昨晩はあんまりよく眠れず。何があったわけでもないのに気持ちが妙に急いてしまっていたり、意味もなくTwitterを見たりしていた。こういう夜にちゃんと心が落ち着く方法があればしりたい。
いつも通り4時半に一旦目が覚め、朝ごはんを食べて、米を炊いて、また寝て起きたら9時半を超えていて、朝9時起き目標から30分ほど寝坊。
そのままシームレスに着替えたり支度したりして、10時半には家を出る。
まずはメンタルクリニックに行って、傷病手当金の書類の不備を直してもらうことに。すぐ直してもらえたので嬉しかった。あとはポストに投函するだけ、だったのだが、投函直後に切手を貼っていないことに気がついてしまい絶望。思わず「なんでこういうことばっかりやっちゃうんだろ……」と言ってしまう。小さなミスに心が未だ引っ張られる。こういう時どでーんと構えれるようになりたいです。今みたいに過去の失敗体験がばばばとフラッシュバックするのはもううんざりです。
それだけでなくても、今日は妙に心がしんどかった。3月のせいなのか?寒くなったり暖かくなったりするのに自律神経が追いついていないのか?よくわからないけども、気持ちは沈みっぱなしでヨクナイ!(リトルトーキョー殺人課のドルフ・ラングレンの口調で)
そんな気持ちなので移動中、延々とART-SCHOOLのスカーレットを聞く。懐かしい以上に今の気持ちにぴったり合う。ART-SCHOOLは弱ってる心にフィットする何かがある気がする。まあ、あまり聞かないならそれに越した事はないのですが…。
『1987、ある闘いの真実』(監督チャン・ジュナン)を見る。
凄く面白かった!1987年に起こった取り調べ中の大学生の拷問死が、次第に国家を揺るがす出来事になるといった実話を元にした群像劇。
こんなことが私が生まれる3年前に韓国で起こっていたことに驚き、そして30年経ってここまで映像化されることにさらに驚く。
群像劇であるため、最初は次々人が現れるのに面食らうけども、終わってみれば「あれは誰だっけ?」みたいなことがないのは凄いなあと脚本の整理力や演出力にも驚く。
ミクロが次第にマクロになっていく様子にある種のカタルシスを置いているのだけども、それが最高潮に達するのがラストカット。
これは韓国の人なら泣いてしまうんじゃないかと思ってしまった。俺も泣いてしまったし。
個人的には大好きな俳優ハ・ジョンウがいい役で出ていて良かったです。しかし、韓国を揺るがしたものが、一人一人の小さな希望のバトンであったというのが胸が熱くなるポイントではなかろうか。
世界は一人では変える事は出来ない。しかしそのバトンがつながっていくこと、そして団結することで確実に変わっていくのだ。と左翼っぽいことをいう。昔、父親は学生運動していたらしいし、いいですよね。最近は右とか左とかうるさいのでこういう文章を書くのもなんとなく不安になってしまう。
話はそれましたが、凄く見応えがある映画だった。正直見る前はポール・グリーングラス監督の『ブラディサンデー』のようなドキュメンタリータッチの映画だと勝手に思っていたため、結構エンタメというか戯画化された演出には戸惑ったのだけども、最後のあの一点を見せるためでもこの演出は間違ってなかったと思うし、この話をエンタメとして昇華できる韓国映画界の底力やっぱ凄いなと思うのです。
早稲田松竹は二本立てなのでもう一作本当は見ることできたけども、『1987、ある闘いの真実』を見て疲れたので退席することにした。
それからいつものようにドトールへ。
映画の感想をTwitterで呟いたあと、小説を書こうとポメラを取り出す……も、全く書けず。もやもやばかりが溜まっていく。その上、よせばいいのにTwitterで昨日見た「真面目で優しいだけの人間」という言葉をどんどん考えてしまって、その都度文章を書くが、小説とはいえないものがその度に出来上がる。
私も昔「真面目で優しいだけの人間」という風なことを言われてしまったことがあって、そのせいで人ごとのように思えないのかもしれない。「優しすぎてダメ」とか言われると本当どうしたらいいかわかんなくなるから、みんなは人に言っちゃダメだよ。
結局三時間もモヤモヤして、これじゃダメだ!となって一度ご飯を食べにいくことに。
今日はすた丼を食べる。もりもり食べる。美味しいー。肉は偉大ですね。
その後、またもやドトールに再度こもる。
やっぱりなんとか書き上げたかったけども、思いつかず。小説は全然書けないですな。
Twitterを眺めると(一日に何度Twitter眺めているんだろう~)『scratch 差別と平成』というラジオドキュメンタリーが凄まじかったという内容のツイートを見る。
で、早速聞いてみた。
相模原養護施設殺傷事件のドキュメンタリーであり、犯行を行なった植松被告との面会を通して一線を引くことや、差別問題、そして平成という時代が産んだものを見つめ直すという内容の番組だった。
植松被告の言動が浅はかすぎて、私は何度も震え上がってしまった。大事件を起こした人間であるのに、その罪の意識がなく、そして殺す人間、殺さなかった人間の線引きすら自分勝手で、正直何度も憤りを感じた。
記者が「植松被告は自分が役に立たない人間だと思っていたか?」と聞いて「はい」と答える。その後の「役にたつ人間になりたいと思って犯行を行なったのか?」というのが動機を言い当てたことには心底震え上がってしまった。
これは昨今のヘイトスピーチやLGBTは生産性がないから…発言にもつながる目線だよなあと思い、そしてその一方で私自身も適応障害で退職し、現在無職で日々無力感と向き合っているため遠くないものであると思った。
しかし、その思想に納得するということは一切ないし、ましてや殺人なんて本当に許されることではない。絶対に許されないことだ。
しかし、この日々感じる無力感というものが、時代によって生み出されているものだとしたら、植松被告もまた「時代の子(番組でそう呼ばれる)」だったのかもしれないし、私もそして今を生きるあなたも時代の子なのかもしれないのだ。
うーん。うまくまとまらない。これは多分まとめようとするもんじゃないな。考え続けないといけないことだ。そんな気がする。
一応もうタイムフリーでは聞かないのだけども、youなんとかtubeでは音源が上がっている。ぜひ聞いてほしい。本当は私もタイムフリーでちゃんと聞けばよかったなと思います…。
帰宅後、一日外に出ていたせいでぐったり。今もずっと人をダメにするソファーに寝転がってこの日記を書いている。一日外に出るとメンタルも体力もゴリゴリに削られるの何とかしたいなあ。
あと今日も小説が書けなかったの本当にショックだ。とりあえずどうしたらいいんだろう。軽いものでもいいから書きたいなあ。進捗は今日もダメでした。およよ。