にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

準備の季節。

 両目洞窟人間28歳男性は気が晴れない。とにかくまあ気が晴れない。気が晴れないのでこうやって文章を書いている。文章を書いていると気が晴れるような気がするからだ。からだと言っても気が晴れるかどうかはわからない。とにかく書くしかない。

 昨日書いたようにうちの父が膵臓がんになってしまった。君の膵臓を食べたいとかなんとかかんとかでも出てきた病気である。そんなものにうちの父がなってしまうとはとめちゃくちゃ驚き。両目洞窟人間の目もさらに洞窟になってしまうよって感じで、気がついたら手帳に「つらい~」と嘆いている猫の絵を描いていた。つらいよね。なんて言ったって辛いよね。

 その上、両目洞窟人間は両目洞窟人間で適応障害で退職してしまって、その病気の治療にも専念しないといけない。抑鬱状態~!ってことでサインバルタをマックスの60mm飲んでいてその上それをブーストかける薬を飲んでいて、さらに眠れないので睡眠薬を飲んでいるというめちゃくちゃこうやって書くとメンヘラって感じがする。メンヘラ~!!

 ただでさえ、メンヘラな状態の上に、発達障害特有の先延ばし癖で日常でミスをやらかして怒られたりしてもう最悪な状態で、いや最悪なのは俺によって被害を被った人だけども、両目洞窟人間はもうなんでこんな人生になってしまったんだ・・・と嘆くばかりです。はい。

 しかし両目洞窟人間にはできることがあるはずだと、それは前向きになることだと、とりあえずこの書いている文章上でも前向きになってさえいれれば、それは必ず現実世界にフィードバックされるはずだと思って、前向きなことを書こうと思っている。

 メンヘラな状態だって永続的に続くわけじゃない。精神のアップダウンはあるし、週に2日は寝込んでいる状態だけども、それでもまあこれが永遠に続くわけじゃないと思ってる。多分。いや、絶対そうだと思う。両目洞窟人間は信じてる。

 父親の膵臓がんだってうまく摘出できるはずだと信じてる。身体開けてぽい!背負い投げ~!でなんとかなるって両目洞窟人間は信じている。そうとにかく信じることが大切なのだ。

 和牛が「人生でうまく行ったことある?」と言って「ないなあ~」と言っていたけども、あの和牛ですらそう思っているというのにショックを覚えた一方で、私も「うまくいったことないなあ~」と思う。でもこれからはうまく行ったらいいなあと思う。少しばかりこちらに運が向いてきてもいいじゃないですか神様と思う。まあ、そういうときにしか神に頼らんからなのかもしれないけども、それでも、それでもまあ運くらい向いてきてもいいやんと思う。

 昨晩、寝床で凄く辛くなって「なんでこんなことになってしまったんだろうな」と思ってしまった。むしゃくしゃしてうがーとなって全部壊してやりたい気持ちになったけども、壊すものも見当たらないし、壊したら壊したで罪悪感に襲われてやりきれなくなるだけだろうなと思ってしゅんとしてしまった。そんなことよりも、そんな後先を考えない行動よりも、今やるべきことは一歩ずつ一歩ずつ着実に進むことなんじゃないだろうか。やるべきことをやって、ちゃんと進めたと実感することじゃないだろうか。

 両目洞窟人間の場合は病気をまずは治すことだろうし、それから働いて自分の稼ぎで食えるようになることだろうし、傷病手当金の申請を忘れないことだろうし、今支えてくれている人に感謝を伝えることだろうし、そして父のサポートをすることだろうし、もっといえば家族のサポートをすることだ。

 そう思う。そう強く思う。それができたら、いい。それさえできたら今はいい。

 あとはなんなりとついてくるか、やってくるだろう。それもなかったらまた探せばいい。難しいかもしれないけども、それでもやらないよりはましだろう。

 というふうに書いていたら幾分か気は晴れてきました。何せこんな風に当たり前のことを毎度毎度書かないと気が晴れないのだ。もうそれくらい煮詰まっているっちゃ煮詰まっている。でも、煮詰まってどうにかなるくらいなら、毎度毎度書いていけばいいと思う。それで楽になるんだったらいい。楽になる方法がこれなんだから、それでいいと思う。

 両目洞窟人間は幸せになりたいなあと思う。でも、まだ自分の順番じゃないんだろう。だからその日がやってくるまで、一個一個やっていって、準備をしておこうと思う。今は準備の季節だ。準備の季節は気が遠くなるほど長いけども、いつかはこの季節も終わると信じて、生きていくしかない。

