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「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」を見た!

 

「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」を見た!

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オークションで偶然競り落とした写真のネガを現像してみたら、どれもこれも傑作ばかりでおいおいこれを撮ったのは誰だよって調べたらヴィヴィアン・マイヤーというもう亡くなった元乳母の女性だった・・・!なぜこの女性は生前15万枚もの作品の撮りながらも一枚も世間に発表しなかったのか!そもそもこのヴィヴィアン・マイヤーという女性は一体どんな女性だったのか・・・!

 

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ヒップホップ用語でフックアップというものがありますが、いわゆる「お前のライブまじ最高、本当最高だからさ、今度俺の前座やってよ」みたいな先輩が後輩の引き抜いたり立てたりして後輩は感謝~としちゃうやつですが、この監督は偶然見つけた写真があまりに最高すぎたので「これを俺1人のものにしておくわけにはいかねえ!美術界!フックアップしろ!!」と頼むのですが美術界は「え~このヴィヴィアン・マイヤーってやつしらねえから無視っすわ」と拒否ったので「じゃあもう知らねえぞ!!」と監督は自身のブログに「偶然見つけた写真が大傑作だった件wwwwww」なんてタイトルでヴィヴィアン・マイヤーの写真を紹介したら世間は「やっべやっべ、なあ、展示会してくれや、一生一緒にいてくれや」って感じにニーズが高まって、展示会開いたら「過去最高に人が来ちゃいました~」と盛り上がるマイヤー熱。
というわけでブログのタイトルあたりに完全嘘を盛り込みつつも、この監督さんはヴィヴィアン・マイヤーのフックアップを見事にしちゃうわけです。


しかし、ここで強烈な不在となるのが、当の本人ヴィヴィアン・マイヤー。
ヴィヴィアン・マイヤーはいずこへ・・・?
と引っ張るまでもないことなので書きますが、ヴィヴィアン・マイヤーは既に亡くなっていたわけです。
というわけでここから監督は調べます。生前のヴィヴィアン・マイヤーってどんな人だったの?


どちゃくそ写真の才能があったヴィヴィアン・マイヤーは乳母であった!
というわけでかつてのお世話になっていた家族の元に行く。
口々に語るのは変な人であったというのだ。
自分の部屋は新聞紙でいっぱいにするわ、歩き方も変だわ、1人だけ30年前の格好をしているわ、髪型は変だわ。
そしてヴィヴィアン・マイヤーという女性はフランス人であると言いながら、実は生粋のニューヨーク生まれニューヨーク育ちであったことも判明する。
なんなのだこの人は!一体どうなってるんだ!

 

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そして映画が進むにつれて、彼女の生い立ちがさらに明らかになる。
なぜフランス人と名乗っていたか、そしてなぜ写真を発表しなかったのかも。
ここで、映画は感動的な盛り上がり方をする。
ヴィヴィアン・マイヤーは祖母がフランス人の女性であって、フランスにも二度訪れていたことがわかる。
そしてその現地の現像屋に写真の印刷を頼んでいたこともわかる。
そこで彼女は言っていた(ヴィヴィアン・マイヤーはかなりの収集癖があった女性であったため、メモ、レシート、新聞の切り抜きとため込んでいたがその中には自分の声の録音も残っていた)
「いい作品もあるので現像してほしい。つや消しでお願いしたいと」
ヴィヴィアンは闇雲に撮っていたわけではなく、彼女自身は自分の作品の価値をわかっていた。そして世間に作品として仕上げた上で発表しようと考えていたことがわかるのだ!
つまり監督がやっていることはヴィヴィアン・マイヤーの写真を現像し発表しているこの現状こそ生前ヴィヴィアン・マイヤーが望んでいたことだったのだ!!


