にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

短編小説『マッドサイエンティストになれなかった』

 

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私は昔から物語の中に出てくるマッドサイエンティストになりたかった。サイエンティストではない。マッドの方。狂った科学者の方。ノーベル賞とか間違っても受賞しない方。好奇心で世界を破壊しようとするような科学者に私はなりたかった。

 


小学校に馴染めなかった私の人生はハードモードでスタートした。誰とも喋ることもなく1日が過ぎていく。「二人一組になってー」なんて言われた日には死んだ方がましだった。
そんな時に出会ったのがマッドサイエンティストだった。家にあった映画のDVDにその人はいた。世界を終わらせようとする彼の姿は、なによりも輝いて見えた。


それからは授業が終わると家にまっすぐ帰っては、ランドセルを放り投げて、大好きな科学者が出てくる作品を見た。
私はマッドサイエンティストが出てきそうな作品を探しては見た。気に入ったやつは繰り返し繰り返しみた。輝いていた。世界中の人間を皆殺しにしたいという気持ちが私の心で光り輝いていた。


でも物語に出てくるマッドサイエンティストは正義の人間によって殺されるか、改心させられるのが常だった。
うんざり。
なんで、世界を破壊したいと思った人間が、その夢を叶える発明をしただけで殺されなければいけないのか。
そんな気持ちを持った人間がぽっと出の人間の説得に応じると思ってるのか。
わかってない。マッドサイエンティストの気持ちをわかっていない。全然わかってない!
私は物語の中で殺されるマッドサイエンティストのことを思っては何度も涙した。

ぼろぼろと泣いた。

死ぬのがかわいそうすぎて、映画は最後まで見なくなった。そうじゃないとマッドサイエンティストは死んでしまうのだ。


だから、私は究極のマッドサイエンティストになろうと思った。
正義の人間に計画を悟られずに発明を成功させて、そして世界を破滅させるマッドサイエンティスト
はじめてのマッドサイエンティストに私はなる。そうなるのだよ!

 


でも、私は理解も科学も苦手だった。マッドサイエンティストになりたかったのに科学が本当にダメだった。

悲しいくらいにダメだった。
唯一作ったのは捕まえたカエルとミニ四駆を合体させたカエル四駆だった。
生臭い匂いを放ち、死んだ目で前を見る伸びきったカエル四駆は、猛スピードでカーブに突っ込んで、曲がりきれずにコースを飛び出して、あとはぐちゃぐちゃ。
カエルの肉体の損傷により、カエル四駆は一度きりの発明になってしまった。


私はカエル四駆の墓を作って、もう2度とこんな失敗はしないようにしようと思った。
しかし、失敗を恐れるゆえに何もできなくなってしまった。

でも頭の中では色々と渦巻いているのだ。素晴らしいアイデアが。

世界を終わらせることができる発明が渦巻いているのに、私は恐れるゆえに手を動かすこともできない。

 


そのうち、そのアイデアは私のお決まりの現実逃避先になって、登下校中、授業中、食事中、入浴中、生存中全ての私の心を救ってくれた。

通信簿には「いつも上の空です」と書かれていた。

仕方ない。

心の中の方が楽しいもの。

心よりも面白くない世界が悪い。


席に座ってクラスをぼんやり見ている。

冬になって、休み時間になるとストーブに集まって「寒い寒い〜」と言って身体を暖めようとする奴らの笑顔を見ているとアイデアが思いつく。


あたたかーいと言って近づいてくる者に石油をぶっかけ火をつけてすべてを焼き尽くす石油ストーブ。

そんなに寒がってるんだったら、身体の芯まであったまればいい!