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読書感想文『村上ラヂオ3』『菊地成孔の粋な夜電波』

読書感想文


『村上ラヂオ3』村上春樹

村上春樹のエッセイって面白いのが多くて、古くは『村上朝日堂』や海外の雑誌の記事を引用しまくる名著『scrap』がありますが、『村上ラヂオ』はあのananで連載されていた一記事3ページほどの軽いエッセイ集です。

まあ、内容は薄くもなく濃くもなく、つまりananで連載するにはちょうど良いお湯加減にチューニングされたものなのですが、ふいに読み始めるとどんどん読み進めてしまうくらいには面白い。

胃にずしんとくるような本も大好きだし、手に汗握るようなエンタメも大好きだし、その後の人生の指針になるような本も大好きだ。

けども、そんなのが読めないって精神状態の時、この村上ラヂオはちょうど良い。ラヂオって言ってるくらいなので、まるでラジオを聞き流しているかのような読書感があってよいです。

話は多岐に渡っていて、サラダが好きなライオンはいるのか?ってくだらない問答から、好きな作家の言葉の引用、旅行の話までありとあらゆる話がある。村上さんは多分駄話が得意だし、うまいのだなと思わされる多様さだ。ラジオで言うところのフリートークがうまい人の話を聞いてるような感覚にもなる。

とつらつら書きましたが、たまにはこういう本もいいと思います。

カート・ヴォネガットの言葉がある言葉が引用されていた。「愛は無くなっても親切は残る」。この言葉に関連したエッセイも素敵なんだけども、この言葉が載っているカート・ヴォネガットの小説って一体なんなのだろう。村上ラヂオを読み終えた今はそれが読みたくて仕方ない。

 

村上ラヂオ3: サラダ好きのライオン (新潮文庫)

村上ラヂオ3: サラダ好きのライオン (新潮文庫)

 

 




菊地成孔の粋な夜電波』菊地成孔

菊地成孔さんといえば、ジャズミュージシャンで、文筆家で、美食家で、評論家で、そしてラジオパーソナリティである。そんな多面的な顔を持つ、スノッブなおじさんこと菊地成孔さんのラジオ『菊地成孔の粋な夜電波』からトークや前口上やラジオコントを収録したいわゆるラジオ本というやつだ。

僕は菊地成孔さんのデビューエッセイ本『スペインの宇宙食』にかなりやられてしまった人間で、それ以降ずっと(度々見失ってはいるけども)菊地成孔さんの活動は追っかけているつもりである。しかし、ラジオはあんまり聞けていなかったところで、この本が発売となった。嬉しいなと思っていたら、ラジオが今度終了となり、どーんと落ち込んでいます。

ラジオの特徴というかこの本の特徴は菊地成孔さん独特の言語感覚で彩られた前口上の素晴らしさや、曲に新たな命を吹き込むかのような曲紹介の素晴らしさだ。

特にアース・ウィンド&ファイアの『セプテンバー』の曲紹介の箇所をぜひ読んでいただきたい。この地球上で比喩ではなく何十億回とプレイされたあの曲が、新鮮な、まるで始めてプレイされた日のように、生まれ変わるかのような曲紹介はこの本の白眉といえる。

ラジオ本ということで基本的にはファンの人しか手に取らない本であることをわかりつつ、ここで紹介したいのは、独特の言語感覚を持った人の言葉ってやっぱいいよなってことと、そんな言葉に頭を掻き回されたいと思う日もあるだろうってことで、そんな風に頭を掻き回されたいなって人にはオススメの一冊です。

あとジャズの曲紹介もめっちゃ付いてるので、この一冊とApple musicがあれば永久に楽しめる本でもあるのでそういう面でもおすすめ。

 

菊地成孔の粋な夜電波 シーズン1-5 大震災と歌舞伎町篇

菊地成孔の粋な夜電波 シーズン1-5 大震災と歌舞伎町篇

 

 

 

父がすい臓がんになってしまった。

 父が膵臓がんであると告知された。と書き出すと重たい話になってしまいそうだけども、実際になってしまったそうなので、この重さからは逃げることはできない。しかし最初に結論めいたことを書いてしまうけども、父ががん告知されてしまっても日常は続いていくし、やらなきゃいけないことはやらなきゃいけないし、腹減ったら飯を食べるしかない。というわけで僕がやらなきゃいけないことはハローワークに行って、雇用保険に延長を頼むことであったり、父が手術の日に立ち会うことであったり、その他もろもろで、逆に言えば当面の間は何にも出来ない。

