にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

『ぼくのお日さま』を見ました。

『ぼくのお日さま』を見ました。(ネタバレあり感想)

見終わって、映画館のロビーのソファーにへたり込んでしまった。
なんていうか、関西の言い方すると「なんかもう、たまらへん気持ちになったわ……」ってなっちゃって、もう10分くらいへたり込んでいた。
そのたまらない気持ちってのはポジティブともネガティブとも違う。
言葉にならない気持ちだった。
そう、言葉にならない気持ちだった。

吃音を持ったタクヤフィギュアスケートに出会ってから、荒川先生の指導の元、フィギュアスケートをどんどん習得していく前半があまりに素晴らしくて、ぼろぼろ泣いていた。
スケート場に差し込む光。荒川先生の指導とそれに呼応するタクヤ
ちょっとずつ上手くなっていくタクヤ。それに喜ぶ荒川先生。
荒川が操縦する整氷車の周辺をくるくる回るタクヤの可愛らしさったら!
荒川先生とタクヤカップラーメンを食べるシーンも「こんなん忘れられへんご飯やん!」ってなったし。
なにより、タクヤが好きかもしれないってものに出会って、どんどん本当に好きになっていく過程に本当いいなー!ってなってしまった。
そのきらめきに涙が止まらなかったし、ここで映画が終わったらいいなとも思った。
けれども映画は終わらない。まだ30分くらいだし。

荒川先生はさくらっていうもともとフィギュアスケートを教えていた生徒がいて、タクヤとさくらでペアでアイスダンスをすることを提案する。
さくらはあんまり乗り気ではないんだけども、練習していくうちに段々三人の仲が良くなっていく。
その過程もまた美しくてね……。
光の中で練習する三人。
凍った湖で遊ぶ三人。
カップラーメンをすする三人。
「もうこんなん、忘れられへん瞬間ばっかりやんか!!」って思っちゃうのよ。人生って美しい~!ってめっちゃ思っちゃった。

でもさ、幸せであればあるほど、それが続かないことへの恐怖を感じちゃうけども、この映画もしかりで「ここで、こんだけ幸せってことはあとはもう……」と怖くなって実際このあと、辛いことが起きてしまう。


荒川先生は同性愛者で、男性の恋人がいる。二人でいるところをさくらに見られる。
さくらは荒川先生にすこし恋心を抱いていた。
だからこそ、恋人がいたことにも傷つく。けれども、多分それが同性であったことを受け入れないでいる。
辛い言い方になっちゃうんだけども、さくらは荒川先生に同性愛嫌悪を抱いてしまう。

この映画の辛い気持ちになるところは、このさくらの同性愛嫌悪から始まる荒川先生が失っていく過程(多分、荒川先生には"また"なのだろう)に対して一種の解決や落とし前がつけられない点だ。
さくらの同性愛嫌悪が咎められることはないし、荒川先生はすべてを失ってまたどこか別の土地へ行く。
ペアダンスをすることもなくなったし、タクヤフィギュアスケートを失う。


多分、この映画内時間は2010年以前なのだと思う。(荒川先生のカレンダーやガラケー等の小道具から)
それゆえ余計に荒川先生に救済がないのかもと思ってしまった。
まだまだだけども、それでも15年前はもっと同性愛への理解がなかった時代だろう。
だからさくらへの目線に、平気で親は同調してしまったのだろう。
勿論、今もそんな人は平気でいるだろう。けれども、なんていうか、もしかしたら荒川先生はここまで……ってことも思った。
荒川先生がタクヤの体を触って教えているのをさくらが嫌悪的に見るシーンは橋口亮輔監督の『恋人たち』(2015)でゲイの弁護士が、友人の子供の腕を何気なく触るのを、その友人の妻が嫌悪感たっぷりに見るシーンを思い出してしまった。
だからこの映画は橋口亮輔監督にコメントを頼んでいたのだなとも思った。
この映画はその荒川先生の「痛み」を描く。
そしてそれはずっと痛いままだ。


少しだけその痛みに和らげるものがあるとすれば、最後のタクヤと荒川先生のキャッチボールのシーンだろう。
荒川先生は最初は「貸すだけだからな」と言っていたスケートシューズを「あげるよ」と言う。
その会話はタクヤを少しだけまたフィギュアに進ませるかもしれない。
予感はある。
スケートシューズを持って、タクヤが歩いている。
その向かいからさくらが歩いてくる。
このシーンの直前、さくらがスケート場で滑るシーンがある。
正直、荒川先生のこともあったので、さくら…お前何をやったかわかってるのか……って気持ちで見ていたんだけども、それでもその滑りが美しいのよね。
そこでまた複雑な気持ちになって。
なんていうか「誰か」を徹底的に傷つけた人も美しい何かを生み出すことはあるって事に戸惑ってしまった。
けれどもそれはあるじゃん。というかそういうことばっかじゃん。
だから、悔しいけどもすっごくきれいな滑りだった。それに感動していた。