別の日、遅刻しかけて、教室に入ったらみんなの心底がっかりする顔が見えて誰かが「あと一人で学級閉鎖だったのにー」という声が聞こえてまたアイデアが思いつく。

あいつらは小さな手紙でやりとりしているので、その小さな手紙を媒介として広がっていく殺人ウィルス。

私には回ってこないので私だけが生き残る。みんなは死ぬ。

だって小さな手紙を回してるから。
で、誰もいなくなった教室に私は通うのだ。

「もうこんなにいなくなったら学級閉鎖だと思うのですが、みんなの分も勉強したいです!」あー決まった。

主演女優賞ものの、スピーチを決めた私が殺人ウィルスを作ったなんて誰も思わないだろう。ふふふ。

みんな苦しめ苦しめー。

誰とも話さないまま小学校を卒業する。

 

 

そして中学に入る。

中学校は別の三つの校区が集まると知って、それならなんとかなるのではないかと思った。
甘かった。

めちゃくちゃ甘かった。
私は気がついたらまた余り物になっていた。
だから、上の空にまたなる。ずっとずっと上の空になる。

 

中学に入ると自転車通学がありになった。私の家は校区の端も端なのでありがたい。
でも、ある日帰ろうとしたらサドルを抜かれていることに気がつく。
私はそれを見て、またいいアイデアが思いつく。

漕ぎ始めたら、筋組織が壊死するまで漕ぎ続けなければいけない自転車。

勝手に降りると死ぬ。

具体的にはタイヤのワイヤー部に首が挟まって死ぬ。

 どうやるかなんてわかんないけども、私は頭の中では最強の知能を持ったマッドサイエンティストなので、多分できる。
サドルを抜いたやつが自転車に乗った瞬間からスタートだ。

壊死するまで漕ぎ続けなければいけない。

大体の人は発狂して首を挟んで死ぬ。

残りの人は事故って死ぬ。

みんな死ぬ。

わーい!死んでしまえ!!

 

コンタクトに変えただけでパンダが産まれた時のようにちやほやされるクラスメイトを見ていいアイデアが思いつく。
装着した瞬間に酸に変わって目を焼き尽くすコンタクトレンズ
目は酸で溶けて空洞になってしまうのだ。

ぽっかり空いた目で、泣こうとするクラスメイトを思って健気な気持ちになる。
目がないから泣けないのに。

もうあなたの目は溶けてしまった。

どろどろに。ほらここに。

指差した先に液状化した眼球がある。

私はそれを思って笑顔になる。

 


でも、結局は頭の中だけだ。どれだけ考えても、頭の中だけだ。
科学を頑張ろうとした。でも、私のテストの点数はいつも低かった。あのいつもはしゃいでる人達の方が断然高かった。そりゃそうだ。私はいつも上の空で、みんなを殺すことばっかり考えてる。あの子達は現実世界に生きていて、私は空想の中で生きている。

 


そうこうしているうちに高校生になった。

 はしゃいでいた子よりも、コンタクトに変えたくらいでちやほやされた子よりも、頭の悪い高校で、私は入学式が終わった段階でこの学校にも合わないことを悟って、一人帰り道で泣く。田んぼのあぜ道を通ってる時に泣く。
鉄塔が私を見下ろしている。


私があのカエルの代わりに死ねばよかった。私の身体をミニ四駆にくくりつけて、コースからはみ出せばよかった。
私の身体をコースを飛び出して、宙を回って、地面に叩きつけられて、血をあちこちに吹き出して、腕や足が衝撃でもげて、死ぬ。
それからは私が死ぬ想像ばかりする。

 


授業中、私は2km先のビルに潜伏していたスナイパーに狙撃されて頭が弾け飛ぶ。脳みそがとなりの席の男子の顔に吹きかかる。
学校に侵入してきたテロリストの見せしめにあって撃ち殺される。私は頭から血をホースの水のように垂れ流しながら土下座の体制で死ぬ。
帰り道、音も無く近づいてきたプリウスに轢かれる。運転していたのがテンパりやすいおばさんだったので、何度も何度も念入りに轢かれて私の身体は子供に遊ばれたミミズのようになって死ぬ。
硫酸がたっぷんたっぷんに入ったプールに飛び込んで死ぬ。
剣道部の突きが喉を潰して呼吸ができなくなって死ぬ。
私だけエボラ出血熱になって隔離されて死ぬ。
脳に電極を刺されて筋肉をリモートコントロールされて何度も何度も「生まれてきてごめんなさい」と言わされてから、脳に過負荷をかけられて死ぬ。
目を焼かれる。
耳を潰される。
歯を折られる。
首を切られる。
心臓を潰される。
車に轢かれる。
馬に蹴られる。
銃で撃たれる。
爆弾で爆破される。
超能力で消される。
ワニに食べられる。
そして、誰からも見えない存在になる。

