これはプロレスについての本だ。
とはいえ、この本を読んで真っ先に思ったのはプロレスファン以外にも届けたいという気持ちだった。私がプロレスを全く知らないでこの本を手に取ってページをめくる手が止められなくなるほど面白いと思ったように。
別に特にびっくりするような展開も、貼られた伏線が回収されるわけでも、大どんでん返しがあるわけでもない。
これはノンフィクション本だ。これは実際に起きたことだ。平成初期から平成後期までのプロレスを舞台にしたノンフィクションだ。
プロレスということを抜きにすれば、時代の流れや多くの失敗の中で、どん底の環境にいた人々が、それでも腐らず、あるかもわからないようなある種の光や希望に向かって、頑張って歩みを止めなかった。そういった本だ。
それがプロレスという業界で起きたというだけだ。
その特異性を抜きにすればあまりにも普遍的で、そして普遍的だからこそ胸を打つ。
なぜここまで、言い切ろうと思ったかと言えば、私自身がプロレスには詳しくないからだ。棚橋弘至も中邑真輔もプロレスラーであることは知っている。しかしこの本で描かれる試合は1つも見たことがないし、登場人物も8割~9割方、顔は一切出てこない。
それでも興味深く読むことができるのは、まず1つには著者の柳沢健による文章があまりに面白いからとしか言いようがない。
棚橋弘至と中邑真輔という二人のプロレスラーの若き日から、どん底の時代、そして2011年、またはその後に至るまでを、著者は気が遠くなるほどの膨大な資料をもとに描いている。当時の試合は勿論のこと、プロレス紙や新聞、当人達の証言はもちろんのこと、周辺の人々の証言まで、あらゆる資料を組み合わせて、何が起きていたか?を立体的に浮かび上がらせようとする。
プロレスの本だ。しかしこれは間違いなく歴史の本でもある。
昭和の終わりから、平成の末期までを、新日本プロレスと棚橋弘至と中邑真輔という軸で再構成したのがこの本なのだ。
私の話になってしまい恐縮であるが、私は平成2年に産まれた。ほぼ平成の始まりに産まれた私は好景気だった頃を知らない。しかし昭和がある程度まで追いかけてきていたことは知っている。それは振り切れない幽霊のように付きまとっていたことも、昭和のあの頃はよかったと勝手に言われていたことも知っている。
何にもしていないのに、いや何にもできないのに時代がどんどん重たい空気をはらんでいく中、その時代を生きていた。
その平成という時代の中で、棚橋弘至と中邑真輔が所属していた新日本プロレスはかつてないほどの危機を迎えていた。
偉大で、そして尊大なるアントニオ猪木の影響、つまりは昭和で確立されてしまったストロングスタイルという亡霊に付きまとわれる中、新日本プロレスはどん底まで落ちていく。
その中で棚橋弘至や中邑真輔は何をしたか?もっと言えば、どうやってプロレスを復活させたのか?というのがこの本の内容だ。
どのように復活させたか?そのことについては読んでもらうのが一番だが、あくまでこれは自己啓発書ではない。こうすれば復活するというものではない。
しかし、暗闇の中で歩いているような感覚になっている人にはこの本をぜひ手にとってもらいたい。もしくはまるで世界には希望がないような感覚になっている人。もしくは周囲から勝手な期待をかけられ、勝手に失望されている人も。
つまりは「孤独な人」にこの本を読んでもらいたいと思う。
私は私が生きていたこの同じ時期に、これほどまでに孤独で、そしてそれでも光に向かって歩みを止めなかった人々がいると知り、胸を打たれ、そして何度か涙を流した。
そのようなとても熱い本だ。
だからこそ、読んで欲しいのだ。
どん底の新日本プロレスを復活させることに人生を捧げた男、棚橋弘至の戦いもぜひ読んで欲しいが、それ以上に私の胸を打ったのは中邑真輔が自らのスタイルを手に入れる瞬間である。
中邑真輔。私が本書を取ったのも彼が理由であった。
中邑真輔は現在アメリカのWWEに所属している。そこでの入場時のパフォーマンスの動画をたまたま見た私は一瞬で彼の虜になってしまったのだ。
妙であるが同時に品を感じさせる所作。