そのさくらが真向かいから歩いてくる。
タクヤはなにかを言おうとする。
その瞬間、風が強くなって、暗転。
最後、彼は何を言ったのだろう?
何を伝えたかったのだろう?
それはわからない。
けれどもエンドクレジットで流れるハンバートハンバートの「ぼくのお日さま」が流れる。
「こみあげる気持ちでぼくの胸はもうつぶれそう」
本当のラストシーンはこの音楽だと思った。


個人的にはラストの先を考えさせるタイプの作品はそれほど得意じゃないというか「スパッと言うてくれや!!」って気持ちになっちゃんだけども、それでもこの映画はラストの先を考えてしまう。
タクヤはさくらに何を言ったのだろう。
当たり障りのない言葉なのか。
沢山のヘイトなのか。
愛情なのか。
本当にわからない。
どれもありそうだと思う。

そもそもタクヤはさくらのことをどう思っていたのだろう。
タクヤはさくらのフィギュアに見とれていたし、荒川先生は「まっすぐ恋をしていた」と解釈したんだけども、私はタクヤがさくらのことを凄く好きだったとはなんだか思えない。
タクヤはさくらの"フィギュアスケート"に恋をしていたんじゃないだろうか。
それから始まってフィギュアスケートそのものに恋をしていたんじゃないだろうか。
私はそんなことを思ってしまう。
ペアダンスにさくらが来なかった時、タクヤは「自分」が嫌われたというよりは「自分とフィギュアスケートをやること」が本当は嫌だったと思って悲しくなったのだと思う。
タクヤフィギュアスケートを好きになった。
けれども荒川先生はそんなタクヤを見て、さくらのことが好きになったと思った。
もしかしたらそこからズレがあったのかもしれない。
それを言うとさくらが荒川先生のことを好きだって思った気持ちもなんだけども。

でもそういうものかもしれない。
人は勝手になにかを好きになって、勝手にずれて、勝手にそのズレに絶望したり傷ついたりする。
嫌になるけどもそういうものかもしれない。
勿論ね、そこにホモフォビアがくっつくのとか良くないんだけども、その根本としてずれ合って傷つけ合うってあるじゃないですか。
なんかさ、そういう辛さも凄くあったのよね。

だからこの映画の劇場マナー映像があるんだけども、それはとても切ない。まるでそれはあったかもしれないもう一つの世界のようで。

youtu.be
(それはそうと、このマナー映像のタクヤは少し大きくなっているし、声変わりもしている。子供はすぐに大きくなるなあ)


にしても奇跡のような映画だと思った。
フィギュアスケートができる子役がまず見つかったこと。
半年のトレーニングで元プロのように見える動きができる池松壮亮がいたこと。
監督がフィギュアスケート経験者で、滑りながら撮影ができたこと。
スケート場のあの光を映像に収められたこと。*1
あの湖のロケーションを見つけることができたこと。
そして季節の移ろいを記録できたこと。
どれ一つ欠けてもこの映画はこの映画にならなかったのだと思う。
だから本当に奇跡のような映画だと思った。
その奇跡に触れられていた。だから私は凄く泣いたのだと思う。


だから余計にその痛みが苦しい。
これがその幸せな瞬間だけを敷き詰めた映画だったらどれだけ良かったかを思う。
けれども「痛み」こそ描きたかったものなのだと思う。
「痛み」を見るのも感じるのも嫌だとは思う。
できることなら触れたくない。
けれども「痛み」について考えてしまう。
それを見てしまったから。それを感じてしまったから。
そのこと「痛み」について考えれば考えるほど言葉にならない。
ただ胸に気持ちがこみがって苦しいくらい広がっていく。

ハンバートハンバートの「ぼくのお日さま」の最後はこう歌われる。

泣きたきゃ泣けばいいさ
そう歌がぼくに言う


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*1:松崎健夫さんの評論によると「“スケートリンクに射し込む陽光”が映像の中で際立っているのは、撮影現場で薄くスモークを焚いた賜物なのだ」とのこと。 eiga.com

