒を飲んだり、ドラマの撮影に行ったり、街をドライブしたり、犬に餌をあげたり、テレビを見たり、ラジオを聞いたり、ピザを食べたり、そんな日常を描いた描写のなんと豊かなこと!

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は『わんはり!!』とタイトルがついてもいいほどの日常系映画なのです。

  途中からリックもクリフも二頭身キャラに見えてくるような。「もうだめだー!」「サングラスで目を隠そう」「うん!そうする〜」と微笑ましいやりとりは日常系アニメのそれ。そして全編を貫く日々の豊かさには山田尚子監督のアニメを見ている時(特にけいおん!たまこまーけっとの頃のような)を思い出したりもしました。

 

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そんなリックのとなりに引っ越してくるのがロマン・ポランスキー監督とシャロン・テートなのです。

映画はリックとクリフの日常のほかに、シャロン・テートの日常も織り交ぜてきます。

パーティに行くポランスキー監督とシャロン・テート(この時にディープ・パープルのHushが流れる!)。後年、ポランスキー監督が映画化する『テス』を本屋に受け取りにいくシャロン・テート。そして何より、シャロン・テート自身が出演している映画を観に行くシーンのマジックのかかりっぷりったら!!

スクリーンに映っているのはシャロン・テート本人で、それを見つめているのはマーゴット・ロビー演じるシャロン・テートという少し変わった構図なのに、そこには間違いなくマジックがかかっているのです。映画ならではのマジックがそこにはかかっていて、私はこのシーンで涙を流してしまいました。

 

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シャロン・テートはなによりも「シャロン・テート殺人事件」という痛ましい事件の被害者としてその名が歴史に刻まれてしまいした。

語られるときはチャールズ・マンソンと一緒に語られます。チャールズ・マンソンはその主義主張が未だに語られます。なんならファンもいるそうです。でもシャロン・テートを今、事件の被害者以上に語る人がどれほどいるでしょうか?

全ての事件において、被害者の人生は語られることはありません。ある大量殺人事件の翌日、犯人の主張がワイドショーで朝から流されていたとき、本当心の底から嫌悪してしまいました。

本当は犯人の主張なんか流してはいけないのです。無視すべきことなのです。なぜ、大量に人を殺した者の主張がこの世に残っていくのでしょうか?

そして被害者の声はその犯人の声の前ではかき消されたままなのでしょうか?

  タランティーノシャロン・テートにも日常があったこと。未来を夢見る女優だったことを本当優しく描きます。シャロン・テートを被害者ではなく、本当ひとりの人間として描くことで救い出そうとするのです。

しかし、その日はやってきます。そう1969年の8月9日が。

 

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で、ここからはネタバレ。

1969年の8月8日から、リックとクリフ、そしてシャロン・テートに何があったかを丁寧に描いていきます。リックとクリフの長きに渡る雇用関係が終わりを迎えそうなこと。そして彼らは最後の飲み会を開こうとしていること。その一方でシャロン・テートも友人達と楽しくご飯を食べたりします。しかし画面には時間のテロップが差し込まれ、その日のその時間に近づいていくことを示唆します。

そうして真夜中、マンソンファミリーの数人がシャロン・テート宅にやってきます。

シャロン・テートはこのまま襲われるのか……と思ったところで、リックが「車の音がうるせえ!!」とブチ切れます。

その結果、なんとマンソンファミリーの数人はリックをターゲットに変更するのだった!!

映画館で「えー!!」と叫びそうになりました。

どうなるんだ……!と思っていたら、ここからなんと、びっくりするような展開の数々!!

私は劇場でめちゃくちゃ笑ってしまいました。

やりすぎ?

いやいや、やりすぎなんてもんじゃないよ。

物語を使った復讐というのは、人形遊びで人を殺すシーンをやるように、少し居心地が悪いのも事実です。

でも、それを超えて、やりすぎるくらいにこのシーンを作ったのは何よりの復讐だったのです。

それは実際は映画に描かれている以上の暴力をシャロン・テートにふるった彼らへの。そして彼らの名前が歴史に刻まれてしまったことへの。何よりの復讐なのです。

しかし、リックが「火炎放射器」を持ち出したときは腹を抱えて笑ってしまった。人生何が役に立つかわかりませんね。

 


しかしその過程でクリフは負傷してしまいます。そのクリフにリックがこう語りかけるのです。

「いい友人だ」

それに対してクリフはこう返すのです。

「努力してる」

なんと素敵なやりとりなんでしょうか。

最後になるはずだった飲み会。

でも、多分、リックは明日は煙草とお酒を持って病院に行くんだと思います。

二人の後日談が俺は見たい。

また二人でゲラゲラ笑ってたらいいなー。

 


そして映画はこの後、もっとも素敵な瞬間を迎えます。

リックがシャロン・テートの家に招かれるのです。

そこには本当の歴史ならば殺された4人がいます。シャロン・テートのお腹の中には赤ん坊もいます。

彼らは無事だっただけでなく、事件とは無関係になったのです。

この映画の中で、映画という物語の中で、被害者というレッテルすらも剥がしたわけです!

