「小指を潰したいんですよ」ってことを岸田くんに伝えたら「えっ?俺の?」って聞き返してきたのでうんうんうん、と頷いたら「あーまじかー」って頭を抱えて無言になってそれから「ちょっと困るなー」って言われたのでそりゃそうだよなと思い、私は机の上にトンカチを置いた。
岸田くんの小指をトンカチで潰すのを許されないからって私は岸田くんに「じゃあわたしのことを愛してないっていうの!」なんてそんな定型的なメンヘラなことは一切言わない。
なぜなら岸田くんは十分すぎるほどにわたしのことを愛しているだろうし、そしてわたしもそれには十分すぎるほどに満足している。
しかしながら、小指を潰したいという衝動はそういった愛から生まれたものではない。
むしろ動物由来なものだ。草食動物が草を食むように、肉食動物が肉を食むように、ヤンキーが預金残高を見ずに子供を作るように。
わたしはただただ岸田くんの小指をトンカチで潰したいと思ったのだ。
なので、岸田くんにこの事を伝えた時の感情としては恋人にコスプレを頼むようなものに近かったと思って頂きたい。断られて同然。引かれて同然だと思っていた。
なので、岸田くんが「困る」と言った時はさほどショックではなかった。そうだろうなと思うしかない。なにせ小指をトンカチで潰すのを許すのはなかなかに困難なことだ。
「変なこと言ってごめん」
とわたしは言う。
「いいよいいよー」と岸田くんは"本当に許しているよ"とわかる音程と声色で返事をしてくれる。優しい。岸田くんは優しい。わたしにはもったいないほどの人だ。でも小指は潰したい。困ったものだ。
今日は岸田くんが晩御飯を作る番で、クリームシチューだった。シチューでお腹を満たしたわたしは座椅子に座りながらスマホをいじっている。キッチンでは岸田くんが洗い物をしている。
「今日ね」岸田くんが話しかけてくる。
「うん」
「会社で、同期と昼食べてたら、彼女の趣味をどこまで許容できるって話になって」
「うん」
「俺は正直どこまでも許容できるんだけども、意外とみんなあれもダメ、これもダメって言って」
「そうなの?」
「うん。たまに話す中山っているじゃん。中山とか、彼女がBL読んでるだけで嫌だって」
「へー」わたしはこの話がどこへ向かうのかがわからずに内心怯えている。岸田くんの声色はいつもと同じ穏やかさを保っている。
「そん時は昼飯だったからそんな踏み込んだ話はしなかったけども、人付き合いって結局、相手のわからなさを許容するってことじゃん」
「うん」
「お互いのわかっているものから交換しあって、最終的にわからない部分をわかろうとしたり、許容したり。なんていうか、そこにこそ、人付き合いというか、もっと付き合うって意味があると思ってて」
「うん」
「だから、霜村さんが俺の指を潰したいって言った時は、最初わかんなすぎて本当に嫌だったの」
「あー、ごめん」
「ちがうちがう。あの、でもね、わかんないからって許容しないのもなんか違うかもなって思ってきて」
え?
「小指だけでいいんだよね?」
「あ、うん」
「潰してみる?そのトンカチで」
提案しておいてなんだけども、どんだけ優しいんだこの人は。
家にあったありったけの氷袋と保冷剤をかき集める。それから救急箱。そして医療機関に電話するためのスマートフォン。これらをテーブルに並べる。小指を潰したら即座に応急処置、そして医者を呼ぶ。わたしたちはこの手順を何度も口に出して繰り返す。
「我々は殺し合いをしているわけじゃない。わかってください」
と岸田くんが変にモノマネがかった口調でそう言う。
「あ、藤波辰爾の名言」
へー。と思う。藤波辰爾が誰なのかもわかってないけども、わたしたちは殺し合いをするわけではない。わかってください。
テーブルに岸田くんの左手を置く。右手を傷つけると利き手であるため生活が余計に不便になるとのことで左手を選択した。
わたしはトンカチを持って小指への軌道を何度も確認する。
「このトンカチって、何のために買ったんだろうって思ってたけども、このためだったんだね」と椅子に座ってテーブルに腕をべったりさせた岸田くんが上目遣いで話しかけてくる。Amazonで500円のトンカチ。
値段の割に手によく馴染む気がする。
わたしは深呼吸をする。
岸田くんも深呼吸をする。
「やる時は躊躇いなくいってね。多分半端にする方がやばいと思うし」
わたしは頷く。
トンカチを岸田くんの左手の小指に軽く当ててわたしは振り上げる。
「あー!待って!待って!」
と岸田くんは叫んで、わたしはぴたって体を止める。
「痛くて、舌噛んだらやばいなって思って」
と言って、岸田くんはハンドタオルを持ってきて、自分の口に突っ込む。
そしてさっきと同じ体勢になって「ひゃあふがふがふが」という。
わたしはその光景の異常さに気色悪さと高揚感を覚えながらもう一度、小指にトンカチを触れさせる。
岸田くんの左手。
初めて握った時はどきどきしたなとか、この人の大きな手がわたしは好きだなとか色々思い出す。
安心感のある大きさなのだ。
あー、だから潰したいんだなーと納得をする。
誰でもいいわけじゃない。岸田くんの小指だからいいんだ。
岸田くんは必死に目を瞑ってる。そんなに優しすぎると身を潰すよ、と思う。
わたしは息を吸い込んで小指を見据えてトンカチを振り上げて、振り下ろす。
「はい、ちょっと間違って手に振り下ろしてしまったみたいで。はい。すいません。よろしくお願いします」
とわたしは頭を下げながら救急車を頼む。
目の前では痛みで歯をカチカチ鳴らす岸田くんの姿がある。
わたしは電話を切ると、岸田くんにロキソニンを飲ませてあげる。
痛みは途切れないだろうけども、少しは減るんじゃないだろうか。
それから、わたしは岸田くんの側にいる。
岸田くんは右手にタオルで包んだ保冷剤を持っていてそれを左小指に当てている。タオルは赤く染まっている。
「ごめんね」とわたしは本当に謝る。
「いいよ、いいよ」と息を荒くしながら岸田くんは答える。
「後悔してない?」
「してないって言ったら嘘になる」
「やっぱり」
「うん。でも、全然、怒ってない。本当に」
と岸田くんは本当に怒ってない音程と声色で返事をしてくれる。
わたしはそれが嬉しくて泣きそうになる。
トンカチを小指に振り下ろした瞬間、視界が歪むほどの多幸感が襲った。心の底から生まれてよかったって思えるような多幸感。でも痛みに悶え苦しむ岸田くんの姿を見て心から後悔した。小指は潰れてしまっていて血がだらだら溢れているし爪は潰れてしまった。多分骨を折れているだろう。治るまでどれくらいかかるだろう。小指を潰したいって願いは叶ってよかった。けども、ダメージを受けた岸田くんを見るのは本当に心から辛い。
遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてくる。
「本当にごめんね」
ともう一度謝って、岸田くんの肩に頭を寄せる。そしたら岸田くんも頭を寄せてくれてわたしは許されたような気になる。なので「ありがとう」って言う。
「ならよかった」
わたしは涙を少しだけ流す。もうすぐ救急車が到着する。わかってくれるだろうか。喧嘩だとか思われたらどうしよう。その時、岸田くんのものまねを思い出す。
我々は殺し合いをしているわけではない。それだけはわかってください。