にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

『霊的ボリシェヴィキ』を見た!(怖い話をするということ。もしくは人の声の力について)

霊的ボリシェヴィキ』を見た!

f:id:gachahori:20200709063614j:plain


廃墟に集まった数人の男女。彼らはパイプ椅子に座り、集音マイクの前で「怖かったこと」を話し始める。話はオープンリールデッキで録音されている。彼らの年齢も性別もばらばらだ。しかし一つの共通点がある。それは「人の死に触れたことがある」こと。
そして彼らは実験のために集まった。それはこの場所と「あの世」を繋ぐことだ。
頭上にはレーニンスターリン肖像画が飾られている。そして人々はボリシェヴィキ党歌を合唱する…。
Страны небывалой свободные дети,
Сегодня мы гордую песню поём
О партии самой могучей на свете,
О самом большом человеке своём.


【和訳付き】ボリシェヴィキ党歌(ロシア音楽)"Гимн партии большевиков" - カナ読み有


監督・脚本は映画『リング』やNetflixの『呪怨 呪いの家』を手掛けた高橋洋(なんて書いてるけども、私は『リング』はちゃんと見てないし、『呪怨 呪いの家』は未見です…)。主演は韓英恵

うわーいやだな怖いなーな映画でした。と感想を終えたいけども、多分これで「じゃあ、怖い映画なんだ」と見た人の半数くらいは「なんだこれ、怖くないじゃないか」ってなるのが火を見るよりも明らかだと思います。これは私が「いやー、マジョリティがわかんないものわかっちゃうんだよね~」な中学2年生な自意識をこじらせているわけではありません。むしろそこから距離を取りたいと思っております。しかし、このままではこの映画怖いと思っちゃうとか「そういう自意識なんじゃないの」と思われかねないですから、どう怖いと思ったか、それをかければと思います。以下よろしくおねがいします。


「結局、人が怖いってことじゃないですか」
そう言い放った男は杖で叩かれる。『霊的ボリシェヴィキ』が始まって10分という冒頭、まるで意見表明のようなシーンです。
「結局、人が一番怖い」ってことよく聞いたり、なんなら言ったりします。確かに、人は怖いです。ニュースを30分見ているだけでも、ぞっとするような人による暴力にふれることができます。私も、よく夜中に未解決事件を調べてはぞっとして眠れない夜を過ごしたりします。
それに対して「おばけ」や「幽霊」はたしかに怖い。でも、根底にあるには「信じきれなさ」じゃないでしょうか。
心霊スポットは確かにある。怖い話も沢山ある。心霊映像だって一大ジャンルです。
でも、心霊スポットはいくら気持ちが悪くても「おばけ」の存在を信じ切ることはできない。なぜならば見えないからです。この見えないというのは厄介で、見えないからこそ信じることができない。代わりに心霊スポットで起こってしまった殺人事件はおばけなんかよりも、ぞっとする。それは「本当にあったこと」だから。
怖い話も、怖いなやだな、と思いつつもどこか安心している。怖いということを楽しむ。夏の風物詩という言い方もあります。花火、かき氷、怖い話。
いくら百物語を一晩で話したらやばいと聞いていてもやっぱり信じてはいない。やっぱり見えてないから。
そして心霊映像はadobeが一般視聴者の知識として普及した今じゃ、実在感よりもその上手い騙し方を楽しむジャンルになっています。
おばけ、幽霊、心霊はいくら怖いと思っていても信じてはいない。それが大多数なのではないでしょうか。
だから平気で言っちゃうわけです。
「結局、人が一番怖いってことじゃないですか」
しかし、そう言った男は劇中、杖でしばかれてしまう。
人が一番怖いわけがない。馬鹿言っちゃいけない。
本当に一番恐ろしいのは霊です。
もっといえば、向こう側の存在です。
それを私達は「あの世」と言ったり、「異界」と言っています。
でも、どっちにしろ意味は同じです。それは触れちゃいけない境界線の先の世界です。
この映画で行われる実験はその向こう側の世界をこっち側と繋ぐというものです。
どうやって?
「怖い話」をすることで。
機械は集音マイクだけ。SF的なギミックは一切なし。ただ人々が怖い話をする。それを聞く。
どうやらそれが「異界」と繋がってしまうらしいのです。
…ってここで気がついてしまいます。その実験はこの映画の構造そのものなのです。もっといえば、映画というメディアの構造そのもの。
観客は映画をただ見ることしかできない。何が起ころうとも干渉することはできない。
異界への入り口を作るために人々が「怖い話」をしていくのを、どうすることもできない。ただ聞くことしかできない。聞いていたら異界が開いてしまうかもしれないのに。それでも聞くことしかできない。そうしているうちに映画はどんどん恐ろしいことになっていきます…。


