連載小説『シュガーカヴァードリアリティ』
第3話
4.消化の吐露
あなたは食道を歩いたことはあるだろうか?私はある。というか今歩いている。
巨大な団地に食べられてしまった私は、巨大な団地の食道を歩いている。目の奥が痛い。ずっとずっと痛い。
団地に食べられた私はしばらくのブラックアウトの後に食道に立っていた。
食道と言っても、内蔵的な場所ではなかった。
むしろ路地裏と言った方が通りは早い。
団地の食道の上部はパイプがぎっしり張り巡らされている。
等間隔に蛍光灯が配置されていて、白い光を放っている。
地面は、湿っぽい。所々、ゴミが散乱している。そしてたまに、壊れた家具や家電に混じって、損壊した遺体も散乱している。
ここが、食道だということを知ったのも、そんな損壊した者が教えてくれた。彼はまだ死んでいなかった。
でも、半分以上溶けていた。
ブラックアウトから戻った私が数歩先に、下半身が溶けたピエロがへたり込んでいた。
というより、下半身が溶けているからへたり込むしかなかった。
ピエロの右手にはいくつかの色とりどりの風船が握られていた。でも、徐々に力がなくなっているようで、右手から離れた風船が、食道の天井のパイプを覆っていた。赤、青、黄色。割れた風船がただのゴムになって床に散らばっている。
私がそのピエロの姿を見たとき、目の奥がまた痛くなり、吐き気を催した。えづく。
そのえづき音で半分溶けたピエロは私の姿に気がつく。
「悪い冗談だよ。これは何かの悪い冗談なんだ」とピエロは言った。
「大丈夫ですか?」大丈夫じゃないことはわかっていたけども、そういうしかなかった。こんな時にかける言葉を私はもっていなかった。
「まあね。身体が半分溶けても、12時間も生きてる」
「そうですか」
「そうだよ。意外と生きながらえるもんさ。でも、もう死んでしまうだろう。12時間もあったから、いろいろとこの人生について考えてた。悪い冗談だと思った。何にもいいことがなかった。終いにはこのわけわかんない生物の食道の中で、溶けていってるんだ。冗談にしてはエッジが効き過ぎている。こんな冗談じゃ、観客は付いてこない」
「え、食道?」
「知らなかったのかい?ここは食道だよ。この生物の。というより団地の」
このパイプで埋め尽くされた空間が食道とは考えられない。そして何より、そのピエロの溶けた身体が矛盾している。
「え、でも食道って消化器官じゃないんじゃないですか」
「この看板を読みな」
と半分溶けたピエロが指さした先に茶色く色あせたホーロー看板が置いてある。丸めがねをかけた男が「ここ、食道。逆流性食道炎につき、胃液に注意」と叫んでいる。
「あーなるほど」と私は言う。
ということはこのピエロは胃液を被ってしまったということなのか。
「うたた寝してたらこれさ。あっという間だったよ。君も身体半分溶ける機会があれば、試してみればいい。ゆっくり溶けていくんだ。ずっと痛くて、ずっと死が隣にある気配がするんだ。一瞬でも気を抜いたら死んでしまう感覚はやみつきになるよ。寝落ちは君もあるだろう。あれが死に変わるんだ。こんなに生きてるって感覚初めてだ」
ピエロが楽しそうに語気を上げると、ピエロの右手から風船がまた飛んでいく。今度は紫色の色の風船。天井の風船で虹が生まれている。私は感覚が少しだけ麻痺していったのか、半分溶けたピエロと話しているうちに、吐き気は催すことは減っていく。
でも、虹色になっている風船を見て突如として吐き気がこみ上げてきて、私はついに吐いてしまった。
「ここで吐くんじゃ無いよ。吐瀉物を見ながら死ぬのは嫌だよ」
「ごめんなさい。もう耐えれなくなってしまって」
「というと、やっぱり外の人なんだね。」
「ええ」
「じゃあ、早く出るといいよ。なんとか出るんだ。食道って言ってるくらいだから、どこかに通じてるはずだろうし」
そう言って、ピエロは食道の先を指さす。深い深い深い闇と、等間隔に立ち並ぶ蛍光灯の光がぽつぽつ見える。
「出口は必ずあるはずさ。もう僕はここで死ぬけどね。君は行くといいよ」
「ありがとうございます」
「あ、これをあげるよ」と言ってピエロは水色の風船を私に渡す。風船の表面に蛍光灯の照り返し。
「最後のピエロらしいことだ。」
食道を歩く。ひたひたと歩く。私は歩く。
正義の人に私はなりたかった。あの日、夢見たような。あの日のテレビで見たような。
蛍光灯を辿って歩く。ほのぐらい闇の中を歩く。
ピンクのネオン管の光が射してきたのは、そこから15分ほどあるいた先だった。
ネオン管はBarという形に折り曲げられている。
そのネオン管の下には小さな扉がある。まるで茶室に入るような小さな扉だ。
私は入ろうかどうか悩む。久しぶりに見た扉だ。入ってみたい気もする。そのとき、食道の奥からごごごごごごごごと地響きが聞こえて、私の足に鼻を刺激する匂いがする液体が流れてくる。
胃液だ。
逆流性胃炎。
とすると、あの地響きは。
胃液の洪水に巻き込まれる前に、私はバーに飛び込む。
バーに飛び込んだことなんて、初めてだった。
5.叫びの反射
飛び込んだ私はバーの床に倒れ込む。
バーの床はこぼれた酒のせいで、ぬちゃぬちゃしていて気持ちが悪い。カシスオレンジの匂いがした。
天井にはミラーボールが回っている。ミラーボールは回転しながらずっと「殺してくれ、殺してくれ」と叫んでいる。
よく見ると、ミラーの一枚一枚が大きく開かれた口になっていて、そこから叫びが聞こえる。歯が光る。おあああああああ。と唸る。
バーには人がいない。誰もいない。
昭和歌謡が流れているような気がして、耳を傾けるが、歌詞は日本語ではない。
「ぐんぐりゅ、ぐんぎゅる、だぱづと、すちゅるぬ」という歌詞が情感たっぷりに歌われている。
ここは私の知っている場所なんかじゃない。バーなんて入ったこと無いけども、それだけは強くわかった。
「すいません誰かいませんか?」私は叫ぶ。目が痛い。
返事は無くて、ミラーボールの叫びだけが聞こえる。
バーのさらに奥に赤い布が牛脂のようにぶよぶよ付いた扉が見える。誰もいないバーに見切りをつけて、私はそこに向かう。
扉は重たい。押し込むとぐっむと音がして外の空気が流れ込む。冷たい。そのまま、扉を押して開くと光で目が一度潰れる。
出口?