『LIVE STAGEぼっち・ざ・ろっく!PART2 秀華祭』を配信で見ました。

『LIVE STAGEぼっち・ざ・ろっく!PART2 秀華祭』を配信で見ました。


いわゆる舞台版『ぼっち・ざ・ろっく!』のその続編です。
作・演出は悪い芝居の山崎彬さん。
昨年上演されたPART1がアニメ版の1話~8話を舞台化したものでしたが、今回のPART2は9話~12話までの舞台化になります。
(先日公開されたアニメ版『ぼっち・ざ・ろっく!』の劇場総集編『ぼっち・ざ・ろっく!Re:』もそういう配分でわけられていましたね。)
PART2は9話~12話の舞台化。アニメ見た人に伝えると、つまりは江の島に行ったり、SICK HACKのライブを見たり、文化祭でライブをする、あのらへんの舞台化になります。
PART1が後藤ひとりが結束バンドに入ることになって、バイトを初めて、逃げたギターを見つけて、オーディションライブを勝ち上がって、ぼっちちゃんの家に一回集まって、チケットを路上ライブして手売りをして、そして台風の中でライブをする……というのに比べたらやっぱりやってることが少ない。
というわけでPART2はどうなるんだろうと…半ば戦々恐々としながら見ることになりました。
結果から言えば、よりカオスに!でもよりライブに!なった舞台版『ぼっち・ざ・ろっく!』だと思いました。



アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』が演出の手数が多いアニメだったことをうけてなのか、舞台版ぼっち・ざ・ろっく!も異常なほどの手数の多さで見せていきます。
印象的なのは"ぼっちーず"というぼっちちゃんのイマジナリーフレンドを具現化した存在です。
ぼっちちゃんと同じ格好をした人々がぼっちちゃんの周辺で蠢き、慌て、踊る!
舞台版ぼっち・ざ・ろっく!であまりに普通の顔をして出てきたことで、忘れがちになっていましたが、これこそ舞台版『ぼっち・ざ・ろっく!』の発明だし、むしろ原作・アニメ版でこれなかったんだっけ!となるほど、良い演出です。
PART2でもぼっちーずは相変わらず「え、原作・アニメ版でもいましたよね」な平然とした顔でうごめき、慌て、踊り狂い、舞台の転換を手伝ったりしていて良かったです。
個人的にはこのぼっちーずが後々のシーンで出てくるんじゃないか……と思っていたのですが、その予想は覆されるのでした。
それはさておき、PART2はオープニングが凄まじいです!
前回のあらすじ!をなんとミュージカルで表現。喜多郁代役の大森未来衣さんがミュージカル俳優であることを活かした歌いっぷりにめちゃくちゃ笑ってしまいました。
そんで大森未来衣さんの歌の上手さを活かしたミュージカルシーンが本編に多分三つくらい入っていた。それを見ながら、なんていうか、上手いって面白いなって思いました。
(ぼっち・ざ・ろっく!とは関係ないですけども、『有吉の壁』でU字工事が突然上手いバイオリンを弾いたときの面白さとか、高田ぽる子のリコーダーのネタを思い出しました。上手いって面白い)


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その後は、ドリフ大爆笑のオープニング再現もあったりでオープニングから多幸感がすごい。(逆転現象ですけどもサカナクションの『新宝島』的な高揚感がありましたね。いや本当逆転現象なんですけども)
続く、江の島編は、夏休み誰とも遊べず病んでしまったぼっちちゃんを江の島に連れて行って思い出を作ろうとする回。
アニメでもかなりの特殊回でもありましたが、それを完全再現……どころか上回ろうとする勢いで凄まじい手数の多さの演出が繰り広げられる!
電車での移動も再現されるし、パリピも登場するし、ペラペラになったぼっちも再現されるし、江の島エスカーに乗る四人はいるし、いわゆるドラゴンボールヤムチャ状態になるぼっちちゃんもわざわざ物を作って再現するといういい意味の無駄っぷり。


これを再現している。わざわざ物を作って。


無駄をわざわざやる演出はいくところまで行き、後半の文化祭パートでは演者が着替えるための「時間稼ぎにダンスシーン」があったりする。
「時間稼ぎだよ~」と歌い踊る時間は、本当いい意味で「なんだこの時間は……」となるし、楽しい。
こんな感じで舞台の制約と自由さで遊び回るような演出の数々があるわけですが、その果てにある胸に残る感情は「ぼっち・ざ・ろっく!」を見たな~という気持ちでした。
なんでなんでしょうね。
多分、それは、どれだけ遊んでいても核の部分には手を加えていないこと、もしくは観客が共通認識として持っている『ぼっち・ざ・ろっく!』の好きな部分を壊していないし、むしろその部分を強くしているからだと思いました。
中盤にはSICK HACKの『ワタシダケユウレイ』のフル尺ライブがあってそれがまた良いのよ~。
サイケデリックでテクニカルな演奏がとても心地よくSICK HACKのライブもっと見たいぞ!とめっちゃ思った。
そんでSICK HACKもっと新曲出してよ!って気分になったりしました。
SICK HACKのEP出してよ!公式さんお願いしますよ!(余談だけども、廣井きくり役の月川玲さん、演技も演奏もめちゃくちゃ廣井きくりだったのに、カーテンコールの口調が大人しめで、それがシラフのときの廣井きくりのようで会場がざわついていました)