 がん告知を聞いた日は僕も一念発起して「やることをやろう!」という気になったけども、ダメージは大きかったらしく、次の日は1日寝込んでしまったし、その次の日も半日寝込んでしまった。両目洞窟人間は寝込みのプロであるので、とにかく何かあると寝込んでしまうし、何にもなくても寝込んでしまう。ぐーすかぴーと寝込んでしまう。その様はまるでピンクまんじゅうa.k.a星のカービィのようであるけども、鏡に映る僕はピンクまんじゅうほどかわいげがあるわけでもなく、2日も寝込むとひげ面のNEET

 とりあえず髭をそり、ハローワークに行って雇用保険の延長を申し込むも、住んでる市ではないハローワークに行ってしまったので、住んでる市で申し込んでくださいと門前払いを食らい、今はそのハローワークのビルの一階にあるミスタードーナツでドーナツをもさもさと食べながら、そして煙草をすぱすぱ吸いながらこの文章を書いている。

 


 父は63歳で膵臓がんになるには早すぎる気がするが、そんなことを言ってられない。なる人はなるし、ならない人はならないというだけである。父と関係がよかったかと言われればそんなことはなかった。父はとにかくデリカシーの無い人である。嫌なことを散々言われたこともあったし、それでもめたこともやまほどあった。

 今、実家を離れる選択をしたのも父と一緒に暮らすことに限界を感じたというのもある。とにかくまあ、一緒に暮らすには難しい人なのだ。

 しかし、そんな人が膵臓がんになってしまったということで見捨てるという選択肢ははなからはなくて、僕はできることをやろうという気にはなっている。なんといっても父なのだ。

 父から教えてもらったものも多い。音楽と映画は父の影響が強い。5歳の頃に聞かせてもらったYMOとディープパープル。小学2年生の頃に連れて行かれたタイタニックのせいで、今の自分がいるようなものだ。その他にも多分もらったものは多く、そして多分そのもらったものの多くは今の自分になっている。

 というわけで父には長生きしてほしい。膵臓がんなんかに負けないで欲しい。その気持ちを父に伝えようと思ったが、どんなことを言えばいいかわからなかったので電話をかけて映画『クリード』をとりあえず勧めた。あの映画に出てくるロッキーの姿は父の背中を押すのではないかと思ったのだ。僕は映画を教えてもらった。今度はこういうことで父にお返しをする番だと思った。まあ、あってるのかどうかわからないけども。

 生存率の話も聞いた。5年以内が50%で10年以内が30%だそうだ。それがどれだけの確立なのかわからない。自分があと10年生きれるかどうかが30%だと言われたら、多分目の前が真っ暗になるだろう。父も相当狼狽したと聞いた。

 どれだけの時間がこれからあるのだろうか。10年もあるのだろうか。それとも長生きをして30年くらいあったりするのだろうか。わからない。とにかくわからない。しかし、1つ言えるのは僕にも「父がいつか死ぬ」ということがはっきりとわかってしまったことだった。永遠に続くものなんてない。わかっていたつもりだったけども、わかっていなかった。

 とりあえずできることをしようと思う。村上春樹のエッセイ『村上ラヂオ3』を読んでいたらカート・ヴォガネットの言葉が引用されていた。「愛は無くなっても親切は残る」と。僕は父に親切でありたいと思う。だからできることをしよう。何かなんてまだわからないけども、1つ1つ。もしかしたら今の自分が無職で動きやすい状態ってのはこのためにあったのかもしれないから。有限である時間を、後から振り返った時に後悔にならないように、親切でありたいと思う。

 にしても可哀想だ。なんで父がという思いもある。くやしいという思いもある。でもそれに飲み込まれてしまってはだめだと思う。僕は僕で自分を保ち続けなきゃいけない。

 だから精一杯くだらないことをこれからも考えようと思う。くだらないことを考えよう。どてらを着た猫が歩き回る話や魔法少女になってしまったOLの話みたいなものをこれからも作り続けよう。それが自分にできるプロテストだ。それが現実に抗う方法だ。

 最終的にはこういうことしかできない。頑張ろうと。とにかく日々を頑張るのだ。頑張れなくなった日は寝込んでしまうだろうけども。それ以外の日を頑張るのだ。それだけだ。それだけしか今はできることがないのだ。

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どてらねこのまち子さん『identity』

『どてらねこのまち子さん』

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"identity"

 「にゃんにゃんにゃん」とまち子さんが呟きながら歩いています。まち子さんは猫です。どてらを着た二本足で歩く猫です。そして日本語を喋る不思議な猫でした。しかし普段はちゃんとした言葉使いなのです。あんまり「にゃんにゃんにゃん」とは言いません。しかし今日は「にゃんにゃんにゃん」と言いながら歩いていました。そしてその顔は困り顔でした。