そのうちに目が慣れてくると、私は外が見える廊下にいるのがわかる。そして手すりから向こうの目の前の景色が高速で流れていく。
がしゅがしゅがしゅがしゅと機関車が10台ほど併走して走っているような轟音。流れていく風景。山肌。山肌。
出口だと思ったけども、出ることができない。
どうやら亀の形をした団地はどこかに高速で向かっている。
私は乗客だ。途中下車はできない。
コートから、目薬を取り出す。目薬を注す。
しぱしぱと瞬きを繰り返して、目をぎゅっとつむる。
目を開ける。
流れる景色の山肌が途切れる。
遠くの遠くの遠くに観覧車が見える。
観覧車は小さいのが4つ、大きいのが1つ、馬鹿でかいのが1つあった。
途中下車することもできず、どうすることもできない私はもう一度バーの中に戻る。昭和歌謡が流れているが、歌詞は相変わらずどこの言葉がわからない。
時折、日本語のようなものが聞こえるが、「脳みそ、とけた。たまらず溶けた」と聞こえるので、私は無視をする。
ミラーボールも殺してくれ、殺してくれと叫んでいる。
そもそも、私はなんでこんな場所にいるんだ?本当はあの路地裏に入った瞬間に死んでしまったんじゃないだろうか。これはもう本当は死後の世界で。それも地獄で、私は今現世で起こした罪の精算をしているのだ。
現世の罪を数える。
教習所で別の教習車にぶつかってしまったことが一番大きい罪な気がする。
そんな私でも地獄行きなのだろうか。しかしキリストは生きてるだけで罪です・・・とか言っていた気がするし、いやキリスト勝手なこと言ってんじゃねえよ。なんだよ生きてるだけで罪って、メンヘラサブカル女かよ、生きてることに対して意味を持とうとして変な方向にこじらせるんじゃないよ。
しかし、別の教習車にぶつけたことも罪だとしたら、私は今地獄にいて、この変なバーで、変な歌謡曲と、苦しむミラーボールのあえぎを聞かなきゃいけないんだ。
それが途端にたまらなく悲しくなって、泣きそうになる。
私が何をしたっていうのだろうか。
泣きそうから、泣きにクラスチェンジして涙がぽろぽろぽろぽろ。
もしかしてあのペンギンも本当は天使とかそういう類いのもので、私の最後の行いを見ていたのではないだろうか。
じゃあピンヒールでしばきまわした私は間違いなく地獄行きだ。さよなら家族のみんな。私は地獄に行きました。
地獄は思っていたような世界よりもしんどいです。
本当むりです。
するとどこかからピアノのメロディが聞こえてきた。
あのピンクのネオンの部屋で聞いたのと同じメロディ。「ここは池なのでフナはつれない」と連呼していたレコードの回転数を変えると聞こえてきたあのメロディ。
私はそのメロディがどこから流れているかを探す。ミラーボールの叫びが邪魔でどこから流れているかよくわからない。
でも、探す。それが何かにつながる気がしているから。
床。
床からどうやら、音が聞こえているらしい。
床の一部分取っ手のようになっていることに気がつく。
私はその取っ手、多分に漏れずこぼれた酒でぬちゃぬちゃしている、その取っ手を掴んで引き上げる。
するとそこはピンク色のネオンが輝く部屋で、床には三輪車に乗った猿のおもちゃがぐるぐる回っている。
「やあ、やっと来たね」
と声がする方を向くと、あの女が座っている。
でも今回は影になっていなくて、女の顔もはっきり見える。
女は黒い布で目隠しされている。それが当たり前のようなたたずまいで、私に話しかける。
「あの子を見つけないと」
(つづく)