そしてクライマックス。文化祭ライブで原作ではぼっちちゃんのギターの弦が切れて喜多ちゃんがバッキングソロをやってぼっちちゃんがボトルネック奏法をするというあの展開があるわけですが、それをなんとやりきったのです!
ギターの弦を切るっての、どうやるんだ……と見る前は思っていて、多分ぼっちーずみたいな黒子を使うんだろうな、もしくはストップモーション演出とかするんだろうな……と思っていたらライブのオンタイムで弦が切れて、バッキングソロをやって、ボトルネック奏法をするっていう、もう綱渡りな展開にものすごく興奮した……というか強く感動してボロボロ泣いてしまいました。
気分はゴールデンカムイのやりやがった!の1コマ(ゴールデンカムイ知らなすぎて、このコマしかしらない)


とはいえ、それでもPART1の名もなきぼっちちゃんが文字通り「ぼっち・ざ・ろっく!」を見せる物語展開と比べると物足りないところもあるなーと思っていましたし、なにより私はアニメ版『ぼっち・ざ・ろっく!』の最終話がとても好きなのです。
あのラストの余韻ったら。アジアン・カンフー・ジェネレーションの『転がる岩、君に朝が降る』の後藤ひとりカバー版が流れる中、ぼっちちゃんがとぼとぼと朝の通学路を歩く中「今日もバイトかー」とつぶやく、その余韻。
少しだけどもぼっちちゃんの世界が変わったことを示すその余韻にかなりやられたのも事実。
正直、その余韻はなくて、やっぱりそれは難しいか~と思っていたら、最後の最後に結束バンドによるミニライブが。
ミニライブでは計4曲演奏されましたが、その3曲目、そこで演奏されたのがぼっちちゃん歌唱、つまり守乃まも歌唱による『転がる岩、君に朝が降る』でした。


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転がる岩、君に朝が降る』は2008年にアジアン・カンフー・ジェネレーションが発表した曲です。
それが時を経て前述の通り『ぼっち・ざ・ろっく!』の12話エンディング曲になりました。
原作者はまじあき先生がぼっちちゃんがアジカンを歌うならこの曲だろうと提案し、カバーされた楽曲だったそうです。
それが、周り回って舞台版ぼっちちゃん役の守乃まもが歌っている。
守乃まもの歌は正直よれていて、不安定なところも沢山ありました。
けれども、とても良かったのです。


にしても守乃まもとは一体なんなのでしょうか。
昨年の舞台版『ぼっち・ざ・ろっく!』で現れて、そしてまた表舞台に出なくなり、突然曲を配信したかと思えば、主催ライブを一回やって、そしてまた出なくなり、また今回の舞台で復活。
全くどういう人なのかわかりませんが、カーテンコールや関連番組を見る限り、相当変な人っぽいってことしかわかりません。
よく言われるのは、こんなぼっちちゃんっぽい人どこから見つけてきたんだってことです。
いや、本当、そう思う。
全身ぼっちちゃんみたいな人をよく見つけたと思う。
けれども、舞台ぼっちは「守乃まも」でもあるのだと思う。
いや、物凄く暴論なんだし、こう書きながら、そうじゃないってことも勿論承知しております。
でも、舞台の中心核は守乃まもの存在感なんだと思う。
あまりにもぼっちちゃんすぎる守乃まもがうわ~~~と終始慌てている。
そんな守乃まもぼっちがライブではかっこいい演奏をする。
そこに『ぼっち・ざ・ろっく!』を感じるんじゃないんだろうか。
それがPART2で一番出ていたシーンこそ守乃まもぼっちが歌う『転がる岩、君に朝が降る』シーンだったんじゃないかなと思ったりしたのでした。
いや、暴論なんですけども。
そこまでの積み重ねであったり、結束バンド四人のアンサンブルであったり、積み重ねまくる演出の果てであったりするんだけどもギターヒーローやアニメ版12話の余韻を強く感じたのは守乃まもの『転がる岩、君に朝が降る』だったことを言いたかったのです。