 


私は高校に入ってからなんども死ぬ。つらいと思ったら死ぬ。頭の中でなんども死ぬ。1日に数回は死ぬ。多いときは数十回。
死んで、死んで、死んで、私の心の奥には私の死体でいっぱいになっている。私はそれをブルドーザーで片付ける。
スペースが出来た私の心にまた死体が積み上がる。死んで死んで死んで、また死んで。片付けて、死んで、死んで、死んで。
気がつけば、私は私の死体の周りで生きている。

 


そんな私は高校2年の時、ついにクラスに行けなくなる。
そして私は保険室で1日の大半を過ごすようになる。

保健室登校を初めて早数ヶ月。私は保健室の一番奥のベットを陣取っている。カーテンはいつも閉めっぱなしにしている。
保健室にある本は大抵読んだ。特に「よくわかる!薬物依存!!」は私のお気に入りの一冊だった。未来ある若者が麻薬に手を出してどんどん駄目になる姿を繰り返し読んだ。
「もう麻薬はやりません」と誓った若者が、かつての仲間にそそのかされて麻薬に手を出してしまって、あっという間に麻薬依存にまたなって、挙げ句の果てに知らない一家を殺してしまう下りは何度読んでも悲しくなったし、何度も読んでしまう中毒性があった。うん、麻薬ダメ絶対だよ、本当。みんなもこれを読めばいいのに!と思うけども、みんながだれか私には浮かんでこない。


私は一日中、保健室にいる。

担任の先生が今日一日分のプリントを持ってくるので、教科書を見ながらなんとか解いたり、時間を作ってくれた先生と似たような生徒たちと一緒に授業じみたものを受ける。
でも、基本的には保険室からは動かない。ベッドから動かない。
たまに、クラスメイトがやってくるので、その雰囲気を察すると、私はベットに潜り込んで毛布をかぶって呼吸をなるべく殺していないふりをした。
保健室のさゆり先生はそんな私の姿になんも口を出さなかった。ベッドを数ヶ月占拠していても、何にも言わなかった。一応毎日挨拶はした。
「おはようございます」
「おはよう」
と会話はこれだけ。あとはお互いにノータッチ。

さゆり先生は何にも言わなかった。一日中、ほぼ一緒にいるけども、ほとんど何にも話さなかった。
さゆり先生は30代半ばで、保健室の先生なのに不健康そうな顔色と目の下のクマがとても印象的だった。
いつもめんどくさそうにしていた。でも誰かが怪我で入ってきてその治療をするときだけ楽しそうだった。
それ以外は本当にめんどくさそうにしていた。

 

 

「人生を楽にするためには!」と書かれた本をいつもの占拠しているベッドで読んでいた。
「心を軽くするには、気負いすぎないことです。」なんて書いてる。

そりゃそうだろう。

当たり前のことを書いてしたり顔で説教するじゃねえよ。
本を燃やしたくなるけども、学校の備品だし、昔聞いた「本を燃やす人間はいずれ人間も燃やすようになる」という言葉を思い出して日和る。

自分を殺しているうちに、他者への暴力が怖くて仕方ない。
やっぱり、こんな本をよりも麻薬依存になってしまった人達の方が何百倍も人生を好転させたかったことがわかる。
言葉で軽くなる心なんてそれまでなのだ。

言葉で軽くならないからより強いものを求めただけなのだ。

その末路が人生の破滅だとしても、私にとっての入り口は麻薬依存の方が今は親近感が湧いている。めっちゃ湧いてる。


毎日、保険室に通っている私の人生が変わるようなものがあれば、私は手を出してしまうだろう。魔法の薬。えいっ!あっひゃー!変わりましたーー!!人生変わりましたー!!

