にゃんこのいけにえ

映画と音楽と本を中心にいろいろと。

どてらねこのまち子さん『camera! camera! camera!』

どてらねこのまち子さん

f:id:gachahori:20180919234208j:image

"camera! camera! camera!"

 

 赤いペンキで塗られた三角形のランドマークを背にしてまち子さんは歩き始めました。まち子さんは猫です。でもどてらを着て、二本足で歩いて、言葉を喋る猫でした。まち子さんは不思議な猫でした。あんまり猫は喋りません。でもまち子さんは喋ります。そんなまち子さんの姿を見て驚く人も沢山いましたが、もう街の人は慣れっこでした。いわばドラえもんが街の中に溶け込んでいるあのコマを思い出して頂けたら、あなたの心にもすっと納得が訪れると思います。

 まち子さんがランドマークにやってきたのは仲良くしている岸本さんからカメラを貰ったからでした。岸本さんはまち子さんの一番の友人です。そんな岸本さんからカメラを貰ったのでした。理由は岸本さんが新しいカメラを買ったからでした。古いカメラをまち子さんに渡したのです。「まち子さん、これ、あげるよ」「うみゃみゃみゃみゃ!いいのですか!」「うんいいよ。これで街のいろんな風景を撮ると楽しいよ」「ありがとうございますです!」

 まち子さんはたまに言葉の使い方が変になりますが、それは猫なので仕方ないことでした。そんな部分も含めてみんなまち子さんが好きでした。

 まち子さんはカメラを片手に街をぶらぶら歩きました。まずは街で一番目立つ赤いペンキで塗られた三角形のランドマークを撮りにやってきました。ぱしゃぱしゃぱしゃ。まち子さんはカメラを構えて、何枚か撮ってみます。なかなか最初はうまくいきません。

「うみゃみゃみゃみゃ・・・」

 まち子さんは少し嘆きました。自分の思っているような写真になかなかなりません。自分が見えている風景と写真の間に隔たりがあるのです。その隔たりが何かまち子さんにはわかりませんでした。でも、まち子さんそれは当たり前の悩みなんだよ。みんなその目に見えている風景と写真の隔たりに悩むのだよ。そんな風なことを私、語り手は思いますがまち子さんには当然のように聞こえることはありません。

 まち子さんは三角形のランドマークを撮ることを諦めました。そしてぶらぶらと街を歩くことにしたのです。

 いろんな風景をカメラに収めていきます。ビルの窓。車。道路。木々。花。かしゃ。かしゃ。かしゃ。

 シャッターを切っていきます。何枚も切っていきます。でも、まち子さんはうまく撮れたという気持ちにはなりませんでした。何を撮ってもうまくいかないなあとまち子さんは思いました。

 「まち子さん」声をかけてきたのは岸本さんでした。

 「岸本さん」

 「どうですか。写真は」

 「うみゃく撮れません」まち子さんは猫なのでたまに舌っ足らずになります。

 「そうなのですか」

 「そうなのです」

 困った2人は近くのファミレスに入ることにしました。

 


 岸本さんはアイスコーヒーを飲みながらまち子さんの写真を見ていきます。

 「まち子さん。写真とてもいいですよ」

 「そうですか」

 褒められても、なんとなくまち子さんの顔は憂鬱げです。

 「どうしたのですか?」

 「私、自分が見ている景色をうまく切り取れている気がしないのです」

 「そうなのですか」

 「なんか、わからにゃいのですが・・・うまく・・・そう・・・うみゃみゃみゃみゃ・・・」

 まち子さんは言葉に詰まってしまいました。

 岸本さんはまち子さんにカメラを返すと、話し始めました。

 「スティーブン・キングって知ってますか?」

 「どこかの王様ですか?」

 「作家さんだよ」

 「そうなんですね」

 「その人が言ってたんだけども、書いて書いて書きまくれって言ってたんだよ」

 「そうなんですか」

 「だから、まち子さんも自分の写真が撮れるようになるまでに、撮って撮って撮りまくらなきゃいけないだと思う」

 「そうですか」

 「まち子さん。落ち込んでる場合じゃないよ。今も十分素敵な写真撮れてるよ。でも、自分が思っているものと違うんだったら、撮って撮って撮って自分と見えている世界の差を縮めなきゃいけないんだと私は思うよ。まあ、素人の意見だけどね」