にしても良い舞台でしたね。
本当面白かったです。
もう褒めたいところを言えばきりが無いくらいです。
舞台『ぼっち・ざ・ろっく!』ロスから山田リョウ役の小山内花凜さんの舞台振り返りインスタライブをちゃんと見たくらいです。
今回のブルーレイもぜひほしいですね。
また見直したいです。


そして守乃まもはまた冬眠に入ったようです。
寂しい!!
また活動してくれ~と思うのですが、守乃まもさんのことですし、なかなか表にはまた出ないんだろうな~と思ったりもします。
なんかその感じも何故かぼっちちゃんと思ってしまうのです。
その守乃まもの所作になぜか『ぼっち・ざ・ろっく!』を感じてしまうのです。

近況。

この1ヶ月半くらい病院ばかり通っていました。

緑内障の初期の初期だと言われたり、顔の右半分に帯状疱疹が出たり、右膝を痛めたりした。それにいつも通り精神科の受診も。

プラスで2年くらい見ないようにしていた皮膚の不調もそろそろ限界になってきました。

病院ばっかりだ。

これが34歳ってことなのでしょうか。

年上の人は34歳なんてまだ若いよと言うし、多分それは間違ってないんだろうけども、感覚として老いの入り口って感覚があります。

今回の不調がどっと押し寄せたことでその気持ちがより強くなったのです。

「飲み会でおじさんたちが健康の話ばかりしていて面白くなかったけども、年を取ったらその理由がわかった」みたいな体験あるあるを思い出してる。

私も不調を抱える側になったのでした。

でも、そもそも精神に不調をずっと抱えていたから、そういう意味ではショックはないかも。

ただ、肉体がぼろぼろになるのは、なんか精神のそれとは違って、死の気配を感じるから、あまり気持ちのいいものじゃないです。

いや、精神の不調も死の気配がないことはないのですが、肉体の不調って入れ物にヒビが入ってきて、怖い、みたいな感覚。

どうやら、だんだんとぼろぼろになっていくみたいです。

 

 

******

 

文学フリマ大阪12が終わって、1ヶ月経とうとしています。

なんかこの1ヶ月はふわふわしていた。

それまで気を張り詰めて、小説を書いたり、準備をしていたけども、終わってしまうとするするする〜と日常が過ぎていって「wow」って声を漏らしてる。

カレンダーを見返すと、就労移行に通ったり、資格の勉強したり、病院に行ったり、たまに映画や演劇を見たり、たまに友達と遊んだり、たまに飲み屋に行ったり…とこう書くと結構調子のいい生活をしていました。

なんかネガティブな方面で話を進めようとしてごめんなさい。

楽しい1ヶ月過ごしてました。

 

でも同時になんか物足りないなーって気持ちになってるのは小説を書いてないからだと思う。

発表していないのも含めるとこの半年で9本くらい小説を書きました。

めちゃくちゃ書いた。

去年が短編6本だったことを考えるとめちゃくちゃ書いています。

めちゃくちゃ書いたし、個人的に過去最長4万字中編『夕焼けパラレル団地城』って小説に2024年の自分みたいなのを全部詰め込んだ結果、もう完全に出涸らしのようになってしまいました。

本当、もう出涸らし。

全部出し切ったって感覚が強くあって、これを書きたい!!って強烈な衝動が今は全然ない。

なので改めてプロと呼ばれる人の異様さだったりその体力を思い知った次第です。

なので自分はプロになんてなれないなーと思ったのでした。

プロって凄いですね。

というわけでプロでもない私はとりあえず、今はインプットしましょうーと日々を生きています。

無理して書いて、書くの嫌になったら仕方ないですし。今はインプットの時期です。

とりあえず色々とまた吸収したい。

ここ最近、強く思っていたことはやっぱ読む量が少ないなーってことで、本は読んでいかなきゃなということです。

とりあえず書くたびにいろんな小説を読んでは、うひゃーと打ちのめされてる。

当たり前なんだけども、自分には書けない!と思うものばかり。

なんていうかノコギリで板を切るのも精一杯な人が明石海峡大橋を見て呆然としてる感じ。

巨大な建造物を前に、どこからどうやって作ったかさえも想像つかない感じ。

そんなのを世の中の小説を読んでは感じてます。

それと同時に、いろんな本を読んでいかなきゃいけないなとも思ってます。

興味のある分野に特化した本。

今回の『団地城』で言えば『ゴシック&ロリータ語辞典』って本に出会ってなかったら書けてなかった。

大雑把に言えば資料ってことになるんだろうけども、そういうくくり方というよりは、自分の興味関心を掻き立てるものを読んでいきたいです。

素直に書けば、自分の憧れてるもの、自分の好きなもの、好きになるもの、気になるものが書いてある本を読んでいきたいなと思うし、そういうのを読んでいかなきゃ小説は書けないなーと思うのです。

