にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

夢の中ですら上手に喋れない私は。

夢の中で昔好きだった人が出てきたけども夢の中ですらうまくしゃべれなくて私は起きてそのことに絶望する。夢ですらうまくしゃべれない私はどこでうまくしゃべることができるのだろう?

起きて自分の現状に絶望する。絶望するのは簡単だ。ただただ目の前のことを認識すればいい。私の現状は休職一年、もうすぐ休職期間が切れかかっていて、復職の目処は立っていない。このままいけば退職することは火を見るよりも明らかで、それを認識しては口の中に苦い物が広がっていく。

この部屋には2年以上住んだ。もうすぐ3年目になろうとしている。物が沢山ある部屋。そして借り上げ社宅。退職となったら貯金もない私はこの部屋の物を出来るだけ処分して、そして実家のある大阪に帰らなきゃいけないだろう。

でも実家に戻ってどうする?またやらなきゃいけないことが沢山ある。新しくメンタルクリニックを探して、貯金を見ながら身体の調子を整えていって、そして仕事を探さなきゃいけない。

当たり前といえば当たり前のこと。でも、目の前に存在する当たり前にこなさなきゃいけないことに対して今はなんていうかただただ辛く、そして険しい山のように思える。

一年。あまりに早かった。そして治らなかった。私の身体は治らなかった。そして休職期間が切れる。そして退職へ。わかりやすいルート。

幸せになりたかったなと思う。幸せが何かわからないけども、少しばかり心の安寧みたいなものが欲しかったなと思う。

ようやく身体の調子が戻ってきたのにもかかわらずここで、このメンタルクリニックでの治療が打ち切られて、実家に戻るのもとてもじゃないけど受け入れることができない。

人生はままならないものだと、菊池成孔のラジオを聞いているとある曲の歌詞を和訳してそう繰り返していた。そう人生はままならないものだ。いつも間に合わない。いつも失敗してしまう。

それでもそれなりに生きてきた。失敗を繰り返して生きてきた。それでも間に合わなかった。ただそれだけのことなのだ。

 


私は、今回も間に合わなかった。

 


友人に相談した。友人はとても頭の回転が早く、そして冷静だ。だからこう言った。一ヶ月できることをやるんだと。

まだ終わったわけじゃない。一ヶ月やれることをやる。外にでる。出る時間を伸ばす。身体がこれだけ動くんだとアピールをする。

それはまだやれる。

でも少し前まで一日3時間しか身体が動かなかった人間にそれは可能なのだろうか。一日8時間最低でも動かすことができないと復職できないと聞いた。それが可能なのだろうか。難しいと思う。苦しいと思う。でも何もやらないよりはましだと思う。

いつだって希望は残っていると誰かが言った。菊池成孔は人生はままならないものだと言った。どれも正しくて、どれの言葉も今はすがりたい。

助けて欲しいなと思う。誰に向けての言葉かわからないけども、助けて欲しいと思う。

でも、みんな自分の人生で精一杯なのだ。助ける余力なんて誰も持っちゃいない。

だからなんとかすべきなのだ。自分で、私の力で、私の少ない余力で。

「もう少し時間があれば」とメンタルクリニックの先生は言った。

もう少し時間があれば変わったかもしれないのに。

やっぱり間に合わなかったのだろうか。

今から間に合わせることは可能なのだろうか。

ドトールの隅っこでこの文章を書いている私の一ヶ月後はどうなっているのだろうか。

一ヶ月後。復職ができました。ありがとうございます。な未来もあるのだろうか。

それとも、やっぱり間に合わなくて、部屋を引き払って実家に帰っているのだろうか。

そんな未来すら見えなくて、ぼんやりとコーヒーを啜り飲む。

 


やっとよくなってきたのになあ。

やっと身体が動くようになってきたのになあ。

エレファントカシマシのEASY GOを私は聞く。「神様俺は今人生のどのあたり」と叫びはとても響く。

神様、俺は今人生のどのあたりなんだろう。私はどのあたりまで来れたのだろう。どのあたりまでしか来れなかったのだろう。どこへ向かっているのだろう。必死に生きてきたのになあ。そうでもなかったのかなあ。やれることはやってきたけどそうじゃなかったのかなあ。

いろんな後悔が頭の中で渦巻いている。でも、それでも諦めちゃだめだとも思う。

 