 


そしてそこにタイトルが出ます。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』と。

「むかし、むかし、ハリウッドでーー」

 

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現実はそうではなかった。1969年の8月9日に事件は起きた。シャロン・テートは殺されてしまった。

でも、映画の中ならば。物語の力さえあれば過去は変えられる。世界をもう一度作り、彼女を救うことができる。

そしてこの映画の中でシャロン・テートは生き続けるのです。

事件も知らず。マンソンファミリーも知らず。生き続けるのです。

ある種の純粋さが失われてしまった1969年の8月9日。

でもおとぎ話の中でなら、その純粋さは失われずに済む。生き返らせることができる。

これはもはや巨匠という立場になり、お金も潤沢に使うことができるタランティーノだからこそ作れるおとぎ話でした。

物語を語るには強いディティールが必要です。

1969年の空気どころか、埃さえも再現した世界だからこそ、シャロン・テートを、純粋さをスクリーンの光の中に蘇らせることができたのです。

これは映画の魔法を信じ切ったタランティーノによる渾身の一作です。

1969年のハリウッドを再現した映画であり、アメリカの夜のように映画製作内幕ものであり、シャロン・テート事件の映画であり、とても優しいおとぎ話であり、そしてなによりとても面白い映画なのでした。

劇場の明かりがつく頃、つまりは2019年の日本に戻った頃、潤んだ目でなんて面白い映画を見たんだ!と思いました。

こんな映画の魔法が見たいから、私は映画を見るのかもしれません。

 

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リラックマと両目さん。(私と帽子をめぐる冒険)

 時は2019年。両目洞窟人間(私、29歳男性)とその実家は恐るべき困難に立ち向かうことになった。私の退職、弱っていく祖父母、そして父の病気である。皆、弱り果てた。困り果てた。どうしたものかと頭を悩ませた。

 そんな頃、Netflixで一本のストップモーションアニメが配信になった。

 『リラックマとカオルさん』である。

 その恐るべき可愛さの暴力に、瞬く間に我が家はリラックマの虜になった。

 リラックマ

 本物のクマではなく、着ぐるみのクマである存在。

 リラックマ

 一日中、部屋でゴロゴロする存在。

 リラックマ

 涙もろい一面を見せる存在。

 

 我々はリラックマのようになりたいと願い、そしてリラックマの姿に傷ついた心を癒していった。

 そしてその心、魂はリラックマを映像だけでなく、実体を望んだ。

 ぬいぐるみ等のグッズを買い漁るタイミングが来たのである。

 我々は梅田に向かった。向かう場所はそう、リラックマショップである。

 リラックマショップで我々は実体を持ったリラックマ(ぬいぐるみ)やリラックマ(グッズ)にときめきを、精神の回復を、生きている意味を得たのだった。

 

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リラックマに心を救われている両目洞窟人間氏

 

しかし、一つ問題点があった。

 たしかに実体のリラックマは可愛かった。確かに可愛かった。

 ただ、どうも買うという行為までは衝動が突き動かされなかった。

 可愛いのに、惜しいのだ。

 実体は確かに可愛いのだが、まだ財布の紐は緩まなかった。なのでその日はただ、目で愛でるだけだったのだ。SAN-Xへ少しばかりの勝手な失望を抱きつつ、帰路に着いたことを忘れはしない。

 

 数ヶ月経った。

 生活は更に混迷を極めた。

 減りゆく預金残高。慌ただしい日々。そして父の退職。

 それらはまたもや、リラックマを求めた。映像は何度も再生された。特にハワイアンリラックマの回は皆のお気に入りだった。

 しかしそれでは満足できなかった。そうまたもや実体を求めたのだ。そうリラックマの実体を。

 

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↑ハワイアンなリラックマ達。

 

 我々はある情報を手に入れていた。

 梅田のリラックマショップではなく、あべのにあるリラックマショップがいいらしいと。

 我々は日を調整した。

 そして、行ける日を見つけ、向かうことにした。

 いざ、リラックマショップへーーー

 