なので、自分の好きなものをどんどん深掘りしていきたいと思う。

とりあえず今、私が興味あるのは郊外と団地とショッピングモールです。

インフラに凄く興味がある。

インフラだけじゃなくてもいいんだけども、とりあえずあれこれ好きなものを増やしたり、今ある好きなものをまだまだ好きになれたらいいですね。

 

そんなことを言っていたら、来年の文学フリマ大阪はインテックス大阪での開催になるそうです。

出展ブースは1000を予定とのこと。

インテックス大阪

行くだけでも大変な場所だ!

1000ブースって、もう回るだけで大変そうですね。

今から色々と手にとってもらうにはどうしたら良いんだろう…とか思っちゃうけども、そんなのはさておいて、ちゃんとまた新作が書けたらいいな。

それまでの間、力をためて、また吐き出せたらいいですね。

 

それはそれとして、文章は書かなきゃ上手くならないとも聞いたので、どうしたもんかねとも思ってる。

映画の感想でも書いていこうかしら。

小説の文章とは違うけども、読みやすいものを目指してひたすら書いていく練習。

あと、何がその映画で好きだったとか引っかかったとか、そういうのを身体に蓄える練習。

そんなのをやっていきたいですね。

 

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とりあえず本棚に挿しっぱなしの積本も消化していきたい。

本だけは自分の為になるから無料みたいな思想があるからお金がないのに買ってしまう。

 

boothで小説を売り始めました。

こんにちは、両目洞窟人間です。

この度、文学フリマで頒布してきた小説をboothで販売し始めました。

ryoume.booth.pm


現在売っているのは下記のものになります。

・中編小説『夕焼けパラレル団地城』600円(コピー本。56ページ)

・短編小説集『両目猫舌通信 』Vol.4,Vol.6,Vol.7,Vol.8 400円(すべてコピー本、44ページ)


気になっていたけども、遠方のため文学フリマに来ることができなかったという方、もしよろしければぜひぜひです。

ただ手数料等の関係で文学フリマ頒布分よりも100円ほど高くなっています。
また今回、boothでの送付はboothあんしんパックというのを使っています。
これはあなたの個人情報も私の個人情報も一切交換することなく、匿名でやり取りすることが可能なシステムです。
ただ送料が370円かかります。ご了承ください。



今回の新作『夕焼けパラレル団地城』は当初電子書籍化を考えていたのですが、諸般の理由により断念しました。
また、4万字以上もあるので、普通にネットで公開しても読みづらいかもと思うので、当面は紙での販売のみになります。
電子書籍化断念も技術的な理由やわがまま的な理由ではないです!個人で乗り越えるには大変なことがあったので断念した次第です!

『夕焼けパラレル団地城』なのですが、個人的にはいいのが書けたかも……という気持ちはありますので、もしよろしければぜひぜひです……。


なにとぞよろしくお願いします。

ryoume.booth.pm

『きみの色』の感想

『きみの色』の感想。

 

 

以下はなんの推敲もせずに、ただ感情の赴くままに書き殴った感想です。

ただ映画を見て思ったことを忘れる前に書きたかった。

もしかしたらちゃんと書くかもしれないけども、それもしないかもしれない。

とにかくただ書きたかった。

この繊細な映画に向き合いたかった。

 

 

・あまりにも禁欲的な作品だとまずは思った。

・直前の予告、岡田麿里脚本の映画が、人間関係の軋轢をもう既に描きまくっていたのに対して『きみの色』は一切そういうものがない。

・あるとすれば「嘘をついている」という状況。

・一種のサスペンス的にもなるけども、そこすら盛り上げすぎない。

・こうすれば面白くなる!みたいな本が山ほどあるけども、そういう作品ではなく、ひたすらドラマを作らないようにしている。

・そういう葛藤だとか、わかりやすい成長だとか、そういうのを外れて、感受性豊かな女の子を中心として、少し傷ついた女の子と、友達のいない男の子がバンドを組む話だ。

・廃教会でバンドの練習をする。

・そのエピソードで思い出したのはアーケイド・ファイアのことだった。

・いつかのアルバムを制作する時(1stか2ndだった気がする)教会で製作をしたというのを聴いた。

・その音楽の記憶が接続して、廃教会でテルミンが鳴り響く(このシーンの細やかな動きの作画よ!)