あと一ヶ月。諦めずにやっていこう。復職するのがベストだとは思わないけども、それでもそれを目指してやってきたのだ。それを自ら手放してしまうほど馬鹿じゃ無い。

やれることをやろう。まだやれる。やれるはずだ。

 


夢に昔好きな人が出てきた。うまく喋ることが出来なかった。でも、今度出てきたら夢の中でもいいからうまく喋れたらいいと思う。

そんな風にしてなんでもいいから昔の自分よりは良くなっていきたい。

それだけのことなのだ。

それだけのことだ。

f:id:gachahori:20181001175309j:image

不健全な精神は健全な身体に宿る。

 カウンセラーさんに一週間の行動表を見せた後に「なんか自分じゃADHDって自覚ないんですよねー」って言ったら「いや、この行動表にめちゃくちゃ出ていますよ」と言われておよよ。

 要するに自分が体力的に行動できる範囲を超えて予定を詰め込みすぎて、一日ばーっと行動したら二日寝込むみたいな表がそこにはあったのであった。

 このままじゃ治るものも治らないということで「一日、行動は3時間までにしましょう」という話になった。

 表を見る限り、三時間くらいが私、両目洞窟人間28歳男性が行動できる限界であることが判明したのであった。

 というわけで最近は三時間だけを活動することを心がけている。めちゃくちゃに心がけている。そうしたら昼まで寝続けることはあっても、一日寝続けるようなことは無くなり、今のところであるが毎日3時間行動は続けることができている。

 そうすると三時間の中にまた詰め込みたくなるADHD的特性が出てしまい、この二日ほどは市営ジムに通っている。市営ジムでエアロバイクを30~40分ほど漕いでいる。一回320円である。お安い。めちゃくちゃお安いのである。

 で、エアロバイクをひたすらに漕いでいる。漕いでいる理由としては休職中についてしまった無駄肉を落とすのが主な目的だ。無駄肉。そう無駄肉がついてしまっている。抗うつ剤による副作用か、寝てばかりの生活のせいか、そんなものわからない。しかし結果としてついてしまった無駄肉を落とすべくエアロバイクをこぎ続けている。しゃりしゃりしゃりと漕いでいる。ひたすらにしんどい。しかし、ランニングも筋トレもあまりにしんどいので唯一できるものisエアロバイクなので、漕ぐしか無い。

 こぎ続けている間、アフター6ジャンクションの過去回を聞いている。一回が40分くらいなのでちょうどいいのだ。昨日は「朗読特集」を聞いて、今日は「紙と印刷特集」を聞いた。「朗読特集」は凄まじかった。何がどう、って話をするより実際に聞いて貰った方がはやいと思うのだけども、同じ文章なのに読み方が変わるだけで立ち上がる物や心に入ってくる物が変わってくるという事実に驚かされた。演劇が好きな友人達に聞かせたいなって思った。読み方一つでこんだけ変わるぜ!って話をしたいなって思った。どの立場やねんって感じだけども。

 「紙と印刷特集」で紹介されていたデザインのひきだしという雑誌がもの凄そうだった。表紙が卵の紙パックと同じ素材の号とか手に触れて読んでみたいという気持ちになった。最近では即完売とのことらしく難しいのかもしれないけども、それでも読んでみたい。

 多分同じ気持ちになった人が多くいるはずだと思う。それほどには興味がそそられる内容だった。

 と、アトロクの感想が書けるくらいには漕ぎながらアトロクを真剣に聞いている。真剣に聞ける程度には集中している。漕ぐことにも、聞くことにも。

 ということを二日ほどやっている。とりあえず出来る日はこれを続けていこうと思う。 健全な精神は健全な身体に宿るとか言われている。僕は健全な精神じゃなくてもいい。不健全な精神である方がいい。でも一年間通して分かったのは不健全な身体に宿るのは無だけだ。だからこそ不健全な精神を保つためにも健全な身体を作ることが必要なのだ。

 不健全な精神は健全な身体に宿る。それを信じて、日々を生きていこうと思う。

 f:id:gachahori:20180926215813j:image

どてらねこのまち子さん『camera! camera! camera!』

どてらねこのまち子さん

f:id:gachahori:20180919234208j:image

"camera! camera! camera!"