ところで、映画を見た人ならわかると思うのですが、終盤怒涛のような展開になります。
正直「え?え???え?????」となっちゃって、映画についてもっと読み込みたいなって思っていたらいい本がありました。
f:id:gachahori:20200709074334j:plain
『映画の生体解剖 × 霊的ボリシェヴィキ』という本です。こちらはAmazon電子書籍として買うことができます。
カナザワ映画祭でのトークショーや、高橋洋監督のインタビューが掲載されておりまして、結構な映画についての解説もありますので、疑問が解消したり、なるほどこういう文脈のシーンだったのか~となること請け合いです。おすすめですのでぜひぜひです。(ちなみにアフィリエイトやってないので、私の小銭稼ぎではありません…)


というわけで、この文章では映画での「ここはこういう意味でー!」みたいなことはやらないです。それは上記の本をぜひ読んでください。
ここから映画の内容を記述しながらネタバレをいれつつ書きたいのは、初見時の気味悪さについてです。未見の方は、ここでお別れを。
ぜひ、映画を御覧ください。予告編を掲載しておきます。これを見ながらお別れを。またどこかで会いましょう。それでは。

韓英恵 主演の最恐心霊映画『霊的ボリシェヴィキ』予告編



f:id:gachahori:20200709083954j:plain


「怖い話をするということ。もしくは人の声の力について」

f:id:gachahori:20170212163457j:plain
人の声には力があるとされています。これは何もいわゆる新興宗教やパワースポット的なスピリチュアル的なことではなく、これまでの宗教や仏教感としてです。お経やお祈りが声を通してされてきました。声を通して人は自らの身を案じたり、幸せを祈ったりしたわけです。
同時に、呪詛という言葉があるように、呪いもまた「声」を通して生み出され、そして伝播していきます。
宗教な使い方じゃなくても「悪口」で人は心を病み、そして死に追い込まれることもあります。現代の日本のビジネスでは「コミュニケーション能力」という漠然としたものが求められています。アニメーションに声をつける声優が人気になり、イケボと呼ばれるかっこいい声を持つ人間が声だけで人気を得ることもある。
「声」というものを考えていくと際限がなくなっていきます。同時に声は際限がないほど、この世界で力を持っています。そして私達は「声」の力を嫌というほど知っているわけです。

「恐怖」という分野でも「声」というのは絶えず「恐ろしいもの」として扱われてきました。ライブテープに収録されたいるはずのない女の子の声。集団自殺をする人々の最後の瞬間を録音したテープ。洗脳をするために繰り返し再生される声。恫喝だって声だし、叫び声も声だ。
なんにしても「声」は恐ろしい。なぜならば繰り返しになるけども「声」には力があるからです。力があるから怖いのです。

「怖い話」をしていると幽霊がやってくる。なんてことも聞いたことあるかもしれません。それを100%信じていなくても、それを全部否定することはできない。どこかで「そうかもしれない」と思っている。声によって近づいてくるかもしれない。異界の人々が近づいてくるかもしれない。
声の力を知っているから、どこかではそう思ってしまう。声は恐ろしく、力があるから。

映画の後半、主人公の由紀子が「怖かったこと」を話していると、ついに空間に異変が生じてきます。
異音が鳴り響き、時間が歪む。登っていたはずの陽は沈み、夜になっている。電気は消え、停電は起きる。
「異界」とついに繋がってしまう。
そして由紀子自身も「異界」と同化し始める。