・その時点でこの映画が目指す音楽が聴こえる。

・『けいおん!』とも『ぼっち・ざ・ろっく!』とも違う音楽。

・上手く説明できないけども、その音楽の香りがする。

・音楽の映画だった。

・改めて音楽ってのはなんだろうと思う。

・すごく恥ずかしいことを書くと、音楽は魔法なのだと思う。

・録音音楽が主流となって何十年。いまや、スマホで数タッチで、何万曲の音楽にアクセスできる。

・大好きな曲。大好きな曲はあるけども、そのアルバムは聞いたことないとか。

・生まれてない時代だけども、とにかくかっこいい曲。

・それを私はイヤホンを通して聴く。いつ、どこで、どれだけの苦労をして作られたかはわからない音楽。

・その音楽に私は高揚感を覚える。

・何にもない日々に彩りを与える。

・そんなことをアジカンも歌ってた気がする。

・大袈裟なことを言えば、私は、何にもない日々を音楽に救われてきたのだ。

・多分、製作陣も、何にもない日々を音楽に救われてきたんじゃないだろうか。

・それはクライマックスの高揚感につながる。

・音楽が鳴って、なんでもない日が祝祭になって、私たちは踊る。

・身体を社会的役割から解き放つ。

・音楽はその力がある。

 


・けれども、音楽が鳴っていないその瞬間、なんでもない日々でも、世界は決して色がないわけではない。

・世界は絶えず美しい。

・気がついていないだけで、世界は美しいものに満ちている。

・どれだけ、それを知らなくても、どれだけ傷ついていようと世界は美しいものに満ちている。

・それは私たちの身体の動き。

・はしゃぐ私たちの身体の動き。

・降り注ぐ光。その中を飛び回る虫の動き。

・世界は色に溢れている。

・トツ子は、色を見ることができる。むしろ世界を色で見ている。

・つまりは共感覚ということなんだろうけども、そこを強く掘り下げることはない。

・「共感覚」と定義づけることはなく、そのトツ子は、そう見えているとの距離感。

・青色に見える女の子がいる。

・きみちゃん。それはとても素敵な色で追いかけてしまう。

・どうしても目で追いかけてしまう人のことを思い出してしまう。

・もう34歳だから、そんなことも無くなっちゃったけども、10代のころはそんなことがとてもあった気がする。

・目で追いかけてしまう人。憧れというには恥ずかしいけども、その感情。

・けども憧れているその子は、その子で傷ついて疲れ果ててるかもしれない。

・行き場をなくして、たまたま家にあったギターを弾いてるかもしれない。

・その頃、離島から船に乗って塾に通ってる男の子はリサイクルショップで音楽の機材を買っている。

・男の子は音楽の打ち込みをしている。

・音楽が大好きだけども、それは一人だけの世界だ。

・作った音楽はパソコンのフォルダに沢山あるのかもしれない。

・けれども、SoundCloudにアップするのは勇気がないのかもしれない。

・それよりも誰かと音楽を作りたいと思ってるかもしれない。

・けれども友達もいないその男の子はどうしたら誰かとバンドを組むのかわからない。

・けども、いつだって世界を変えるのは、行動力のある子だ。

・憧れの子を探して、やっとことで古本屋にたどり着く。

・憧れの子とあわてて音楽の話なんかしたりしてさ。どうしたらいいかわかんないから、手元にあったものの話をして

・男の子はそれを聞いて、勇気を出して、話しかけて。

・行動力のある、感情で動きがちの子は、自分でも気がつかないうちにバンドを組みませんかと言ってしまう。

 


・バンド。

・バンドは10代、そして20代前半までしかできない。

・できないと言うと、あまりにも暴力的だけども、誰かと音楽をやり続けるのはとても難しい。

・共に有り余る時間があるからこそできることなのだと、今になったら思ったりする。

・バンドを初めて世界がまた変わり始める。

・オリジナル曲を作ろうと思う。

・どんな曲がいいだろう

・ふいにアイデアが降ってくる。

・それでまた世界が変わって見える。

・それは今でも私もわかる。小説のアイデアが降ってくる瞬間。そしてアイデア同士が繋がる瞬間、世界が変わる感覚がある。

・楽しくて歌って踊りたくなる。

・いつだってオリジナルを作るのは楽しい。オリジナルを生み出す瞬間の高揚感はなんとも言い難い。

・オリジナルなんてない、全ては何かの影響だ。エブリシングイズリミックスって言葉があるけども、それでも私はオリジナルを生み出す瞬間の高揚感を否定したくない。それでも生み出した瞬間は踊りだし歌いたくなるものだ。

・トツ子は歌って踊る。私はそれを羨ましいと思う。

・トツ子のような本当に屈託のない主人公に出会ったのはいつぶりなんだろう。

・影のない主人公。世界をありのまま受け止めれる女の子。

・トツ子ときみちゃんが、夜の寮で、二人ではしゃぐ瞬間、世界で一番美しい3コードが鳴り響く。

・Born Silppy NUXX

・アニメや邦画にありがちなそれっぽい曲じゃない。本当にその3コードだ。

・だから私は泣いている。その3コードでしか鳴らせない高揚感があるから。

・そしてそれは夜が楽しかった思い出と繋がるから。

・夜が楽しかったことを覚えてる?