 

 赤いペンキで塗られた三角形のランドマークを背にしてまち子さんは歩き始めました。まち子さんは猫です。でもどてらを着て、二本足で歩いて、言葉を喋る猫でした。まち子さんは不思議な猫でした。あんまり猫は喋りません。でもまち子さんは喋ります。そんなまち子さんの姿を見て驚く人も沢山いましたが、もう街の人は慣れっこでした。いわばドラえもんが街の中に溶け込んでいるあのコマを思い出して頂けたら、あなたの心にもすっと納得が訪れると思います。

 まち子さんがランドマークにやってきたのは仲良くしている岸本さんからカメラを貰ったからでした。岸本さんはまち子さんの一番の友人です。そんな岸本さんからカメラを貰ったのでした。理由は岸本さんが新しいカメラを買ったからでした。古いカメラをまち子さんに渡したのです。「まち子さん、これ、あげるよ」「うみゃみゃみゃみゃ!いいのですか!」「うんいいよ。これで街のいろんな風景を撮ると楽しいよ」「ありがとうございますです!」

 まち子さんはたまに言葉の使い方が変になりますが、それは猫なので仕方ないことでした。そんな部分も含めてみんなまち子さんが好きでした。

 まち子さんはカメラを片手に街をぶらぶら歩きました。まずは街で一番目立つ赤いペンキで塗られた三角形のランドマークを撮りにやってきました。ぱしゃぱしゃぱしゃ。まち子さんはカメラを構えて、何枚か撮ってみます。なかなか最初はうまくいきません。

「うみゃみゃみゃみゃ・・・」

 まち子さんは少し嘆きました。自分の思っているような写真になかなかなりません。自分が見えている風景と写真の間に隔たりがあるのです。その隔たりが何かまち子さんにはわかりませんでした。でも、まち子さんそれは当たり前の悩みなんだよ。みんなその目に見えている風景と写真の隔たりに悩むのだよ。そんな風なことを私、語り手は思いますがまち子さんには当然のように聞こえることはありません。

 まち子さんは三角形のランドマークを撮ることを諦めました。そしてぶらぶらと街を歩くことにしたのです。

 いろんな風景をカメラに収めていきます。ビルの窓。車。道路。木々。花。かしゃ。かしゃ。かしゃ。

 シャッターを切っていきます。何枚も切っていきます。でも、まち子さんはうまく撮れたという気持ちにはなりませんでした。何を撮ってもうまくいかないなあとまち子さんは思いました。

 「まち子さん」声をかけてきたのは岸本さんでした。

 「岸本さん」

 「どうですか。写真は」

 「うみゃく撮れません」まち子さんは猫なのでたまに舌っ足らずになります。

 「そうなのですか」

 「そうなのです」

 困った2人は近くのファミレスに入ることにしました。

 


 岸本さんはアイスコーヒーを飲みながらまち子さんの写真を見ていきます。

 「まち子さん。写真とてもいいですよ」

 「そうですか」

 褒められても、なんとなくまち子さんの顔は憂鬱げです。

 「どうしたのですか?」

 「私、自分が見ている景色をうまく切り取れている気がしないのです」

 「そうなのですか」

 「なんか、わからにゃいのですが・・・うまく・・・そう・・・うみゃみゃみゃみゃ・・・」

 まち子さんは言葉に詰まってしまいました。

 岸本さんはまち子さんにカメラを返すと、話し始めました。

 「スティーブン・キングって知ってますか?」

 「どこかの王様ですか?」

 「作家さんだよ」

 「そうなんですね」

 「その人が言ってたんだけども、書いて書いて書きまくれって言ってたんだよ」

 「そうなんですか」

 「だから、まち子さんも自分の写真が撮れるようになるまでに、撮って撮って撮りまくらなきゃいけないだと思う」

 「そうですか」

 「まち子さん。落ち込んでる場合じゃないよ。今も十分素敵な写真撮れてるよ。でも、自分が思っているものと違うんだったら、撮って撮って撮って自分と見えている世界の差を縮めなきゃいけないんだと私は思うよ。まあ、素人の意見だけどね」

岸本さんは自嘲的に笑ってアイスコーヒーを飲みました。まち子さんもつられてアイスコーヒーを飲みました。もうすぐ3時になろうとしていました。

 