岸本さんは自嘲的に笑ってアイスコーヒーを飲みました。まち子さんもつられてアイスコーヒーを飲みました。もうすぐ3時になろうとしていました。

 


 まち子さんと岸本さんはファミレスの前で別れました。まち子さんは岸本さんに深々とお辞儀をしました。まち子さんはまた街歩きの再開です。岸本さんのアドバイス通り、撮って撮って撮りまくりました。相変わらず被写体は目についたもの全てでした。ビル。カフェ。信号。道路。車。待ってる人。時折犬に吠えられたりしながらいろんなものを撮りました。

 すると喋らない黒猫がまち子さんの近くを横切りました。まち子さんはなんとなく気になって追いかけました。黒猫の背を追いかけます。一度写真をパシャリと撮りました。黒猫は一度だけ振り返ってまたずんずんと歩いて行きます。

 すると路地裏に来ていました。ビルとビルの影にある路地裏です。影のせいで一層冷え込んでいました。

 黒猫は路地裏の真ん中にある段ボールハウスで立ち止まりました。その中から人影が動きます。「おやおや、今日はお友達を連れてきたんだね」と人影は言いました。

 


 人影の正体は鈴木浩太朗。67歳になる男性です。彼は20年前まではある企業に勤めるサラリーマンでした。しかしそんな彼に襲いかかったのはリストラ。それでも再就職先を求めあちこちの企業を訪問しました。しかし50歳近くになる男を雇ってくれる会社などどこにもありませんでした。そんな頃でした。ある日、家に帰るのも疲れ果てて公園のベンチで眠りました。その次の日も、そしてその次の日も。そして気がついた頃には路上生活者になっていたのでした。鈴木は言います。「俺も、こんな風な人生を歩むと思っていなかった」と。鈴木は時折悔しそうに目に涙をにじませていました。そんな鈴木にとって友人でもありもはや唯一の家族であったのが、黒猫の裕太でした。裕太は実の子の名前から取りました。そしてその裕太とももう20年近く会っていません。「もう俺の顔も忘れてしまっただろうな」と鈴木は語ります。鈴木の一日は近くのファミレスの廃棄置き場を漁ることから始まります。近くのコンビニは廃棄を漁られないように鍵付きの倉庫に廃棄を捨てるようになりました。「俺達が廃棄を食べたところで何になるってんだ」と鈴木は語ります。そんな中ファミレスの廃棄置き場は鈴木にとっての生命線でした。飽食の時代においてファミレスで廃棄が出ないことは全くありません。そこで廃棄を拾い、廃棄を裕太と食べ、そして日長段ボールハウスで横になっていました。

 「出来ることならば、ここから脱出したい」そう鈴木は語ります。そんな中、鈴木に転機が訪れました。路上で雑誌の販売を行わないかという誘いでした。

 その雑誌を販売することで売り上げの一部が鈴木に入るというものでした。鈴木は最初はその話をいぶかしげに聞いていました。しかし、その話を持ちかけてきた男の熱意に負けました。そして雑誌を路上で売るようになりました。鈴木の姿を見て、遠ざかる人が大半でした。「そりゃそうだ。俺だって20年前は俺みたいな人間を遠ざけていた」と。しかし、ある日、雑誌が一冊売れました。ある女性が買ってくれたのでした。鈴木はその場で大泣きしました。社会からまだ鈴木は見捨てられて無かったのです。

 鈴木はそれからも雑誌を売り続けています。毎日、同じ場所。駅前で。次第に雑誌は売れるようになっていきました。そしてそうしていくうちに鈴木にも売り上げが入るようになりました。

