ミッフィーの話がしたい。もしくはうさこちゃんの話。もしくはナインチェ・プラウスの話。全て同じ、あのうさぎのキャラクター。偉大な作家、ディック・ブルーナが想像したあの丸が二つとばつが一つで構成された顔を持つあのうさぎのキャラクターの話がしたい。
と言っても、あのキャラクターのことを分析するわけでも、ブルーナさんの功績を分析するわけでもない。これは私の1人語りだ。自分史ってやつだ。よく定年をすぎたサラリーマンが自分の人生に意味を見いだそうとしてやってしまう例のやつだ。
この自分史にタイトルを付けるならば「27歳男性とうさこちゃん」にしようと思う。私は、ミッフィーと呼ぶよりはうさこちゃんと呼ぶ方が好きだ。日本で販売されているあの絵本は二社の出版社から販売されている。講談社から出版されているものはあのキャラクターは「ミッフィー」と呼んでいて、福音館書店で出版されているものは「うさこちゃん」と呼ばれている。
ここは福音館版を訳した石井桃子さんに敬意を払ってうさこちゃんと呼びたい。
なぜなら私の家にあの絵本がやってきたとき、あのキャラクターは自らをうさこちゃんと名乗った。小さな子どもだった私と友達になったあの子の名前はうさこちゃんだったのだ。
私はとてもうさこちゃんが好きだった。絵本は何度も読み返したし、NHKで放映されていたアニメも見ていた。
「絵本の扉 開いてみましょ みんなで1,2,3。ページをめくり お話の国へ」
あのテーマ曲は今でも諳んじることができる。
家にはぬいぐるみもあった。
子どもだった私にとってうさこちゃんは大事な友達だったのだ。
じてんしゃにのって冒険をするうさこちゃん。
飛行機にのってはしゃぐうさこちゃん。
海に行くうさこちゃん。
どれもこれも自分の思い出のように覚えている。
いや、自分の思い出だ。あの頃、私は一緒にいたのだ。
私とうさこちゃんは一緒にじてんしゃにのって、飛行機に乗って、海へ行ったのだ。
うさこちゃんの水筒も持っていた。黄色い水筒。私はそれを持ち歩くのがとても大好きだった。夏の暑い日は母がその中に麦茶を詰めてくれて、私はうさこちゃんの水筒を持ってあちらこちらに行った。
夏のある日、花火大会に母と行った。帰りの近鉄電車の中で私はうさこちゃんの黄色い水筒を落としてしまった。
泣き叫んで泣き叫んだ。祖父が近鉄電車に問い合わせをしたが見つからなかった。結局戻ってこなかった。
それからしばらくして見かねた母があの黄色い水筒に似た水筒を私に買い与えてくれた。でも、勝手なことにあの水筒と同じような愛着を持つことができなかった。
そうしているうちに私は小学生になり、徐々に徐々に成長していった。子どもは勝手だ。私にとっての一番の友達は変わっていった。ポケモンになり、映画になり、プレステになり、そして本当の友達になっていった。
うさこちゃんはずっと家にいた。だからずっと見えていた。でも、見えていただけだった。
私は就職活動を2年やった。
何にもうまくいかない2年間だった。
その頃に友人と梅田に遊びに行ったときに、ミッフィーショップの存在に気がついた。
私とほぼ同じ背丈のうさこちゃんの像が挨拶をするように立っていた。
私はうさこちゃんの隣に並んで、友人に頼み写真を撮って貰った。 うさこちゃんと久しぶりにそのとき再会したのだった。
うまくいかなかった時期は唐突に終わって、就職が決まり、そしてあれよあれよのうちに東京に行くことになった。
そのころ24歳だった。
気がつけば私は「社会人」というものになっていて、これから会社の一員として働くことを、そして社会の一員として貢献することを期待される存在になっていた。そのことが自分の身の丈にあっていないぶかぶかなものに思えてとても居心地が悪かった。
そのとき、東京で「ミッフィー展」が開催されていることを知った。
私はその場所までの行き方を同期に聞いた。東京の地理なんて全くわからなかった。それでも、行ってみたかった。
そして仕事終わりにその「ミッフィー展」に私は入った。
様々なアーティストがリデザインを施したうさこちゃんにうさこちゃんの絵本の原画、そしてディック・ブルーナさんのドキュメンタリーが流れていた。
ディック・ブルーナさんのドキュメンタリーを見ながら、改めて私は元はディック・ブルーナさんの指先から生まれた絵だったことに気がついた。
そうだ絵なのだ。
でも、その瞬間まで、絵であることを忘れていた。
ミッフィー展の最後にはこれまで日本で発売されたうさこちゃんの絵本が全て置いてあった。「ご自由にお読みください」そう書かれた案内が目に入り、私は腰を下ろして読み始めた。
最初は「あー懐かしいな」と思いながら読み進めていた。
じてんしゃに乗って冒険するうさこちゃん。
飛行機に乗ってはしゃぐうさこちゃん。
海に行くうさこちゃん。
そのうちに、私は涙を流していた。それも一粒、二粒なんかじゃなかった。止めどなく涙があふれ出ていた。止めようとしても止まらなかった。涙を流しながらページをめくり、読み終わると新たな絵本を手に取り読み進めた。
気がつけば全てを読み終えていた。もう泣きすぎて目が痛くなっていた。
最初は確かに懐古的な気持ちになっていた。まるで思い出のアルバムをめくるような気分であった。
でも、懐古的な気持ちで泣いたのではない。
途中から私は圧倒されていたのだ。
