にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

社会の隅っこで、ごっこ遊び。

 先日お笑いコンビのにぼしいわしの第三回単独ライブ『超!ネックル危機一髪』を見ました。

 もの凄く面白かった。まだ東京公演があるので、ネタバレは避けるとして、なんて面白いんだ!って思った。

 時間が足りなかったのか、少し演出的にもたついたところはあれども、全体で一つの作品のような構成と、きれっきれの言葉と動き、そんで手間のかかった超くだらないあれこれにめちゃくちゃ笑ったし、正直感動すらした。

 東京公演のチケットは売り切れているそうですが、配信もあるようなのでもしご興味がありましたらぜひぜひです。

 

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↑フライヤーはなんと切り絵で作られていた。作ったのはにぼしさん。凄いや…。

 

 

 私は面白いものを見ると「うわー!おもしろーい!!」って興奮する。それと同時に「悔しい~」って思ってしまう。梨うまいさんの「悔しみノート」じゃないけども面白いものを見ると「悔しい~」って思う。

 自分がそれを作りたかったってわけじゃないし、自分にそれが作れるとも思わない。

 そういう「悔しい~」ではないんだけどもやっぱり「悔しい~」って気持ちが結構出てくる。

 「悔しい~」って何だろう。なんで「悔しい~」って思っちゃうのだろうか。

 

 

 

 趣味で小説を書いてるし、趣味でポッドキャストをやっている。両方とも趣味だし、一銭もお金を産み出してはいない。

 別にお金を産み出すのが偉いってわけじゃないけども、身も心も資本主義な世界にどっぷり浸かっている私は、どこかでお金を産み出していないのは「あかんこと」みたいに思ってしまう節がある。

 それは別に思わなくてもいいことだけどもお金を産み出して一流だという風潮に私はすぐに負けてしまう。

 それでもセブンネットプリントで出したZINEをわざわざ印刷して読んでくださった人もいるわけだし、毎回一時間くらい弟とだらだら喋っているポッドキャストを自分の時間の中からそれを聞くことを選んでくださってる人もいる。

 そう思うと、めっちゃありがたいことだと思う。

 それでも同時に「趣味でやってることなんで・・・」と私はうつむきがちに言ってしまう。そういう姿勢を別に取らなくてもいいのに、何故取ってしまうのだろう。

 

 

 

 思えば、ごっこ遊びが好きな子供だったと思う。保育園の通園鞄をハンマー投げ選手のようにぐるぐる回していたこともあるし、ファイナルファイトで体力が無くなってリスポーンする瞬間のまねを嬉嬉としてやっていたような子供だった。

 『トイストーリー3』の冒頭のように、おもちゃを並べては自分にしか見えていない大作映画の風景が見えていた。

 小学中学ではその傾向がまた別の方向に進んでいく。

 自分で新聞を作ったり、エメリッヒ版のゴジラの足を粘土で作ったり、下手な絵で100ページ以上の漫画を書いたり、クラスの班だけでしか読まれないノートに最近見たおすすめのドラマについて長々と書き殴っていたり。

 高校でもアフロのかつらをつけてビンゴ大会をしたり、サンタクロースの格好してプレゼントを配布したり、軽音楽部のライブでもこれを着て顧問の先生に「やるんだった僕に言って欲しかった」と怒られたりした。

 これらはお金を産み出すためにやったわけじゃなくて、楽しかったからやったことだった。目立ちたかったもあったかもしれないけども、それよりはやっぱり楽しそうと思ってやることの方が圧倒的だったと思う。

 ごっこ遊びと同じで、それらは全て"ごっこ"だったのだと思う。

 世の中にある何かを模倣する。それがごっこだとしたら、私はずっとごっこをしているのだ。

 そしてそれに喜びを感じているのだ。

 

 

 

 ごっこ遊びは今も続いている。

 このブログだって、感想を書くというごっこだ。かつて自分が読んでいて面白かったブログや評論や感想、もしくは本のように文章が書けたらと思ってやっていることだ。

 小説も自分は物語を読むのも見るのも好きだから、そんな好きな物語を自分も書いてみたいなっていうごっこだ。

 ポッドキャストは一番わかりやすいごっこで、私はラジオが好きだからただラジオごっこをしているのだと思う。

 ごっこは楽しい。それは想像力の遊びだ。想像の世界で起きる火花を身体に引火させている。想像力と模倣。そうやって時間と体力を使うのがずっと好きなのだ。

 

 

 

 「悔しい~」って思い始めたのはここ数年だ。ごっこ遊びだと思ってやっていた文章を書くことも小説を書くこともポッドキャストも数年経ってきた。

 そうすると模倣と本物の差がやっぱりわかってくる。

 できないことが沢山見えてくる。

 自分にはできないこと。

 理想的なものとの差に愕然としたり、自分にはできないなと諦めた道から世にも素晴らしいものが現れる。

 その時に私はただただ「悔しい~」って思う。

 できなかった自分。自分にもこんな風にできたら。自分にもこんな作品が生み出せたら。

 とはいえ、嫉妬とは違う。もっとみっともなく「悔しい~」だ。ただ完封して、床に転げながら、うーうーとうめき声をあげて「悔しい~」と思ってる。

 「悔しい~」と思う一因には、凄い作品で、ちゃんと評価も受けて、そしてお金を生み出しているってのもあるかもしれない。

 ちゃんと作品で社会とコミットしている。

 そう思うと私はまだ社会の隅っこで、ずっとごっこ遊びをしているだけだ。

 

 

 

 とはいえ、そんな自分を否定したいわけでも自己憐憫に浸りたいわけでもない。

 ごっこ遊びは続けるつもりだし、こんな楽しい趣味を手放すつもりもない。

 「悔しい~」って思う時、その後はだいたい自分も頑張るぞ~ってなってる。

 一生かけても「悔しい~」って思う作品の領域にはたどり着けないかもしれない。というかほとんどたどり着けないと思う。

 そしてたどり着くのがゴールじゃないと思う。

 ただ、やっぱり「悔しい~」って思ったら、自分は前よりは納得がいって前よりはいいなあと思えて前よりは面白いものを作りたいなって思う。

 そして何よりだけども、前よりは楽しくやりたいと思う。

 子供の時のごっこ遊びも毎回同じことはしていない。

 繰り返すことはなく、その度に楽しいと思う方向に舵を切ってきたはずだ。

 そういうことを忘れちゃいけないなって思う。

 

 

 

 社会復帰できていないって何度も言ってしまう。それでも私は社会とどこかで接点を持っているはずだ。会社に所属していない、働いていない、病気で寝込みがちが別に社会と接点を絶っているという意味にはならないはずだ。

 私は私なりに社会と接続しているはずだ。

 私は社会の隅っこでもごっこ遊びをしていきたいと思う。

 そしてそのごっこ遊びが誰かにとって楽しく見て貰えるものだったら、これ以上に嬉しいことはないなって思う。

 できれば今度は誰かを「悔しい~」って思わせたいので、そんなことが出来る日まで自分も「悔しい~」で済まさずに想像力の中でダンスをして、それから手を動かし舌を回転させて、その都度で自分が楽しいと思うごっこ遊びを続けていきたいなって思う、今日この頃の俺だ〜。(EXITの漫才中のこのフレーズ、最高だよね)

 

 

 

 

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