 そんな時、まち子さんの友達の岸本さんに出会いました。

「にゃんにゃんにゃん、あ、岸本さん」

「こんにちはまち子さん。どうしたんですか。にゃんにゃんにゃんと言いながら歩いたりして」

「実は、私、本当に猫なのかどうか気になってしまって」

「え」

「私、本当は猫じゃないのではないのでしょうか」

そうです。まち子さんはアイデンティティクライシスに陥っていたのでした。

とりあえず二人は喫茶店に入ることにしました。

 


まち子さんはアイスコーヒーを頼みます。岸本さんはブレンドコーヒーを頼みました。

「猫かどうか、わからなくて、にゃんにゃんにゃんと言いながら歩いていたのですか」

「そうです。猫かどうか自分でも自信がなくなってきてにゃんにゃんにゃんと言いながら歩いていました」

「で、どうでしたか、猫としての自信はつきましたか」

「いえ、逆ににゃんにゃんにゃんと言いながら歩いたことで、猫っぽく振る舞う何かになってしまった気がして、余計に自分が何か分からなくなってしまいました」

まち子さんは両手でカップを持ってアイスコーヒーをすすります。ずるずるずるという音がしました。

「まち子さんが思う猫っぽさってなんなの?」と岸本さんが聞きます。

「うみゃみゃみゃみゃみゃ・・・わからないんですよね・・・」

猫っぽさ。つまり、まち子さんにとっての根源の部分。それがまち子さんには見えなくなっていました。アイデンティティのなさはすなわち自分自身の喪失に繋がります。まち子さんは自分自身を失いかけていました。

「まち子さん、野生に戻ってみるというのはどうでしょうか」

「野生」

「そうです。野良猫がやるようなことをやってみてはどうでしょうか」

「野良猫がやること・・・はっ!私、わかりました!」

 


そうやって二人が向かったのは、商店街にある魚屋さんでした。計画はこうです。まち子さんが魚屋さんの店頭に並んだお魚をパクってくるというものでした。

「野良猫といえば、魚屋の魚をパクるってのが、野生ですよ」と岸本さんは言いました。

「自分から言っておいてなんですが、うみゃみゃみゃみゃ・・・やっていいのでしょうか・・・」

「大丈夫ですよ。パクったらすぐにダッシュすればいいのです」と岸本さんは言いました。そんな岸本さんを見ながらまち子さんは岸本さんには元ヤンだった過去があるのかなと思いました。

まち子さんは魚屋さんに向かって歩いて行きます。

魚屋さんの店頭ではがたいのいい店長さんが「いらっしゃいいらっしゃい!」とがなり立てています。

まち子さんは身震いしました。もしあの店長さんに捕まってしまったら半殺しにあうんじゃないかと。

まち子さんの脳裏に映画で見た様々な拷問シーンが目に浮かびました。

まち子さんの口にタオルが被せられて、水攻めにあう拷問。まち子さんが情報を吐くまで爪を剥がされ続ける拷問。コンクリ詰めされて海に放りこまれる拷問、というか処刑。

もうその全てが脳裏に駆け巡りました。

「いらっしゃい!なんにする!!」と店長さんはまち子さんに声をかけました。まち子さんはびくっとしました。そして、おそるおそる鯖に手を伸ばしました。そして一言。

「あ、これをください」

 


買った鯖は家で、味噌煮にして食べました。こんな風に調理が出来てしまうのが、そもそも猫っぽくないのではないかとまち子さんは自問自答しました。しかし、まち子さんは調理できてしまうのです。そして店長さんの気持ちにも寄り添うことができるのです。岸本さんに鯖の味噌煮を振る舞うことも出来るのです。まち子さんはそのままのまち子さんでいいんだよと私は思います。でも、私はただの語り部なので、まち子さんに話しかけることはできません。だからまち子さんは自分で自分であることを見つけなければいけないのです。それにはどれくらいの時間がかかるかわかりません。自分であることを見つけるのは明日か、それか死ぬまで見つからないか、わかりません。でも、とりあえずは今の鯖の味噌煮を作ってるその姿が私はまち子さんのまち子さんらしい姿であると思うのでした。

 