 その日、我々はハローワークで父の退職について、相談をし、シビアな現実に打ちのめされた。

 通常ならばへこんだまま、帰路につくところだ。しかし、心の中では微かな光が灯っていたのである。そうリラックマである。

 我々はハロワを出ると、天王寺へ移動をした。1時間近くかかったが、全く苦ではなかった。何故ならばリラックマが待っているからだ。

 そうリラックマが。

 

 話は突然だが変わる。

 私は帽子が似合わない。頭がでかいからだ。そのでかさゆえになかなか入る帽子がなかった。そして、入る帽子があっても全く似合うことはなく、新進気鋭の変態のような雰囲気を漂わすことがほとんどであった。

 私は帽子には見放されていたと思っていた。

 しかしある日聴いたアルコ&ピース D.C.GARGAEで、アルコ&ピースがこう語っていたのを覚えている。

 「どんな人でも必ず似合うニューエラのキャップはあるからね」

 私はその言葉を覚えていた。そしてニューエラのキャップの部分を帽子と変換し、心の中に漂わせていた。

 いつか似合う帽子に出会うことがあるだろう。

 そんな日が来るだろう。

 

 リラックマショップの店頭に、黒いキャップが飾ってあった。

 リラックマっぽくない、スケーターファッションな雰囲気を漂わせたキャップ。

 vision street wearとロゴが入っている。そのロゴから半身を見せるリラックマの姿。どうやら、このブランドとリラックマがコラボしているようだ。

 私はなんとなく被ってみた。そして鏡をみた。

 似合っている。

 そう、似合っていたのだ。

 あの帽子が似合わなかった私が。

 どんな帽子を被っても新進気鋭の変態にしかならなかった私が。

 似合っていたのだ。

 

 私は一旦落ち着くことにした。

 店を出た。

 それからぐるりと回った。

 別の帽子屋にもはいった。

 帽子を被ってみた。

 似合わなかった。

 やはり、帽子が似合うようになったわけではなかった。あの帽子が似合っただけだったのだ。

 

 リラックマの実体を私は求めた。しかし、それでも財布の紐が緩むものには出会うことはなかった。

 似合う帽子を私は求めた。しかし似合う帽子に出会うことはなかった。

 それがどうだ。

 実体のリラックマでありつつ、似合う帽子なのだ。

こんな偶然あるものか。

こんな偶然あるものなのか。

 気がつけば私はレジへ向かっていたーーー。

 

 出会い。それはいつ訪れるかわからないものである。

 しかし、何より必要なことがある。

 それは出会った瞬間に、出会ったと知覚することだ。

 リラックマの帽子と出会った瞬間、私は戸惑ってしまった。店からも出た。別の帽子屋にも入った。

 出会えたことに気がついてなかったのだ。

 しかし、本当は出会っていた。

 そう、出会っていたのだ。

 いきなり出会いは訪れる。ずっと似合う帽子を探していた。ずっとリラックマの実体を探していた。

 まさか同時にやってくるなんてーーー。

 

 私はレジでタグと厚紙を帽子から外してもらい、その場で被り、店を出た。

 リラックマの実体を得て、似合う帽子を手に入れた私は、この時の感情をあえてこう記そうと思う。

 最強であったと。

 

 気がつけば日は落ちていた。

 涼しい風が吹いていた。

 もうすぐ秋がやってくる。

 日々は過ぎていく。

 人生は混迷を極めていく。

 それでも、探していれば、いつか出会いは訪れる。

 私は秋風の気配の中、リラックマの帽子を被り、街を歩いた。その顔は希望に満ち、足取りは未来へ向かっていた。

 リラックマ

 それは希望。

 似合う帽子。

 それは自信。

 リラックマの似合う帽子。

 それは、そう、それはーーー。

 

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波動を見たかい?: Dr.ハインリッヒ単独ライブ『波動告知』を見た。

 

Dr.ハインリッヒの単独ライブ『波動告知』を見た。

 

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凄かった。いや、凄かったとしかいえないのだ。1時間のライブだったのだけども、終わった頃には笑いすぎて頬が痛くなっていたし、奔放なイメージの濁流によって脳が熱くなってしまっていた。

Dr.ハインリッヒの漫才を何に例えたらいいのだろうか。見終わった後にふと思ったのは「高熱を出して寝込んでいるデヴィッド・リンチが見る夢」だったのだけども、違う気がするし、「デヴィッド・リンチが監督した日本昔ばなし」というのもうまく伝わらない。

