『ぼくのお日さま』を見ました。(ネタバレあり感想)
見終わって、映画館のロビーのソファーにへたり込んでしまった。
なんていうか、関西の言い方すると「なんかもう、たまらへん気持ちになったわ……」ってなっちゃって、もう10分くらいへたり込んでいた。
そのたまらない気持ちってのはポジティブともネガティブとも違う。
言葉にならない気持ちだった。
そう、言葉にならない気持ちだった。
吃音を持ったタクヤがフィギュアスケートに出会ってから、荒川先生の指導の元、フィギュアスケートをどんどん習得していく前半があまりに素晴らしくて、ぼろぼろ泣いていた。
スケート場に差し込む光。荒川先生の指導とそれに呼応するタクヤ。
ちょっとずつ上手くなっていくタクヤ。それに喜ぶ荒川先生。
荒川が操縦する整氷車の周辺をくるくる回るタクヤの可愛らしさったら!
荒川先生とタクヤがカップラーメンを食べるシーンも「こんなん忘れられへんご飯やん!」ってなったし。
なにより、タクヤが好きかもしれないってものに出会って、どんどん本当に好きになっていく過程に本当いいなー!ってなってしまった。
そのきらめきに涙が止まらなかったし、ここで映画が終わったらいいなとも思った。
けれども映画は終わらない。まだ30分くらいだし。
荒川先生はさくらっていうもともとフィギュアスケートを教えていた生徒がいて、タクヤとさくらでペアでアイスダンスをすることを提案する。
さくらはあんまり乗り気ではないんだけども、練習していくうちに段々三人の仲が良くなっていく。
その過程もまた美しくてね……。
光の中で練習する三人。
凍った湖で遊ぶ三人。
カップラーメンをすする三人。
「もうこんなん、忘れられへん瞬間ばっかりやんか!!」って思っちゃうのよ。人生って美しい~!ってめっちゃ思っちゃった。
でもさ、幸せであればあるほど、それが続かないことへの恐怖を感じちゃうけども、この映画もしかりで「ここで、こんだけ幸せってことはあとはもう……」と怖くなって実際このあと、辛いことが起きてしまう。
荒川先生は同性愛者で、男性の恋人がいる。二人でいるところをさくらに見られる。
さくらは荒川先生にすこし恋心を抱いていた。
だからこそ、恋人がいたことにも傷つく。けれども、多分それが同性であったことを受け入れないでいる。
辛い言い方になっちゃうんだけども、さくらは荒川先生に同性愛嫌悪を抱いてしまう。
この映画の辛い気持ちになるところは、このさくらの同性愛嫌悪から始まる荒川先生が失っていく過程(多分、荒川先生には"また"なのだろう)に対して一種の解決や落とし前がつけられない点だ。
さくらの同性愛嫌悪が咎められることはないし、荒川先生はすべてを失ってまたどこか別の土地へ行く。
ペアダンスをすることもなくなったし、タクヤはフィギュアスケートを失う。
多分、この映画内時間は2010年以前なのだと思う。(荒川先生のカレンダーやガラケー等の小道具から)
それゆえ余計に荒川先生に救済がないのかもと思ってしまった。
まだまだだけども、それでも15年前はもっと同性愛への理解がなかった時代だろう。
だからさくらへの目線に、平気で親は同調してしまったのだろう。
勿論、今もそんな人は平気でいるだろう。けれども、なんていうか、もしかしたら荒川先生はここまで……ってことも思った。
荒川先生がタクヤの体を触って教えているのをさくらが嫌悪的に見るシーンは橋口亮輔監督の『恋人たち』(2015)でゲイの弁護士が、友人の子供の腕を何気なく触るのを、その友人の妻が嫌悪感たっぷりに見るシーンを思い出してしまった。
だからこの映画は橋口亮輔監督にコメントを頼んでいたのだなとも思った。
この映画はその荒川先生の「痛み」を描く。
そしてそれはずっと痛いままだ。
少しだけその痛みに和らげるものがあるとすれば、最後のタクヤと荒川先生のキャッチボールのシーンだろう。
荒川先生は最初は「貸すだけだからな」と言っていたスケートシューズを「あげるよ」と言う。
その会話はタクヤを少しだけまたフィギュアに進ませるかもしれない。
予感はある。
スケートシューズを持って、タクヤが歩いている。
その向かいからさくらが歩いてくる。
このシーンの直前、さくらがスケート場で滑るシーンがある。
正直、荒川先生のこともあったので、さくら…お前何をやったかわかってるのか……って気持ちで見ていたんだけども、それでもその滑りが美しいのよね。
そこでまた複雑な気持ちになって。
なんていうか「誰か」を徹底的に傷つけた人も美しい何かを生み出すことはあるって事に戸惑ってしまった。
けれどもそれはあるじゃん。というかそういうことばっかじゃん。
だから、悔しいけどもすっごくきれいな滑りだった。それに感動していた。
そのさくらが真向かいから歩いてくる。
タクヤはなにかを言おうとする。
その瞬間、風が強くなって、暗転。
最後、彼は何を言ったのだろう?