 まち子さんと岸本さんはファミレスの前で別れました。まち子さんは岸本さんに深々とお辞儀をしました。まち子さんはまた街歩きの再開です。岸本さんのアドバイス通り、撮って撮って撮りまくりました。相変わらず被写体は目についたもの全てでした。ビル。カフェ。信号。道路。車。待ってる人。時折犬に吠えられたりしながらいろんなものを撮りました。

 すると喋らない黒猫がまち子さんの近くを横切りました。まち子さんはなんとなく気になって追いかけました。黒猫の背を追いかけます。一度写真をパシャリと撮りました。黒猫は一度だけ振り返ってまたずんずんと歩いて行きます。

 すると路地裏に来ていました。ビルとビルの影にある路地裏です。影のせいで一層冷え込んでいました。

 黒猫は路地裏の真ん中にある段ボールハウスで立ち止まりました。その中から人影が動きます。「おやおや、今日はお友達を連れてきたんだね」と人影は言いました。

 


 人影の正体は鈴木浩太朗。67歳になる男性です。彼は20年前まではある企業に勤めるサラリーマンでした。しかしそんな彼に襲いかかったのはリストラ。それでも再就職先を求めあちこちの企業を訪問しました。しかし50歳近くになる男を雇ってくれる会社などどこにもありませんでした。そんな頃でした。ある日、家に帰るのも疲れ果てて公園のベンチで眠りました。その次の日も、そしてその次の日も。そして気がついた頃には路上生活者になっていたのでした。鈴木は言います。「俺も、こんな風な人生を歩むと思っていなかった」と。鈴木は時折悔しそうに目に涙をにじませていました。そんな鈴木にとって友人でもありもはや唯一の家族であったのが、黒猫の裕太でした。裕太は実の子の名前から取りました。そしてその裕太とももう20年近く会っていません。「もう俺の顔も忘れてしまっただろうな」と鈴木は語ります。鈴木の一日は近くのファミレスの廃棄置き場を漁ることから始まります。近くのコンビニは廃棄を漁られないように鍵付きの倉庫に廃棄を捨てるようになりました。「俺達が廃棄を食べたところで何になるってんだ」と鈴木は語ります。そんな中ファミレスの廃棄置き場は鈴木にとっての生命線でした。飽食の時代においてファミレスで廃棄が出ないことは全くありません。そこで廃棄を拾い、廃棄を裕太と食べ、そして日長段ボールハウスで横になっていました。

 「出来ることならば、ここから脱出したい」そう鈴木は語ります。そんな中、鈴木に転機が訪れました。路上で雑誌の販売を行わないかという誘いでした。

 その雑誌を販売することで売り上げの一部が鈴木に入るというものでした。鈴木は最初はその話をいぶかしげに聞いていました。しかし、その話を持ちかけてきた男の熱意に負けました。そして雑誌を路上で売るようになりました。鈴木の姿を見て、遠ざかる人が大半でした。「そりゃそうだ。俺だって20年前は俺みたいな人間を遠ざけていた」と。しかし、ある日、雑誌が一冊売れました。ある女性が買ってくれたのでした。鈴木はその場で大泣きしました。社会からまだ鈴木は見捨てられて無かったのです。

 鈴木はそれからも雑誌を売り続けています。毎日、同じ場所。駅前で。次第に雑誌は売れるようになっていきました。そしてそうしていくうちに鈴木にも売り上げが入るようになりました。

 そして鈴木に大きな変化が訪れます。

 「今度、家族に会ってみようと思う」と。

 20年前、自分が見捨てた家族。同じ場所に住んでいる可能性は低いことは鈴木も知っていました。しかし、まだ住んでいるならば、一目会って、そして一言謝りたかったのです。鈴木にとってそれはわがままであることは知っていました。それでも、それでもまだ生きているうちに会いたかったのです。

 そしてある日曜日。鈴木は20年前住んでいた場所に行きました。すると鈴木は涙を流しました。まだ家族は住んでいたのです。そして鈴木の後ろから大きな声が聞こえました。

「父さん!」そう大人になった裕太の声でした。

 


 と、鈴木浩太朗は以上のような人生を後ほど送ることになりますが、今はまだ猫の裕太と暮らしている段階でした。「裕太とお友達にこれをあげようね」と鈴木はツナ缶を段ボールハウスから取り出しました。まち子さんは深々とお辞儀をしました。そしてツナ缶を裕太とわけました。