アンビリバボーならば、ここで感動のBGMじゃーん!涙目の剛力彩芽どぉーん!設楽さんが「いやーこんなことってあるんだね~」で日村さん「そうだねー」でコンビ愛どーん!で盛り上がるわけですけども、ここから映画は思わぬ方向に向かう。

 

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それはヴィヴィアン・マイヤーの心の闇に迫っていくのだ。
かつて世話を受けた子供たちがヴィヴィアン・マイヤーから受けたひどいことが語られていく。
その中でヴィヴィアン・マイヤーが男性恐怖症を煩っていたこと、それから推測するにヴィヴィアン・マイヤーはかつて男性になにかひどいことをされたのではないかとも。

そして監督は晩年ヴィヴィアン・マイヤーが過ごしていた地域に行く。
晩年のヴィヴィアン・マイヤーはゴミを漁って生きていたと、道行く人に暴言を放っていたとも。

そしてかつて乳母に行っていた家族と偶然遭遇したときのことだった。
その家族は用事があったのでヴィヴィアンとすぐに離れようとした。そのときにヴィヴィアンは言うのだ。
「行かないで」と。

 

ヴィヴィアン・マイヤーとはどんな女性だったのだろうか。
彼女はあまりに強すぎる感受性を持った女性であったことがわかる。
そして病的な強迫性に支配されていたことも。
どこか壊れていたことも。
とても難しい女性だったことも。


僕はヴィヴィアン・マイヤーを人ごとのように思えない。
彼女のことを「変な人」と切り捨てることはできない。
それは自分のことを高く見積もっているのではなく、誰しもがヴィヴィアン・マイヤーのような人間であると思うからだ。
誰しもが「何か」輝ける才能を持っているとする。
その才能は人の心を打つことができる。
でも、それは日々の生活の中で、摩耗していきアピールをすることはできない。
もしその才能に自覚しながらも、世の中に出すことができないというのはどういった精神状態になるのだろうか。
ゆっくり肉をそぎ落とすという拷問があるけども、そんな気分だったんじゃないだろうか。
その一方で人は強すぎる感受性を摩耗していき削り落とすことでこの世界になんとか順応できるかもしれない。
生活や仕事に対応できるのかもしれない。
でも、それを削ることができず、といって世界と手を取り合ってはしゃぐこともできなかったら?
ヴィヴィアン・マイヤーは知性的な人間であると言われていた。
多分わかりすぎたのだろう。世界が見えすぎたのだろう。
自分の感受性じゃこの世は地獄だったのかもしれない。


晩年の孤独になった姿が叫び出したくなるほど胸をかきむしられるのは、誰しもがたどる終わりかもしれないからだ。
the pillowsのストレンジカメレオンの「僕と君の過ごしたページは破り去られ」て、誰も自分のことなんてわかってくれない。
「行かないで」と言ったのは言葉通りでもあり、私たちがそれぞれ思う「この世から1人にしないで」と強く願う強い気持ちなのだ。


映画は彼女撮った写真が今や全世界を回り続け、もう名も無い女性ではなくヴィヴィアン・マイヤーが写真家として確立した状況を映す。
ヴィヴィアンが訪れたフランスの小さな村でも展示会が開かれることになり、そこに訪れた人々はかつての自分の姿を見つけて喜ぶ。
写真集も発売されて、人々はヴィヴィアン・マイヤーの写真を見ることがいつでもできるようになった。
先日見たロロの「父母姉僕弟君」でいうところ、ヴィヴィアン・マイヤーがこの世に残したものは漂い続けて誰かの心をたたいたのだ。
だからヴィヴィアン・マイヤーがやったことなんて絶対に無駄なんていいたくない。
ヴィヴィアン・マイヤーの強すぎる感受性やその人生は撮った写真に刻まれて今なお誰かの心をノックし続けている。
それは強く感動的だ。

でも、やっぱり生きている時にヴィヴィアン・マイヤーは評価されたらと思う。
彼女のとげの中を進むしかなかったような人生を知った後では、彼女の人生がもっと幸せだったらとあったかもしれないもしもを考えてしまう。
でも、それはかなうことない。
そして多くの人々がとげに満ちた人生の果てに誰にも見つからず死んでしまうことを思うと、見つかったヴィヴィアン・マイヤーはとても幸せだったと思う。
でもやっぱり、生きているときにしか人間は幸せになれないんじゃないだろうか。

 

 

だから、僕にできることは何か素晴らしいものを見つけたときはそれを自分のできる限りのフックアップをすることなのかもしれない。
自分には「俺のステージに立てよ」なんて言えない、そもそもステージなんて持ってない。
でも、自分の声は誰かに届くかもしれないのでちょっとだけ大きな声で叫んでみる。
そういう風にして、少しでもつたなくともフックアップできればと思う。
生前少しの賞賛も得ることができなかったヴィヴィアン・マイヤーのことを考えたら、少しでも生きているうちに賞賛をあげていきたい。
死後評価して喜べるのは当の本人ではないのだ。

 

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