 そして鈴木に大きな変化が訪れます。

 「今度、家族に会ってみようと思う」と。

 20年前、自分が見捨てた家族。同じ場所に住んでいる可能性は低いことは鈴木も知っていました。しかし、まだ住んでいるならば、一目会って、そして一言謝りたかったのです。鈴木にとってそれはわがままであることは知っていました。それでも、それでもまだ生きているうちに会いたかったのです。

 そしてある日曜日。鈴木は20年前住んでいた場所に行きました。すると鈴木は涙を流しました。まだ家族は住んでいたのです。そして鈴木の後ろから大きな声が聞こえました。

「父さん!」そう大人になった裕太の声でした。

 


 と、鈴木浩太朗は以上のような人生を後ほど送ることになりますが、今はまだ猫の裕太と暮らしている段階でした。「裕太とお友達にこれをあげようね」と鈴木はツナ缶を段ボールハウスから取り出しました。まち子さんは深々とお辞儀をしました。そしてツナ缶を裕太とわけました。

 


 まち子さんは本当は鈴木さんの写真を撮りたかったのですが、撮りませんでした。それは失礼になるとまち子さんは思ったのです。その瞬間、まち子さんは思いました。写真を撮ると言うことはある種暴力性をはらむということだと。まち子さんは鈴木さんと裕太にお礼を言ってその場を去りました。

 


 まち子さんはいよいよ写真がわからなくなってきました。撮るということは一体なんなのだろうか。私は一体何を撮りたくて、そして何を撮っちゃいけないんだろうか。

 わからないことだらけです。でもまち子さん。その疑問はとても正しいものです。

 写真を撮るということはその人の人生に一瞬でも介入するということ。そしてその人の人生を暴力的に切り取るということ。だからこそ恐ろしいもの。そして魅力的なもの。

 その疑問と向き合うことが写真を撮るということなのです。

 そうこうしているうちに陽はくれてきました。

 まち子さんは夕日を撮りました。夕日がいいなと思ったのです。でも、それもうまく撮れませんでした。まち子さんがいいなと思った夕日は、写真になってくれなかったのです。うみゃみゃみゃみゃみゃ・・・と嘆きました。そうしているうちに陽は沈みました。そして夜になりました。

 


 ベンチに座って今日撮った写真をまち子さんは見返しました。どれも思ったようには撮れなかった写真ばかりです。そして一番撮りたかったものが撮れなかった写真ばかりです。でもそれが私にはまち子さんそのものように思えました。私にはその不器用な写真がまち子さんのように思えました。うまく生きれないまち子さんのように思いました。私たちは行動に生き方が現れます。うまく生きることができなくても、それはその人自身なのです。まち子さんの写真にはまち子さんそのものが切り取られていました。

 


 まち子さんは帰り道、いつもの肉屋でコロッケを買いました。「はい、まち子さんどうぞ」「ありがとうございます」そう言って、まち子さんはコロッケを食べ始めました。できたてのコロッケは熱くて少しだけ口の中をやけどしてしまいました。

 ふと目の前には光が広がっていました。電灯の光。雑居ビルの窓から漏れ出る光。流れ走り去って行く電車の光。人々が手に持つスマホの光。

 まち子さんは気がついた時にはさっとカメラを構えてシャッターを押しました。

 その写真を見返すと、きらきらした世界が切り取られていました。それは露光ミスによるものだったのですが、まち子さんは初めて撮りたい写真が撮れた気がしました。

 まち子さんは歩きます。家に向かって歩きます。今日撮れた下手な写真のことと、撮れなかった人のことと、そして偶然撮れた一枚のことを思いながら歩きました。そして明日もカメラを手に歩こうと思いました。

 いつしかまち子さんの周りの世界はきらきらとしていました。

 まち子さんはコロッケをまた一囓りしました。やけどしたところが痛かったけどもそれ以上に美味しくてまち子さんは思わず笑顔になってしまいました。