ゼロ・ダーク・サーティ見てきました。
戦争、アメリカ!
見て来ましたよ、ゼロ・ダーク・サーティ。キャサリン・ビグロー監督作品だと前作「ハート・ロッカー」を劇場で、その後に「ハートブルー」をDVDで見ました。
この2作品でキャサリン・ビグローさんの作家性なんてものは語れないですけども、共通するものは何かなと考えた時に「BLっぽさ」と「ハードでソリッドなアクション描写」だと思いました。
「BLっぽさ」ですけども「ハートブルー」は言わずもがな、「ハート・ロッカー」はジェレミー・レナーの宿舎で肉体言語で語り合うシーンにみっちり入っていましたね。
この「BLっぽさ」はどういった部分に感じてしまうのか。それは他のキャサリン・ビグロー監督作品をあらかた見てみて、もし余裕があれば考えてみたいと思います。
なんだって今回のゼロ・ダーク・サーティにはBLっぽさはなかったですからね。
前作「ハート・ロッカー」を見た時は少し戸惑いました。僕はこの作品をイラク戦争を舞台にしたアクション映画だと思って見に行ったのです(今もまだまだですが、当時は今よりもっと映画的な読解力がなかった頃)スナイパー同士の戦いや爆弾処理のサスペンス、今思えばアクション描写もそれなりにあったのですが、それよりも印象に残ったのは主人公の取り憑かれるように爆弾処理に挑む姿でした。そこに狂気を感じた…なんて安く言ってしまうと軽くなってしまうのですが、延々と続く地獄めぐりのような映画体験に僕はふらふらになり、辛うじてだせた感想がそれだったのです。
ゼロ・ダーク・サーティはそんな「ハート・ロッカー」がアクション大作に思えるほどよりハードに、余分な肉を落としこんだ作品になっていました。
160分。これがこの映画の上映時間。しかしその体感時間は下手すると90分も行かないかもしれない。
はっきり言ってわかりやすい勧善懲悪などこの映画にはない。町山智浩氏が「アルゴがライト級に見える」と言い放ったのもわかるほど、この作品は徹底して通常映画が提供するような娯楽性やカタルシスを避けているかのように思える。
160分、私たち観客が見るのは徹底した取材がもたらしたであろうリアリティに溢れた911以降のハート・ロッカーが描写したのとはまた異なるもう一つのテロとの戦いである。
そこに映し出されるのは拷問、そして繰り返されるテロ、テロ、テロ。
延々と続くキリキリと胃を蝕んでいくような緊張感。その中で主人公は針山の中に落ちているピンを見つけるような気の遠くなるような作業の果てに一筋の証拠を見つける。そこから映画は誰もが知っているオサマ・ビン・ラディン暗殺という結末へ進んでいく。
このオサマ・ビン・ラディン暗殺のシーンはゲームを多少親しんでいるものならコール・オブ・デューティを思い出すのではないのだろうか。
緑色に光る暗視ゴーグル、その中で飛びかう無数のレーザー。突入に使われる爆弾。まさにコール・オブ・デューティで見たそればかりである。この辺のシーンはコール・オブ・デューティをやったことがある人ならぜひ見るべき場所であるといえる。コール・オブ・デューティ映画として5億点である。
だがその一方で、印象深く残ったのが銃声と排莢音の重さである。
乾いた銃声と、重みのある排莢音が響いた後に転がる死体、そして泣き叫ぶ子どもたちの姿。
そこにカタルシスは無い。
160分間に凝縮されたビン・ラディン暗殺までのプロセスから浮かび上がってくるのは、アメリカにとって恐ろしく泥沼な戦いを行った10年だったということである。
この映画のことをアメリカのプロパガンダだという見方をするものもいるそうだが、私にはそうは思えなかった。
むしろこの映画はアメリカを突き放してさえいる。最後の台詞がそれを物語っている。
”Where do you want to go?”。
今生きている世界を理解するためにも良いテキストになる映画だと思います。
傑作。オススメ。