にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

5年ぶりに横道世之介を見た。

5年ぶりに横道世之介を見た。

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 友人(a.k.a木戸)が家に来たので映画を流そうということになって、友人(a.k.a.木戸)の名映画DJにより横道世之介がプレイされたわけだけども、最初は自分たちの学生時代を思い出してやんや言うてたのに、気がついたら見入ってしまって、ラストにはぼろぼろ泣いてしまった。改めて見ても本当素晴らしい名作っぷりに打ちのめされてしまった。

 

 5年前の劇場公開時にも見ていて、その時の感想もある。たぶんこの辺にリンクを張っているはず。大切な思い出のような映画。「横道世之介」 - にゃんこのいけにえ

 にしても当時の俺、当時にしてはちゃんとした感想を書いてるな。これよりもしっかりしたものを書ける気がしない。
ただ、やっぱ同じ映画でも5年も経てば見る意識は変わってくる。あの頃は大学生だったけども、僕も卒業したし就職もした。
あっという間に5年経って、そのあっという間さに驚いている。そしてそれはやっぱり同じ映画でも全く違う印象を受けたりした。

久しぶりに見た横道世之介はその豊かさにやられてしまった。全編、あまりの無駄のなさ、そして所作の一つ一つの美しさにやられてしまった。3時間近くあるけどもその長さは一切感じない。鑑賞の感覚としては凄くゆったりしているのに、実際のところは物凄い勢いで物語が進行しているという、その構成に驚いてしまった。
さっきも書いたけども無駄がない。どのシーンも全てが全て呼応し合っている。伏線というより呼応で、それは人生を振り返る時に感じる「あれもこれも今思えば無駄ではなかった」という感覚に近いものだ。
人生というのが出たので、その流れで書くのですが、この映画は何者かになっていく人の話だったんだなと思いました。
これは横道世之介という大学一年生の一年を通して、横道世之介とその関わった人々が皆何かしらで何者かになっていくまでの話だ。
よく言うじゃないですか、人生のターニングポイントの日の話。
そのターニングポイントの日に、ターニングポイントだったと思ったなんて言っちゃう人はそれは嘘だと思っていて、殆どの場合はあとから思い返せば「あの日がターニングポイントだったんだな」ってものばかりだと思う。
そしてそのターニングポイントってのは、突然現れる。そして、それにどうしようもなく突き動かされてしまうものであったり、否応無くその方向に進まなければいけなかったりするのだろう。
例えば、若くして親にならなきゃいけなかったものが、その覚悟を決めた日のこと。
または後年、世界中をボランティア活動で飛び回る人が、その思いのキッカケになったあの海岸で起こった日のこと。
そして後に写真家になる男があの写真に出会ってしまった日のこと。
それは突然やってくる。そして当人もそのことには気がついていない。


多分、何者にもなってないと思っている我々も、どこかではなにかのターニングポイントを迎えていたりするのかもしれない。そしてじつは何者かになりかけているのかもしれない。
横道世之介はそのターニングポイントに実は居合わせた人間で、そして彼らや彼女らの何者ではなかった日々の思い出として片隅に残り続けている。

僕らは大人になっていく。目の前にある人生を過ごしていくうちに遠くの思い出を忘れていく。
だからこそ忘れていく。何者でもなかった日々を。そして横道世之介のことを。

でも、たまには思い出す。あの日々のことと、横道世之介という何者でもなかった時に一緒にいた人間のことを。
図々しくて、おかしくて、汗っかきで、よく食べて、優しい人間のことを。
なんとなく思い出す。あんなやついたな、なんて思い出す。
もしくは街の風景の中にかつての自分たちを浮かび上がらせてしまう。
あの日々の自分たちを思い出して、笑って。

彼との思い出は、思い出す度にどうあがいてもシリアスにならない。だから、笑ってしまう。だから出会えたことをよかったななんて思ってしまう。
そんな風な人間になりたいという思いは5年ぶりに見ても変わらなかった。
やっぱり、僕は横道世之介になりたい。


ある青年の大学一年生の一年を通して、切なくて笑える青春ものだけでなく、人生の始まりと終わりまで描き切ったとんでもない大傑作。
改めて見ると死の匂いと生の躍動が物凄い濃厚。あらゆるシーンが呼応していて、この映画の中に「人生」が凝縮されてる。沖田修一監督の演出があまりに凄まじくて、腰抜かす。
全シーン、作り込みが物凄い。衣装一つ、置いてある物、音楽の使い方、役者の演技、全てがすべてとてつもない濃度。
何度見ても新たな発見があるだろうなと思う(今回は池松壮亮が就職する企業が1988年の不動産ブローカーということで、この後のバブル崩壊でめちゃくちゃ大変な目にあったんだろうなと、映画に映っていない部分に思いを馳せてしまった)。
多分まだまだ気がついていない部分があるんだろうな。そしてそれくらいの濃度で、我々の生きてるこの人生も本当は存在しているんだろうな。
一見、のんびりしてるんだけども、実はとんでもない濃度で、とんでもない速度で、気がついたら笑ってしまうほどおかしくて、そんで優しくて。

 

また五年後くらいに見たい。次に見るときは33歳くらいか。世之介が亡くなってしまった時期に近づいてしまう。どんな人生を僕は生きてるだろう。世之介みたいになれてるかな。なってたらいいな。それまでは今を生きて、笑顔でただただ走り抜けたい。

 

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