ブルーナさんの世界を見つめる目の優しさに。絵本に込められた思いに。
うさこちゃんの絵本の特に初期の頃はなんてことない話が多い。
海に行く話、動物園に行く話。
うさこちゃんとふわふわさん(お父さんのこと。素晴らしい訳だと思う。)がでかける話だ。
うさこちゃんはとても楽しそうに話す。そしてふわふわさんは一見そっけなく返答をする。
1日、楽しく遊んで、うさこちゃんは最後寝てしまう。
そして絵本は終わってしまう。
ただそれだけだ。
大きなことは起こらない。突飛なことは起こらない。
人生のおいての小さな1日の話だ。
でも、そこに優しさが見えてしまった気がした。そしてたまらないほどの切なさも。
うさこちゃんとふわふわさんが過ごしたそのとても小さな1日は、一生覚えているような小さな1日で、そして人生においてもう二度と戻ってこない1日なのだ。
そしてその価値のことをうさこちゃんもふわふわさんも気がついてはいないのかもしれない。
でもブルーナさんだけは気がついている。
あの過ぎ去った日々の大切さに気がついている。そしてそれが戻ってこないことも。
子どもが大人になって、子どもを育てることになる。子どもはいつしか成長してまた大人になる。世界は回っていく。あと300万年くらいは生物史的には人類は絶滅しないらしいので、もしかしたら300万年はそうやって回っていくのかもしれない。
それが自然のことだ。
でも、それは大きな目線でだ。
私たちは1人1人は小さな人生を生きている。
「かけがえのない」なんていうけども、私たちの人生は一回きりで、訪れる瞬間も一度しかない。
二度と同じ瞬間は訪れない。
そのことをわかっている人の絵だった。そのことをわかっている人の作品だった。
人生が過ぎ去っていくものだと。悔いているわけではなく、そういうものだと。
絵本に刻まれた線の一つ一つがそれを語っているような気がした。
シリーズが進むにつれてうさこちゃんは学校に入る。友人もできていく。ダンスを踊ったりする。なんなら万引きをして罪の意識を感じることもある。そして祖母が亡くなる。悲しみにくれる祖父をはげましにいく。
人生が進んでいく。
親と子だけの時間から、子が徐々に大きくなり1人の存在になっていく。
私もそうであったように。
うさこちゃんと自転車に乗っていた私は小学一年になるころには1人で自転車に乗れるようになっていた。
うさこちゃんと乗った飛行機には小学2年の時に乗った。
うさこちゃんと行った海には両親との旅行で行った。
96年に私は小学校に入って、友人も出来ていって、万引きはしなくて、でも罪の意識を感じるようなこともしてしまって、それから、それから。
うさこちゃんが大人になっていくように、私も大人になっていったのだ。
ブルーナさんは色使いを6色のみにとどめて、デザインにもある一定の制限をもうけて描いていた。
改めて見て欲しい、私は洗練された構成に驚いてしまった。
そして、そのデザインが伝えるのはこの世界の美しさだ。
うさこちゃんはうさぎの子だけども、同時に私たちの世界に生きているのだ。
海の美しさも、うっそうとした森も、抜けるような色の青空も、全て全て詰め込まれている。
うさこちゃんは美しい世界に生きている。
それは同時に私も美しい世界に生きているってことなのだ。
閉店時間が迫り、私は外に出た。そこでうさこちゃんのぬいぐるみを買った。新居にも、うさこちゃんを呼びたくなったのだ。
それから時間はまだ経つ。
社会人になることを、そして大人になることをもっと要求されているうちに、私は心のバランスを崩してしまう。
そうしているうちにニュースが流れてくる。
ディック・ブルーナさんが亡くなったというニュースだった。
あの偉大で、そして優しい、ブルーナさんが亡くなった。
「デザインはシンプルであることが一番大事」
「今日は昨日より少しでもいいものをつくろうと心がけて、ずっとやってきました」
ブルーナさんの言葉はなんとか働こうともがく私の心に鳴り続けている。でも、うまくはいかない。それでも鳴り続けている。
それからまだ時間が経つ。今はカウンセリングに通っている。
そして自分のことを見つめ直している。
「これからどんな風に生きていきたいですか?」と問いかけられる。
「・・・恥ずかしいですけども紳士になりたいですね」なんて言ってしまう。
でも、その後に思い出す。
もっと、なりたい生き方があったことを思い出す。
それはあのミッフィー展で初めて出会ったうさこちゃんの絵本だった。
タイトルは「うさこちゃんはじょおうさま」
うさこちゃんが一国の女王様になることを考えるという話だ。
その中に出てくるあるページを私は引用したい。
「でも、なにか わるいことがおこって
だれかがかなしんで いるとき
こんなふうに そばに いって
なぐさめるのも じょおうさまです」
ここのページこそ、私がなりたい人間だ。
今日、家を出ようとしたら埋もれているうさこちゃんのぬいぐるみが見えた。私はすぐに部屋を汚くしてしまう。埋もれさせてしまうのだ。
だから私は急いで掘り起こして、うさこちゃんを床に座らせた。申し訳なかったなと思いながら床に座らせた。
これからも私はうさこちゃんと共に生きていきたい。何を言ってるんだと思うけども、共に生きていきたい。
うさこちゃんは私の大切な友達なのだ。