そんな薬があったらいいのに。
これまでの人生全てなかったことにできて、これからの人生全ていいことしかおきないような。
せめて、一日中私を取り囲んでいるこの憂鬱な気持ちをなんとか消し去りたいと願う。
やっぱり麻薬なのか。麻薬をやるしかないのか。


私がロサンゼルス在住ならば低所得者の家に行って「ワッツアップニガ」って拳をぶつけて挨拶したら、白い粉が出てきて、「こいつは上物だぜ〜」と取引するのに。
というかロサンゼルス在住ならば、いろんなことができそうだ。

とりあえず、私はタトゥーを入れよう。腕に血管のタトゥーとか、首に切り取り線のタトゥーとか入れてみたい。
そんなことしたら私の人生、私で回せそうな気がする。
でも、ロサンゼルス在住じゃないから麻薬も買えないし、タトゥーも入れられない。人生を変えられない。


だから私は物は試しにと地元の名前と麻薬の名前を組み合わせて検索してみる。けれど警察のマスコットキャラクターがウィンクさながら「麻薬ダメ絶対!」って叫んでるページしか引っかからなくて舌打ちをする。
なんだよ地元、ロサンゼルスになれよ。
といっても、バイトもしていないお金も全く持っていない私に麻薬が買えるわけない。そもそも買ってどうするの。本当に人生を終わらせる気なの?


でも終わらせちゃっていいのかな。
突然そんな思いが飛来する。
自殺か〜。
なんとなく痛いのは嫌だなって思っていたけども、それでも、いや!なんか頑張ればいけるような気がするぞ!と思う。意思の勝利だ!この勢いを私は殺してはならない。


ってことで私は早速、遺書を書く。A4ノートの1ページをちぎって書く。
書き始めるとすらすらすらーと意外と言葉が出てくる。


「先に死んでしまう私をお許しください」なんてfor家族な言葉もちゃんといれておく。

あとは世界に対する呪詛を書きまくった。

私の死はお前のせいだー!!と嫌な話のオチのような気分にさせたくて、より一人でも嫌な十字架を背負って生きていて欲しいので、呪詛を並べる。


とはいえ、明確になにかをされたわけじゃない。

いや、明確な悪意を向けてきたやつもいたな。でも、大多数はそんなことない。

わかってます。

でも、それでも呪詛を書く。お前たちも同罪だという気持ちで書く。

これは本当。

私は世界中から殴られ続けてきたような気分でいるもの、これくらい書いたっていい。死と等価交換だと考えればこれくらいの呪詛足りないくらいだ。

 

私はA4ノートの1ページ、その表裏にびっしり書いた遺書を、枕の上におく。

飛ばないように「人生を楽にするためには!」で押さえておく。

ふふふ。

今までこんなにラフに自殺に向かおうとする人がいただろうか。

「心を軽くするには気負わないことです」

おっけー!今から気負わずに自殺して心を楽にするよー!

 


カーテンを開けるとさゆり先生はどこかに行っていてだれもいない。都合が良い。私は保健室を抜け出して、屋上へ向かう。
学校の至る所から授業中の声が聞こえる。
英語教師の間延びした声。体育教師の怒鳴る声。授業中なのにはしゃいでる奴らの声。笑い声。笑い声。笑い声。

吐き気が私を襲う。おえっ。と本当になにかが出そうになる。声から逃げるために上に上に急いで向かう。


階段を上がり続けた先に、屋上へ向かう赤く錆びた重たい扉に行き着く。

ついにだ。

私は死んでしまうのだ!さよならみんな。死にます。

お前らのせいだ。
意気揚々とその扉を開けようとする。

しかし、鍵がかかっていて、私の意気揚々は鍵の引っかかった大袈裟すぎる衝撃音に変わってしまって失望する。
そりゃもう強く、強く。


よくよく考えれば屋上なんて出ることできないよな。

なんだよ、屋上から飛び降りる気だったんだぞ。

職員室から鍵でも借りてこようかな。
「屋上の鍵貸してください」
「はぁ?なんで」
「飛び降りたいので鍵を貸してください。本当お願いします。」


無理だろうな。
じゃあ、そこらへんの窓から飛び降りるかって思うけども、高いところにある窓には鉄格子が嵌めてあることに気がつく。

学校側が意外と配慮していることに気がついて、結局今は死ねないことに気がついてしまう。

私は屋上へ続く開かない扉の前でなんとなく座ってみる。

少しかわいそうな私になってみたかったので三角座りで座り直す。

それからえーんえーんと泣き真似をする。
すると本当に涙が溢れ出してちょっと焦ってしまう。
泣くつもりはなかったのに涙がどんどん出てくる。
うわっどうしようと思っていたら、「あ、いた」って声がして声のした方を向くとさゆり先生が立ってる。