くねくねと称されるように、気持ち悪いと同時にダンスのような肉体の躍動を感じさせる動き。
私は何故この人がこのようなスタイルになったのかが気になっていた。
それがこの本を手に入れたきっかけだった。
私がたまたま見たあの中邑真輔になるまでに、相当な紆余曲折があったことを知る。
それと同時に恐ろしいほどの苦悩も苦痛もあったことを。
しかし、現在の中邑真輔とも言えるスタイルを手に入れる瞬間、それは他人からの要請ではなかったことも知る。
中邑真輔は、自らのこれまで大事にし、愛してきたものを、好きに自らの身体を使って表現し始めた。
それこそが、中邑真輔というスタイルになったと書かれている。
自らの言葉を手に入れた瞬間。
たしか村上春樹が「自分の文体を手に入れたら、あとはいくらでも書ける」ってなことを言っていたと思う。
私はまだ自分の文体を手に入れていない気がしている。
しかし、その文体はもしかしたら自分の好きなもの、そしてこれまで研磨してきたものの中にあるのかもしれない。
中邑真輔のスタイルの覚醒は、多くの人に取って何かを感じさせるものではないかと思った。
特に、自らの文体というものを手に入れた感覚がない人。もちろんこれは文章に限らず、人生においてもだが、その感覚がない人にこそ、響くのではないのだろうか。
少なくとも、私には響いた。それも痛いくらいに。
プロレスというのはとても奇妙なエンターテイメントだと感じる。
身体を痛めつけ、同僚を傷つけ、同僚に傷つけられ、そしてそのリングの中で、一種の作品のようなものを共同で作り上げていく。
ある種のストーリーを書き上げ、同時に書き換えていく。
現実的に身体を痛めつけながら、虚構としての自らのキャラクターを観客に魅せていく。
スポーツでも格闘技でもない、エンターテイメントだ。しかし、他のエンターテイメントではありえないほど実際の身体はぼろぼろになっていく。
なぜプロレスラーはその世界に身を投じるのか?
なぜそんなプロレスの世界を人々は愛するのか?
そもそもプロレスとは一体なんなのか?
なぜこの世界にプロレスは必要なのだろうか?
この全ての答えがこの本に書いてあるわけではない。私も未だに分からないことだらけだ。
しかしこの本を読み終わってからプロレスの世界を見てみたいと思っている。
私もこの本に書かれていたような世界を垣間見たい。
まだこの世界にはこれほどまでに熱い場所があるのかもしれない。
私は読み終わって、その熱を、直接浴びてみたいと心から願った。
自分の凝り固まった世界が変わるかもしれない。
そんな勝手な希望を抱く始末だ。
だが、そんな勝手な希望を抱くほど、この本に夢中になったのだ。
これはどん底の中、あるかもわからない光に向かってあるいた人々の本だ。
これは平成初期から平成後期の日本のある一部分を切り取った本だ。
これはやらなきゃいけないことをやっていった結果、歴史になってしまった人々の本だ。
これは戦うしかなかった、そして戦いの中で己を見つけていったヒーローたちの本だ。
これは青春期の始まりと終わりを描いた本だ。
これは何より孤独で打ちのめされているあなたに読んでほしい本だ。
本書で知ったことだがプロレスラーがリング上で自分の感情を爆発させることを"ファイヤー"と呼ぶらしい。
本書はきわめて客観的に書かれた本だ。
柳沢健本人の主義主張はなるべく省かれているように思われる。
それでも瞬間的に柳沢健のある種の感情が爆発しているような瞬間がある。
『棚橋弘至は思想家であり、革命家であり、扇動者であり、それゆえに孤独だった』
これは勿論、棚橋弘至を評する言葉だ。だが、それ以上に著者の思いが乗っているような気がする。
しかしそれは結局のところはわからない。
ただ、虚実入り交じるリング上でのプロレスラーの姿に心を熱くするように、私はこの文章に何か熱いものを感じたのだ。
虚構と現実。どちらが優れていて、どちらが悪いというものではない。
プロレスも、プロレスラーも、文筆家も、そしてそんなこと関係ない私たちも、虚実入り交じる世界を生きている。
それでも、ある瞬間は共鳴し合い、心を熱くする。
私たちはその熱を追い求めて生きている。
虚構も現実も関係のない、心を熱くする瞬間を。