にゃんこのいけにえ

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一切合切太陽みたいに輝くーーー『フラニーとズーイ』を読んだ!

J.D.サリンジャーフラニーとズーイ

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映画評論家町山智浩さんの本でウェス・アンダーソンの『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』はこの小説が元になっていると読み、俄然興味がわき、本棚に刺しっぱなしだったこの本を抜き取って読み始めた。数年前に古本屋で買ったままそのままになっていたのだ。積ん読しておいてよかった。数年スパンで急に読むという周期がやってくることもあるのだ。まあ、それはそれとして、読み始めるとこれがとても面白い。数年スパンで寝かしていたのを後悔した。もっと早くに読んでおけばよかった。それこそ、20代前半に。

 この本は『フラニー』と『ズーイ』の二部構成になっている。フラニーとズーイは兄妹だ。フラニーは20歳大学生の女の子でズーイは25歳の俳優の男の子。フラニーのパートでは彼氏と久しぶりにあったフラニーのある失敗が描かれ、ズーイのパートではぼろぼろになったフラニーとズーイの対話がメインとなっている。

 さて読んでいる最中、思い出した本がある。舞城王太郎の『ビッチマグネット』だ。話が似ているというわけではない。しかし感受性が強すぎる女性が出てきて、その子は極度の混乱状態にあって、言ってはいけないとわかりつつ周囲の人をつい傷つけてしまう言動をとってしまう・・・。そのようなシーンが出てくるからか、いや精神性が近い物があるからか、私は感受性の近いところを揺さぶられている感覚におちいった。『ビッチマグネット』では病院にいった主人公がカウンセリング中に渡されるアンケートをめちゃくちゃにするシーンがある。「わたしはときどき悲しいし、ときどき悲しくない」。フラニーの一挙一動にその言葉が頭を過ぎった。そしてそんな混乱状態をもっと酷くして、より精神を嵐の中にぶん投げたみたいな女性がフラニーさんだ。

 他者よりも感受性が強く、そして周囲の欺瞞や薄っぺらさが「分かってしまう」が故にもう我慢ならない。そして何よりもそんな分かってしまう自分のことが嫌いで仕方ないという点に28歳男性は胸をつまらせた。私も「わかった」のだ。とりあえず28歳男性はフラニーさんのような言動を取るわけではないけども、この生きづらさには馴染みがあったのだ。

 ええ、説明をくどくどするよりも、私が読んだ瞬間に電撃が走った台詞を抜き出します。

 「私はただ、溢れまくってるエゴにうんざりしているだけ。私自身のエゴに、みんなのエゴに。どこかに到達したい、何か立派なことを成し遂げたい。興味深い人間になりたい、そんなことを考えている人々に、私は辟易しているの。」

 もうなんと素晴らしい台詞なんだろうか。1961年の作品なのに、右も左も意識が高いこの今の時代でも通用する台詞。誰もが承認欲求を満たすことに右往左往している(そしてそれは私も)状況に冷や水をぶっかける台詞。

 ライムスターの名曲H.E.E.Lで「きれい事にはケンカふっかける。美談にだって冷や水ぶっかける。誰も言わねえからぶっちゃける。お前のいらだちを救ってあげる」という名リリックがあったけども、それを思い出した。この言葉ことH.E.E.Lだよ!

 私自身、溢れまくっているエゴにうんざりしているし、肥大化していく私自身のエゴにもうんざりしている。こういうものから解放されたらどれだけ楽になれるだろうか。そんなことを思った。

 さて『フラニー』ではフラニーさんは彼氏との会話で絶えきれず色々なものに冷や水をぶっかけた挙げ句、精神のバランスを崩し、失神するところで終わる。

 


 続く『ズーイ』はぼろぼろになり実家で廃人同然になっているフラニーを兄ズーイが会話を交わすという内容だ。話は次第に議論めいてくる。フラニーさんは宗教に救いを求めている。そして始まるのは宗教論・・・ということで、ちょっと取っつきづらい部分があるのは確かだ。

 しかし、ここを!ここを!乗り越えて欲しいんだ!

 延々と続く議論の果てに、この世の全てが、輝く。

 そう。

 一切合切が太陽みたいに輝くのだ!

 イースタンユースというバンドの曲で「一切合切太陽みたいに輝く」という名曲があるけども、それを思い出してしまった。あらゆるものが、そのこの世の全てが輝くのだ。

 輝くってどういうことやねんってことですが、それは読んでのお楽しみということで。私はここで思わず泣いてしまった。。

 とかく私ももしくはあなたも厭世的な物の見方をしているかもしれない。他人のエゴに、自分のエゴに辟易しているかもしれない。なんなら私は未だ精神が不安定だし、ずっとフラニーの言葉にだいぶ共感して読んでいた。でもそれじゃダメなんだ。進まなければいけないんだ。部屋の真ん中で泣き続けていたらだめなんだ。もう一度世界を捉え治さないといけないんだ。

 その内に籠もった世界をぶっ壊して、再構築する。それも特別なことが起こるのではない。言葉で。交わされる言葉で。その言葉で書き換えていく。そのクライマックスはどうしようもなくエモーショナルだ。そしてそのクライマックスに打ち震える人は内にフラニーを抱えた人だ。さっきの台詞にどうしようもなくうなずいてしまった人ほど、読んで欲しい。

 色々と思い出すことが多い。例えば昔東京ポッド許可局で交わされた名回『オンリーワン論』で出てきた人々は皆「ワン・オブ・ゼム」であるということ。

 先日TBSラジオで放送された「SCRATCH」というドキュメンタリーで出てきた他者と一線を引くことに対する問題提起。

 昨年見た『勝手にふるえてろ』で自意識をこじらせたヨシカが最終的にたどり着く場所。 菊池成孔がラジオの中で病んだリスナーに向けて放った「あなたはとても一般的な人です」という言葉。

 まだまだ出てくるだろう。

 つまりは繰り返しになるがとても今日的な物語なのだ。

 強く強く、今なお響く今日的な小説だ。

 

 

 

 1961年に発表された小説であるが、今なお輝きを失うことのない青春小説の名作だ。

 私は20代前半に読んでいればと思ってしまった。

 しかし、今、フラニーと同様に精神がぼろぼろな今だからこそ、心にすっと入ってきたのかもしれない。

 そしてそれは全国に、全世界に今なおカウチで苦しみ続けるフラニーはいるはずなのだ。 そんな人に届けばいいなと思った。(名作だから届けばなんていうのはおこがましいかもしれないがそれでも)

 私は、フラニーが抱きかかえていたあの小さな本のように、この本を持って歩きたい。忘れそうな時、大事なことを忘れそうなとき、太ったおばさんのことを忘れてしまった時に、もう一度読みたい。

 

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)