 


 まち子さんは本当は鈴木さんの写真を撮りたかったのですが、撮りませんでした。それは失礼になるとまち子さんは思ったのです。その瞬間、まち子さんは思いました。写真を撮ると言うことはある種暴力性をはらむということだと。まち子さんは鈴木さんと裕太にお礼を言ってその場を去りました。

 


 まち子さんはいよいよ写真がわからなくなってきました。撮るということは一体なんなのだろうか。私は一体何を撮りたくて、そして何を撮っちゃいけないんだろうか。

 わからないことだらけです。でもまち子さん。その疑問はとても正しいものです。

 写真を撮るということはその人の人生に一瞬でも介入するということ。そしてその人の人生を暴力的に切り取るということ。だからこそ恐ろしいもの。そして魅力的なもの。

 その疑問と向き合うことが写真を撮るということなのです。

 そうこうしているうちに陽はくれてきました。

 まち子さんは夕日を撮りました。夕日がいいなと思ったのです。でも、それもうまく撮れませんでした。まち子さんがいいなと思った夕日は、写真になってくれなかったのです。うみゃみゃみゃみゃみゃ・・・と嘆きました。そうしているうちに陽は沈みました。そして夜になりました。

 


 ベンチに座って今日撮った写真をまち子さんは見返しました。どれも思ったようには撮れなかった写真ばかりです。そして一番撮りたかったものが撮れなかった写真ばかりです。でもそれが私にはまち子さんそのものように思えました。私にはその不器用な写真がまち子さんのように思えました。うまく生きれないまち子さんのように思いました。私たちは行動に生き方が現れます。うまく生きることができなくても、それはその人自身なのです。まち子さんの写真にはまち子さんそのものが切り取られていました。

 


 まち子さんは帰り道、いつもの肉屋でコロッケを買いました。「はい、まち子さんどうぞ」「ありがとうございます」そう言って、まち子さんはコロッケを食べ始めました。できたてのコロッケは熱くて少しだけ口の中をやけどしてしまいました。

 ふと目の前には光が広がっていました。電灯の光。雑居ビルの窓から漏れ出る光。流れ走り去って行く電車の光。人々が手に持つスマホの光。

 まち子さんは気がついた時にはさっとカメラを構えてシャッターを押しました。

 その写真を見返すと、きらきらした世界が切り取られていました。それは露光ミスによるものだったのですが、まち子さんは初めて撮りたい写真が撮れた気がしました。

 まち子さんは歩きます。家に向かって歩きます。今日撮れた下手な写真のことと、撮れなかった人のことと、そして偶然撮れた一枚のことを思いながら歩きました。そして明日もカメラを手に歩こうと思いました。

 いつしかまち子さんの周りの世界はきらきらとしていました。

 まち子さんはコロッケをまた一囓りしました。やけどしたところが痛かったけどもそれ以上に美味しくてまち子さんは思わず笑顔になってしまいました。

 

過眠状態・オブ・ザ・デッド

 めっちゃ疲れている。とにかくめっちゃ疲れている。毎日めっちゃ寝ている。そりゃもうびっくりするくらい寝ている。一日中寝ている。そりゃもう寝続けている。所謂過眠状態ってやつで、鬱の人って過眠状態になるらしいよって聞いていたけども自分がなったらなったで、すげえ驚く。やばいくらい驚く。一日中寝続けている自分に驚く。

 自分でもなんでこんなに寝ているかわからんのに、周囲の人に理解を求めようとしてもこれは無理である。なんで寝ているのとよく聞かれるけども、俺もわからん。自分で自分のことがわからないのに理解なんて得られない。それでも寝続ける。ぐーすかぴーと寝続ける。俺はとにかく寝続けていて、とにかく寝続けていて、とにかく寝続けている。

 ちょっとまえまでは不眠状態で、ずっと起き続けているという状態だったのに、今度は過眠状態で、もう俺としては勘弁してくれやって感じなんですけども、余計に勘弁して欲しいのは悪夢をとにかく見続けるということだ。

 調子が悪いときは悪夢を見続けるらしい。というわけでめっちゃ悪夢見ている。怒られる悪夢からホラー映画の世界に入り込む悪夢まで多種多様の悪夢を見ている。私もう今じゃクリエイティブなことに触れる機会は自分が見る悪夢くらいしかない。なんせ疲れているから本も映画もまともに摂取できていない。だから自分自身が空っぽになっていくという感覚と共に、クリエイティブなものがもう生み出せないのではないかという恐怖心と共に、悪夢を見続けている。辛い。