ましてやシュールでひとくくりにするのはしょうもなさすぎる。しかし過度に言葉を修飾しすぎて、今から見るという人を怖がらせたくもない。

何よりそれはDr.ハインリッヒのお二人の佇まいを阻害している気がするからだ。

 


佇まい。そう佇まいなのだ。とにかく二人の佇まいが物凄くかっこいい。ミッシェル・ガン・エレファントを出囃子に颯爽と登場する姿に鳥肌が立ってしまった。ロックスターという言葉が廃れてもう久しいけども、それでもこの言葉を使うならば、ロックスターだったのだ。ロックスターが颯爽と登場し、マイクの前に立ち、そして漫才を繰り広げる。摩訶不思議な漫才を披露する。そして唐突にその漫才は終わって、また立ち去っていく。その佇まいのかっこよさよ!!

 

これまで、ぶっ飛ばされたとか、摩訶不思議とか言っているけども、観客を置いてけぼりにするわけではない。それどころか要所要所にえぐいくらいに突き刺さる言葉をぶち込んでくるのだ。

「メイキャップの話ではないですよ。あなたも仮面をつけて生きているんです」

「なにかを失ったわけではないのに、なにかを取り戻そうとしている」

「香港返還」

「新進気鋭の露出狂」

「あなたもなにかを作るメンバーに知らず知らずに参加している」

「独特の間合い」

「エアパレスチナとエアイスラエル

「こんにちはー!!こんちは。こんにちはーーー!!」

「私はどの時代にも行きたくないし、何もしたくない」

 


こんなの序の口で、脳を揺さぶられるような言葉がDr.ハインリッヒの漫才には詰め込まれている。

そして言葉だけではなく、その言葉を紡ぎ合わせて広げられるイメージの豊かさったら!純文学のようで、絵本のようで、屏風絵のようで、夢のようで、何にでもないような。そしてなによりだけども、物凄く面白いのだ。とにかく笑ってしまうのだ。なんで笑っているかわからないけどもとにかくおかしい。本当におかしい。笑ってしまう。頬が痛くなるほど笑ってしまう。センス優先的なものじゃない。めちゃくちゃにお笑いしていることもちゃんと記しておきたい。

 


1時間のライブだったけども、1時間でよかったというか、もうこれ以上続いたら体調が悪くなるんじゃないかってくらい笑ったし、なにより見える世界が変わりすぎる気がしてしまった。そしてこのライブを見ることができて本当に良かったと思った。心の奥底からノックアウトしてしまった。

自分も変な短編小説を書いていたりしたけども、全然満足しちゃだめだと思った。というか自分のやっていたことがどれだけ浅瀬でやっていたかを思い知らされて恥ずかしくなった。Dr.ハインリッヒが作り出すハードコアなのに、ちゃんと面白いというものを見てしまった以上もっと頑張らなければならない。

ハードコアでありつつ、ちゃんと受けるものは作れるのだ。

 


単独ライブのタイトルは『波動告知』。波動についてはYouTubeに上がっているDr.ハインリッヒトークライブ「ディアローグハインリッヒ」で語られているので、そちらを参照していただくとして、このライブを見た人は全員「波動」を感じたのではないだろうか。

これは決してスピリチュアルな話じゃない。確実に「波動」を感じるようなライブだったのだ。

1時間で9本の漫才。途中フリートークゾーンも幕間VTRも休憩もなし。ストイックな構成。

見た人に問いたい。「波動を見たかい?」と。私は見た。そして、あなたも見たはずだ。

 


アートワークにも言及したい。フライヤーやポストカード等を作成したのはヘンミモリさん。Dr.ハインリッヒの世界観を汲み取り、そしてめちゃくちゃかっこいいものを作っていて、これに心底痺れてしまった。

ヘンミモリさんとDr.ハインリッヒのコラボをこれからも見続けたい。この先、どんな作品を作り上げていくのだろう。とにかく楽しみは尽きない。

 


ライブを見終わってから、毎日、ミッシェル・ガン・エレファントを聴き、ディアローグハインリッヒを見て、そして漫才の内容を反芻している。それでも足りない。

とにかくまた見たいのだ。Dr.ハインリッヒの漫才が見たい。

また見る日まで、また波動を浴びる日まで、生き続けなきゃいけない。

生きる希望すら湧いてくるような、ものすごいライブだった。

ライブの始まりは彩さんのこんな言葉から始まった。

「やあ、信徒たちよ!」

私もすっかりDr.ハインリッヒの信徒の一人だ。

 

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