・その夜が忘れてしまったことを悲しいと思う?

・遠くなった記憶の中で、楽しかった夜があったことを思い出す。それも私がバンドをやってた時の夜だったような気がする。

・友達の家で、バカみたいな量のフルーチェを作って、飲んだことないのにお酒を飲んで頭を痛くして、落語家のていでラジオを録って。

・いま、この瞬間まで、そんなことがあったのを忘れていた。

・楽しかった瞬間は確かにあったなんて思い出してる。

・いくつもの忘られない瞬間。

・雪が降りしきる夜、廃教会で喋り明かしたことのこと。

・私たちは心のうちを話し合う。

・子供の時に親に隠し事を伝えるのがどれだけ怖かったか、それも思い出してる。

・私はたくさんのことを思い出してる。

・たくさんのことを

 


・ライブが始まった瞬間、聞こえてくる16分のキック。

ニューオーダーのBlue Modayだ。

・そこから始まる80's ニューウェーブのような曲。

・荒いギター。ぶんぶん鳴るシンセ。

・私はぼろぼろと泣いてる。

・なんでかわからないけども泣いてる。

・それは90分近く寄り添ってきた、この三人が鳴らした音楽が、そうだったらいいなと思った音楽だったからかもしれない。

・三人なら鳴らすかもしれないと思った音楽が本当に鳴ったからかもしれない。

・その音楽の距離感に、製作陣の嘘のない音楽への距離感に泣いてしまったのかもしれない。

・二曲目の『あるく』も、オルガンとテルミンが印象的だ。

・00年代オルタナティブ、それこそアーケイド・ファイアシガーロスが全盛期だったあの頃を思い出させるその音像に私は本当にその音楽が鳴っているんだ!と思う。

・TOHOシネマズなんばで、東宝が配給している映画で、こんな音楽が鳴ってるのが幸せだと思う。

・それは、イヤホンで聴いてた音楽を誰かと共有している嬉しさだったのかもしれないし、映画館で大音量で聴くギターのハウリングの気持ちよさからだったかもしれない。

・そして『水金地火木土天アーメン』!!

・イントロから聴こえる『相対性理論』としか言いようのない、しかもTOWN AGE以降的な相対性理論な音楽に私はぼろぼろと泣いてる。

・ギターは永井聖一を呼んできてる時点で、製作陣はまじだ。

・今は作られていない相対性理論の新曲を作ろうとしている!!

・そして、それは物語から乖離していない。

・三人が鳴らそうとしている曲がまさに相対性理論が鳴らしていた奇妙な、けども弾けるポップ性と合致している。

・だから、私は嬉しくて、ぼろぼろと泣いていて、画面の中でも誰かが踊っていて、シスターも誰もいない廊下で身体を回転させる。

 


・けれども、この映画はその先がある。

・花園としか言いようのない場所でトツ子はバレエを踊る。

・断念したバレエを心から踊る。

・その音はいつかのテルミンで、いつかのギターだ。

・踊る。心から踊る。

・その瞬間、自分の色が見える。それは太陽の光に透けて見える。

・赤色だ。

・きみちゃんは青色。ルイくんは緑色。トツ子は赤色。

・ルイくんが離島を離れて、どこか遠くの大学に行く時、きみちゃんとトツ子は走る。

・そういえばきみちゃんはルイくんのこと好きだったのだろうか

・それもわからない。

・誰も彼も、恋愛関係にならなくたっていい。

・叶わない恋心があってもいいし、恋心に成り切る前の感情があったっていい。

・それがどうだかわからないけども、きみちゃんは叫んで「がんばれ」とさけんで、それに応えるように虹色のテープをルイくんは振る。

・その色とりどりのテープは飛んでいく。

・光の三原色は赤と青と緑で、その色が混ざる時、白が生まれる。

・色とりどりのテープが飛んでいった先には太陽の光が注ぎ、それは紛れもない白で表現されている。

 


・光は降り注ぐ。

・私たちに降り注ぐ。

・世界は光り輝いている。

・私たちは光り輝いている。

・光り輝く中で私たちは生きている

 

 

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