「できました」

「今日は変なことを言ってごめんね」と岸本さんは謝りました。

「いえいえ!わたしこそ、変なことで悩んでしまって・・・」

「いいんだよ。私も、私が時々わからなくなるし」

「そうなんですか」

「そうだよ」

「そういうもんなんですね」

「そういうもんなんだよ」

二人は鯖の味噌煮を食べ始めました。

「美味しいね」

「ありがとうございます」

「あと、今日のにゃんにゃんにゃんって言いながら歩いているまち子さんとってもかわいかったよ」

「え!あ!う!恥ずかしいです・・・」

そう言ってまち子さんは顔を赤らめました。

外は寒くなってきました。風が家の窓を吹き付けます。空には星々が光っています。なんでもない星をつなげて星座と呼んだように、いつの日か、自分の自分たるものをつなげていって、それを自分と呼べる日がくればいいねまち子さん。

「ねえねえ、岸本さん」

「なに」

「岸本さんって元ヤンだったのですか」

「ふふふ、どうだろう」

「えー教えてくれないんですか」

「ふふふ」

「うみゃみゃみゃみゃ・・・」

またまち子さんは困り顔をしました。

我輩はピンクまんじゅう(28歳男性)である。

 最近、ネット上で文章を書くときの一人称がころころと変わる。特に意味はなくて、なんとなく変えている。とりあえず最近使っているのはピンクまんじゅう(28歳男性)だ。ピンクまんじゅうとは、お笑いコンビ金属バットが星のカービィのことをそう言っていたのであって、それがいたく気に入ってしまって、僕は最近自分のことをピンクまんじゅう(28歳男性)と名乗っている。太っているのもあって、ピンクまんじゅうと名乗るにはいい見た目をしているし、ちょうどいい気がしたのだ。

 それ以外だとずいぶん長くマイメロ(28歳男性)と名乗っていた。これはTBSアナウンサーの宇垣美里さんが辛いことがあったときに自分のことをマイメロだと思うことにして「マイメロだからわかんなーい。イチゴのことしか考えられなーい」と思考をそちらに流して目の前の問題から逃げるといった考え方にめちゃくちゃ共感して使っていた。僕もちょうど辛いことが山ほどあったのでマイメロ(28歳男性)と名乗って「わかんなーい」と言っていた。周りからはすこぶる評判悪かったけども。

 他にもDr.ハインリッヒという女性コンビの一人称に影響を受けて、自分のことを私(わたくし)と言ってみたりもした。意外と難しくて、すぐやめてしまったけども、品の出るしゃべり方に自然になったので、これはなんとか習得したいと思っている。

 あとは両目洞窟人間乙女座というのもあった。両目洞窟人間は僕のTwitter上の名前で、乙女座は8月生まれだから。これにしたのは菊池成孔さんが自分のことを誕生月の星座で名前を読んでいたのに影響を受けてだった。

 ピンクまんじゅう、マイメロ、わたくし、両目洞窟人間乙女座と並べてみて思うのは僕は影響を受けやすい人間であること、そして一人称をころころと変えるのが大好きなのだということだ。

 一人称をころころと変えたところで何か大きな変化があるわけではない。お金もかからない。何かが起こるわけではない。でもまあ、自分としては楽しい。そういった趣味が1つくらいあってもいいじゃないかと思ったりする。

 一人称を変えたところで、人格が分離するわけではない。ピンクまんじゅうと名乗っていた時も、マイメロと名乗っていた時も、わたくしと名乗っていたときも、両目洞窟人間乙女座と名乗っていたときも人格は分離せず、僕は僕のまんまだった。

 ただ、一人称が変わるだけである。

 なので一人称を変えたっていいのだ。これでペルソナがめちゃくちゃになってしまったらやばいと思うんだけども、そんなこともないし、マイメロと名乗ったところでサンリオから怒られるわけでもない。(調子に乗りすぎると怒られるかもしれないけども)

 なので一人称なんてものは結構簡単に変えてしまっていいのかもしれないし、一人称を変えることで少しばかり自分の気持ちがよくなったり、風通しがよくならば、簡単に変えてしまってもいいと思うのだ。

 意外と「僕」とか「私」と名乗っている時は、書けなかったりするものが書けたりするかもしれない。ピンクまんじゅうと称することで書けるものがあるかもしれない。勿論、ピンクまんじゅうと名乗ることで書けなくなるものもあるだろうけども。

 というわけで当分の間はピンクまんじゅう(28歳男性)と名乗って生きていこうと思う。このブームがどこまで続くかはわからないけども、ピンクまんじゅうと名乗らなくなったらそのブームが終わったときだと思って頂けたらと思う。

 そんなピンクまんじゅうはこれからメンタルクリニックに行って、ソーシャルワーカーさんと話をしてきます。ピンクまんじゅうの未来を話すわけです。とこんな風に、「僕」を使わずにピンクまんじゅうと称して書けば、なんか重たい話題も軽くなる気がする。しませんか。そうですか。する気がするんだけどなあ・・・。

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