ぴょこぴょこぴょこと、速く歩く由紀子に「人間性」を感じることができない。もう「異界」の存在であるから、話が通用するような気がしない。

話が通用する…というのはとても大事なことだ。声をかけあって、コミュニケーションがとれるというのは安心をもたらす。
会話ができるというのは相互に安心することであるし、その場に二人の人間がお互いにお互いを信用すればそこに居場所が生まれる。
でも会話ができない、話が通用しない存在は恐ろしい。なんせ嫌なことが起きても「嫌だ」と伝えることができないのだ。
由紀子はそういう存在になってしまっている。
そして由紀子は光を見ている。いや見てしまっている。
どれだけ「異界」を信じていなくても、見てしまうともう話は別だ。
見てしまったら、存在しちゃうのだ。もうあるのだ。信じられないなんて言ってられない。
「光」を見てしまった人たちはどうなったか。あるものは啓示と思い、あるものは宗教戦争で兵士として名をあげた。でもそれはその時の社会や世界にとって、その「光」を見ちゃった人の言葉が有益であったから受け入れられ、英雄になっただけです。一人で光を見ちゃった人は、大抵の場合気が狂ってしまった人、そういう扱いになり、社会からは弾かれます。
だから光を見てしまうことはとても恐ろしいことなのです。光を見てしまったらそれがあることを信じなきゃいけない。なぜなら見なかった頃には戻れないからです。でも、光を見てしまったことを証明することはできない。一人で光を見てもそれが本当にあったことだなんて誰が説明できるでしょうか。
だから光を見るには大勢が必要です。気を保つために、狂ってしまわないように。
異界を開くには大勢が必要だったのです。
そして見てしまう。光を。異界の入り口を。ついに開いてしまった向こう側への境界線を。
でもうまくはいかない。
異界からは布にくるまれた女児が出てきただけです。それは本当の由紀子です。昔、神隠しに会ったときに本物の由紀子は異界に連れて行かれ、異界の由紀子が、本物としてずっとこちらの世界で生きていたわけです。
由紀子の両親は手紙でその真実を知り、自分が育てている由紀子が怪物であることを知って、恐怖に怯え、別れました。
由紀子の母は異界の由紀子を育てながらも、心では許すことができず、それが由紀子が語った「窓から由紀子を睨む母」という存在(もしくは生霊)を生み出したのかもしれません。
まあ、ここは勝手な考えです。別に大事ではありません。
ともかく異界は閉じてしまった。
異界の入り口は消えてしまった。
そして録音をずっと担当していた若い女が銃を取り出してこういいます。
「もうここは穢れてしまいました」
そして、皆を殺し、自分も自殺する。異界に触れてしまったら、もう死ぬしかない。


でも、死にゆく由紀子は見てしまう。
本物の由紀子がはいでて、外に出ていくのを。
これは本物の由紀子が現実に戻ってきたという幸せな終わりなのでしょうか。
でも、どこかそんな風には思えない。
黒沢清監督の『花子さん』のラストで異界の存在であった花子さんは街に放たれる。それは世界の終わりを予感させます。
異界の存在が外に出てしまうというのは、この世の理を破壊することなのです。
もし本物の由紀子だとしても、20年近く異界にいた由紀子です。それが世界に放たれることで、何が起きるのでしょうか。
映画はそこまで描写はしません。
でも死にゆく由紀子のアップに「終」とテロップが出るだけなのです。


この映画が怖いのはこの映画こそが「異界を繋ぐ実験」と同じ構造を持っていること。そしてそれが突飛な実験ではなく、我々が普段から意識している声の力をつかったものであること。そしてなにより「異界」というものに触れてしまうことの取り返しのつかなさを描いているからこそ怖いのです。
そして「異界」と接続する実験に参加するその人々の姿は「異界」というその恐怖に怯えながらもどうしようもなく惹かれてしまう私達観客そのものです。
「異界」はとても怖い。それでも大好きで仕方ない。
霊的ボリシェヴィキ』はそんな相反する感情を描いているからこそ、怖くて、それでも目が離せなくて愛おしい、そういう映画でありました。
f:id:gachahori:20200709083923j:plain