何を伝えたかったのだろう?
それはわからない。
けれどもエンドクレジットで流れるハンバートハンバートの「ぼくのお日さま」が流れる。
「こみあげる気持ちでぼくの胸はもうつぶれそう」
本当のラストシーンはこの音楽だと思った。
個人的にはラストの先を考えさせるタイプの作品はそれほど得意じゃないというか「スパッと言うてくれや!!」って気持ちになっちゃんだけども、それでもこの映画はラストの先を考えてしまう。
タクヤはさくらに何を言ったのだろう。
当たり障りのない言葉なのか。
沢山のヘイトなのか。
愛情なのか。
本当にわからない。
どれもありそうだと思う。
そもそもタクヤはさくらのことをどう思っていたのだろう。
タクヤはさくらのフィギュアに見とれていたし、荒川先生は「まっすぐ恋をしていた」と解釈したんだけども、私はタクヤがさくらのことを凄く好きだったとはなんだか思えない。
タクヤはさくらの"フィギュアスケート"に恋をしていたんじゃないだろうか。
それから始まってフィギュアスケートそのものに恋をしていたんじゃないだろうか。
私はそんなことを思ってしまう。
ペアダンスにさくらが来なかった時、タクヤは「自分」が嫌われたというよりは「自分とフィギュアスケートをやること」が本当は嫌だったと思って悲しくなったのだと思う。
タクヤはフィギュアスケートを好きになった。
けれども荒川先生はそんなタクヤを見て、さくらのことが好きになったと思った。
もしかしたらそこからズレがあったのかもしれない。
それを言うとさくらが荒川先生のことを好きだって思った気持ちもなんだけども。
でもそういうものかもしれない。
人は勝手になにかを好きになって、勝手にずれて、勝手にそのズレに絶望したり傷ついたりする。
嫌になるけどもそういうものかもしれない。
勿論ね、そこにホモフォビアがくっつくのとか良くないんだけども、その根本としてずれ合って傷つけ合うってあるじゃないですか。
なんかさ、そういう辛さも凄くあったのよね。
だからこの映画の劇場マナー映像があるんだけども、それはとても切ない。まるでそれはあったかもしれないもう一つの世界のようで。
youtu.be
(それはそうと、このマナー映像のタクヤは少し大きくなっているし、声変わりもしている。子供はすぐに大きくなるなあ)
にしても奇跡のような映画だと思った。
フィギュアスケートができる子役がまず見つかったこと。
半年のトレーニングで元プロのように見える動きができる池松壮亮がいたこと。
監督がフィギュアスケート経験者で、滑りながら撮影ができたこと。
スケート場のあの光を映像に収められたこと。*1
あの湖のロケーションを見つけることができたこと。
そして季節の移ろいを記録できたこと。
どれ一つ欠けてもこの映画はこの映画にならなかったのだと思う。
だから本当に奇跡のような映画だと思った。
その奇跡に触れられていた。だから私は凄く泣いたのだと思う。
だから余計にその痛みが苦しい。
これがその幸せな瞬間だけを敷き詰めた映画だったらどれだけ良かったかを思う。
けれども「痛み」こそ描きたかったものなのだと思う。
「痛み」を見るのも感じるのも嫌だとは思う。
できることなら触れたくない。
けれども「痛み」について考えてしまう。
それを見てしまったから。それを感じてしまったから。
そのこと「痛み」について考えれば考えるほど言葉にならない。
ただ胸に気持ちがこみがって苦しいくらい広がっていく。
ハンバートハンバートの「ぼくのお日さま」の最後はこう歌われる。
泣きたきゃ泣けばいいさ
そう歌がぼくに言う