 ではどうすればいいのだろうか?という話になるので、俺はメンタルクリニックに行ったけども、過眠状態ってのはこれまでよく眠れてなかったからその反動なんで、とりあえず今は身体が求めることをしてくださいと言われてしまい、それを言われたら何にもできないじゃないかと思いながら今日も一日中寝てしまった。

 俺はただ眠り続けるだけの人間だ。両目洞窟人間どころじゃない、一日中過眠人間というわけでございます。何にもうまいこと言っていないね。

 つうわけで、眠り続けているわけだけども、そして一日外に出たら次の日反動のように眠り続けちゃうわけだけども、とりあえず予定を詰め込むな!と最近は釘を刺されている。カウンセラーに釘を刺されている。あんまりにも予定を俺は詰め込みすぎてしまう傾向にあるらしいのだ。それはよくないよねってことで予定をセーブするつもりが、いざ外に出ると楽しすぎてそんなセーブが効かない。

 先日、友人の個展のパーティーがあったときも、結局は酒を飲み、弾き語りをし、大音量で流れる音楽に合わせてジャンプアンドダンス。いえーい。じゃないのだ。楽しかったけども、結局次の日はゴミのような状態になってしまった。

 わかりやすくいえば、ハイが来たらローに必ずなる状態で、みなさんもはしゃいだ後は疲れると思うのですが、それのきっつい版です。ハイも過剰なほどハイになるし、ローも過剰なほどロー。そんなハイロー人間こと両目洞窟人間28歳男性。なんでこんな身体になっちまったんですか琥珀さん!と叫びたい気持ちをぐっとこらえながら、無印の人をだめにするソファーの上で眠り続ける日々。

 というわけで当面はこんな状態だからってことで、結局10月会社復帰も流れてしまって、もう少し休職することになってしまった。減っていく貯金、減っていく信用、減っていく体力、増えていく体重、増えていく虚無感。

 「戦おう。俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから」と言ったのは桐島、部活やめるってよの前田くんで「戦え、何を、人生を!」と叫んだのは筋肉少女帯なわけで、要するに人生を頑張っていこうってことなんだけども、改めて人生の難易度設定の高さに恐れ戦いている。とはいえ過眠状態は人から見ればグースカピーと眠りこけているだけなのでそれほど恐れているように見えないのがまた難点ですが。

 にしてもどうしようね。どうしたらいいんでしょうね。

 とりあえずは寝続けるしかないのだと思う。

 出られる時に外に出て、身体を動かして、みたいな対応で頑張るしかないのかな。

 お医者さんも産業医さんも良くなってきているという話はしてくれるのでそれを信じるしかない。現によくなっている気はする。なんせハイの時はめっちゃハイなのだ。このブログの記事を見返してみても酷かったときよりはよくなっている気配がある。

 ただまあ、寝続けてしまっている。それさえ抜け出すことが出来たらもう少しいい傾向に行けるのかなと思ったりする。

 まだまだ調子も悪いし、寝続けているし、ハイの時はめっちゃハイだし、ローの時はローだけども「希望はあるよ、どんなときでもね」とエヴァかなんかの台詞が脳内でリフレインしているので、多分希望はあるのでしょう。そんな希望をつかめる日まで寝続けるのです。朝から晩まで寝続けるのです。グースカピー。

 f:id:gachahori:20180919195446j:image

立ち向かうために休んでる。

 復職のことを考えると死ぬほど怖いなって思ってしまう。よくよく考えれば僕はどうやって仕事をしていたのだろう。あの希望に満ちた社会人一年目のことを今や思い出すことができない。

  しかし復職は必ずしなくちゃいけない。というのもお金のリミットが刻々と近づいているからであって、お金がなくなったら僕は野垂れ死ぬしかないからだ。野垂れ死ぬのは嫌だ。ロックンローラーでもシド・ヴィシャスでもないので、それは嫌だなあと思う。

 

 といいつつも、身体が今のところまだちゃんと動かない。相変わらずだけども、寝続ける日々だ。一日中寝続けている。寝続けてる。そして誰かとあって1日はしゃいで、2日3日寝続けるみたいな日々が続いてる。

