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ローラン・ビネ『HHhH』を読んだ!

ローラン・ビネ『HHhH』を読んだ!

 

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『カブチーク、それが彼の名、実在の人物だ。』

1
僕には学が無い。47都道府県の場所はいつだって朧げで、書けない感じは山ほどあって、機械の多くはブラックボックスで、歴史なんてのは全く覚えきれなかった。
そう、「歴史」。
ラインハルト・ハイドリヒのことは知っているだろうか?学がない僕は知らなかった。死刑執行人とあだ名された男のことを僕は知らなかった。金髪の野獣と言われた男のことを、ヒムラーの右腕の男のことを、ナチスドイツでユダヤ人大量虐殺の首謀者であり責任者であったこのラインハルト・ハイドリヒのことを僕は知らなかった。
もちろんハイドリヒ暗殺計画、通称「類人猿作戦」のことなんて、それに参加した二人の青年、ガブチークとクビシュのことなんて。


2
ハイドリヒ暗殺計画についての作品は現在に至るまで多く制作されている。映画では1943年にはこの事件を下敷きにフランツ・ラング監督で『死刑執行人もまた死す』が制作され1976年にはルイス・ギルバートによって『暁の7人』が制作され2016年にはショーン・エリスによって『ハイドリヒを撃て!』が制作されている。
この事件は何度も語られている。それこそ、作品の冒頭で作者は父から事件について聞かされる。
じゃあ、改めて歴史を語ることとは何を意味するのか?その歴史を小説に変換することにはどんな意味があるのか?


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なんて、大きく出たものの、僕はこのテーマについて扱いあぐねている。現在は2017年11月30日。現実の僕は本を読み終えたばかりの休職中の27歳男性だ。僕は実家にいる。実家の場所は日本の大阪。1942年のプラハからは位置も時間も遠い場所だ。
しかし、1942年のプラハはこの本に封じ込められている。僕は行ったことのないし見たことない1942年のプラハが脳に浮かんでいる。


4
作者のローラン・ビネは徹底的に一次資料に拘り、この物語を紡ぐにあたって自分の作為が入り込むことを拒否し続ける。
ローラン・ビネは1972年生まれ。1942年から30年後に生まれた。あの年のプラハは知らない。
だからこそなのか一次資料を集めに集めて書き連ねる。この偏執的なまでの姿勢は1942年を立ち上がらせようとしているのかもしれない。"ドラマ"ではない1942年を。


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僕はここまで書いて、この小説に対する感想が正しいのかどうか不安になる。他人の評価が気になり「HHhH 感想」で検索をすると、この本のことを辛辣に書いているブログに行き当たった。曰く「ローラン・ビネは記録に頼りすぎている。記録なんてものは簡単に捻じ曲げられるのに。この本は痛みの知らない坊ちゃんが書いた小説だ」。
僕は必死に反論する言葉を探そうとするが、何も浮かばない。


6
僕は1990年生まれで、ローラン・ビネは1970年生まれだ。たしかに"痛みの知らない世代"なのかもしれない。戦争を体験した作家たちは素晴らしい作品を残していった。痛みを知っている人々がその痛みを癒すために描いた作品や、その痛みを後世に伝えるための作品。それらに比べてこのHHhHは痛みの知らない者が作った小説だと唾棄されるものなのか?

 

7
いいや、違うはずだと僕は思いたい。一瞬差し込まれる「大量虐殺があった村を元にしたゲーム」の話を覚えているだろうか。1942年の話をしていたのに2006年のこのニュースが差し込まれる意図は。
ローラン・ビネは遠い過去のことを書いてるのではない。地続きのものとして書いてる。1942年と2006年、そしてローラン・ビネがこの小説を書く2008年は同じ時間にある。歴史小説なんかじゃない。彼にとっては目の前で起こったことなのだ。1942年のプラハにいた人々と同じように。


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だから、彼は終盤ある引き延ばしを行う。時間は長くなる。数時間が1日に、数日に、数週間に。そうでもして引き延ばしたのは作者である自分がもう一度この時間を描くことで登場人物=現実に存在した人をもう一度殺すことになるからだ。
だから避けようとする。でも歴史は、時間が巨大で抗えない。


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あまりに巨大すぎる歴史の中で、それに抗いそして名前を残した人々。一方で名前も残せないまま亡くなってしまった多くの、そうあまりに多くの人々。
少ないページだけども、彼らのことを書き連ねる。文学としてではなく、彼らの生きていた証を刻むように。
それは読者を喜ばせるような気持ちの良い話ではない。でもこの歴史に触れてしまったからには避けるのは罪悪感を感じる人々。そう彼らもたしかに生きていた。いや、みな生きていた。巨大な歴史の中で。


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巨大な歴史の中で小さな人間が出来ることはなんだろうか?絶えず進み続ける歴史の中で小さな人間が出来ることは?小さな人間はただ歴史の中で死んでいくだけなのか?
それに抗うことができるのが物語なのではないのだろうか。ローラン・ビネの『HHhH』はその抗いの記録のように思える。
1942年に生きていた人たちを忘れないようにするために。
全ての痕跡が消えゆく2008年に必死に残そうとした一人の人間の記録のようにも読めるのだ。
1942年のプラハは『HHhH』というタイトルの物語になって産み出された。2017年の僕はそれを読むことができる。そして僕の脳内に1942年のプラハが立ち上がる。
ガブチークが、グビシュが、彼らの仲間が、彼らが愛した女性が、死んでいった者が、プラハが、ハイドリヒが、そしてローラン・ビネが僕の脳内に立ち上がる。
歴史に対して小さな人間にできることは少ないかもしれない。でも、その小さな人間の力強い抵抗は誰かによって記録してくれるかもしれない。物語の形になって生き続けるかもしれない。2017年の僕は1942年の歴史を2008年に生まれた物語で知る事ができた。
1970年生まれのローラン・ビネが悩みながら1942年を刻み込んだこの物語はこの先も生き続ける。
1942年のプラハは生き続けるのだ。

 

 

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)