 あかんではないか。

 あかんのだ。

 とここまで書いていて胸がきゅーっと痛くなってきた。痛くなってきたのはタバコの吸い過ぎからではなく、多分改めて文字に起こして自分の状況に愕然としてしまったからだろう。

 

 毎日、外に出るという当たり前の行動がまだできない。そのくせたまに人と会うとはしゃぎすぎてしまう。はしゃぐのは悪いことじゃないけども、それで2日3日寝続けてしまうのならば、その体力の配分はどうかしているとしかいいようがない。

 


 しかし、早く治さなきゃいけないのだ。とにかくお金のことを考えると頭が痛くなる。毎朝、お金のことを考えては憂鬱になってる。

 だから、早く治さなきゃいけないのだ。

 動け。死ぬのだぞ。今、動かなきゃ死ぬのだぞ。

 


休職して一年経った。10月復帰を目指していたのにも関わらず、この体たらくに復帰に陰りが出てきた。

 そして僕はそのことに落胆をしながらも、同時に少し安堵している。

 怖いのだ。なんだかんだ言って戻るのがまだ怖いのだ。

 そんなことを後輩に言ったら「ずっと怖いままですよ。時間経てば経つほど、怖くなりますよ」と言われた。その通りだと思う。

 怖がっていてはいけない。ちゃんと立ち向かわなきゃいけない。デモゴルゴンに立ち向かったストレンジャーシングスのあの少年たちのように、目の前の脅威に立ち向かわなきゃいけない。

 


 しかし、こんな風に復職のことを目の前のこととして考えることができるようになったということは確実に回復しているんだろう。多分だけども、ちゃんと回復しているのだ。

 眠り続けているというのも鬱回復期特有の行動と聞いた。というかネットで見た。それが信用になるかわからないけども、過眠がそうであるならば鬱回復期に突入しているということなのだろう。

 じゃあそれでいいじゃないか。急ぐことはないじゃないか。

 


 僕は今、正しくない選択をしているのかもしれない。でも、今の自分にはこれが正しいのかもしれない。世間から見たらダメなやつかもしれないけども、そんな世間なんて放っておこう。僕は、僕のペースで、社会に舞い戻ってやる。

 


そんなことを言えるのも、会社が許してくれてるからであって、貯金がまだあるからで、家族や友人のバックアップがあるからだ。

 だから、今、僕はめちゃくちゃに甘えている。過去最大級に甘えている。

 甘えなんて厳しい世の中で、僕は甘えまくってる。

 だから僕の姿を見て嫌になる人もいるだろう。めちゃくちゃ嫌う人もいるだろう。僕自身も嫌になったり何度もしている。

 だって正しくはないから。

 正しい選択もしていないし、正しい行動もしていない。

 でも、今の自分には正しい選択も正しい行動もできやしない。

 だから、まだ甘えさせてほしい。

 


明日は病院に行く。

 もう病院も一年くらい通っているんだな。

その前の病院も入れたら二年も通ってる。

結局、五年くらい精神がぼろぼろだったので、そりゃ一年くらいかかっちゃうよなと思ったりした。

 なんどもいうけども今の自分は間違っているんだと思う。甘えているんだと思う。

  そんな自分の姿を晒すことも怖いけども、それでも今の自分の姿はこれしかできないのだ。

 1日遊んだら、二日間眠り続けるようなそんなポンコツ。それが僕で、28歳の僕。

 


 母に頑張るからねーと言っていたら頑張らなくていいよと言われた。

 頑張って頑張って頑張った先が今の自分なのだと思うと、そうかーと思う。手を抜くことや自分を許してやることが必要なのだろう。

 


 ポンコツだっていいじゃない。抗うつ剤がぶ飲みしてるポンコツだっていいじゃない。友人の前でははしゃいでてもいいじゃない。そんで二日間眠り続けていてもいいじゃない。

 間違っていようと今の自分を肯定しよう。

 それからだ。

 復職のことはそのあとだ。

 身体が動けるようになったらちゃんと考える。

 怖い怖いなんて言っていないで、ちゃんと復職する。

でもそのためにはまずは身体が動くことだ。

 立ち向かうために休んでいる。

 多分そんな状態なんだと思う。

 

f:id:gachahori:20180907160919j:image