手には私がA4ノートの1ページに書いたあの遺書を持ってる。


さゆり先生は私に近づく。こんな場所で泣いてるところを見られたら、凄くつらくてかわいそうな子に見られてしまう。

それはいやだ。
だからなんとか泣いてないふりをする。


私は自殺するなんて言ってさゆり先生をおちょくったんですよ。屋上が開かないことなんて百も承知でした。さゆり先生は私の手のひらで転がされていたんです。どうですか、怒りたくなってきませんか。怒ったらいいじゃないですか。ほらほら。


なんてことを本当は言いたいのに、私の口から出たのは「なんで来たんですかぁ〜!」とボロボロでヨレヨレの涙声だった。
ああ、もう、本当にいやだ。

死んでしまいたい。

この瞬間にこそ、死んでしまいたかった。

 

さゆり先生は階段を一段一段ゆっくりと登って来た。

まるで階段が薄い氷で出来ているように。

私が薄い氷上にいるように。
そうして、私の隣まで来ると、さゆり先生もぺたんと座った。


「ここ、冷たいね」


さゆり先生はそう言った。

私はまだぐすぐす泣いている。
私はまだ冗談ですよ。なんて言おうとしてる。でも、何にも冗談じゃなくて、何にも冗談にならないから言えない。

 


それからさゆり先生はずっと隣で座っている。お昼休みを告げるチャイムが鳴って、生徒たちが行き交う音がし始めても、さゆり先生と私だけの時間が流れているように、そっとその空間が保持されていた。


私はと言うとずっと泣いてばかりいた。

涙が止まらなくなって、目が涙で痛くなって、喉も渇いて痛くなっていたけども、それでも涙が止まんなかった。
チャイムの音がして午後の授業の開始を告げても、まだ私は俯いて泣いている。さゆり先生がいるなって感覚はするんだけども、本当にさゆり先生なのかわかんなってくる。 


「さゆり先生?いる?」
「いるよ」
「…手、握ってもいい?」

気がついたらそんなことを口走っている。

わけがわかんなくて戸惑ってる私にさゆり先生は「いいよ」 と言ってくれる。
だから私はさゆり先生の手を握る。

先生の手はとても冷たい。

そして指が細くて長い。

骨を掴んでいるような気さえする。

でも、とても気持ちよかった。
私はさゆり先生の手をぎゅーっと握る。
握っていたらもう抑えきれなくなって「うわああああああ」と大声で泣き叫んでしまった。

さゆり先生は何にも言わずに私の手をずっと握っていてくれた。

ずっと。

ずっと。

 



屋上へ続くドアのすりガラスから差し込む陽の光が朱色に変わってきても、まだ私たちはそこにいた。

私は取り留めもないことをずっと話した。

これまで誰かに聞いて欲しかったように。

小学校のこと。

中学校のこと。

高校のこと。

頭の中で沢山殺したこと。

頭の中で沢山死んだこと。

それから。

 


「わたし、ほんとうは、マッドサイエンティストになりたかったんです」
「うん」
「世界を壊してしまえるような。でもぉ、頭悪いから。わたし、科学もできないし、嫌ってたあいつらよりも低い高校に入っちゃうし、もうなれない、わたしマッドサイエンティストになれない」
「なれるよ」
「無理ですよぉ!先生はすぐそうやっていうじゃないですかぁ!夢は叶うとかぁ!頑張れば必ずってぇ!嘘でしょそんなの!そういったら夢を叶えた人は頑張ってたんだから、頑張るのは無駄じゃないとか言い出すんですよ!違うんですよ!馬鹿だって話をしてるんです!私の頭が悪いから!無理なんですよぉ!うわああああ!!」とボロボロまた泣いちゃう。

ほんとうは今更マッドサイエンティストになるなんてそんなに大きな夢ではなかった。
すでに墓標になった夢だった。

でもその墓標は日に日に存在感を放って、私を追い詰めてきた。


「そもそもマッドサイエンティストってなんですか!収入源はなんなんですか!何で稼いでるんですか!特許でですか!?いやですよ!そんなマッドサイエンティスト!ちびちびと特許で食い扶持を稼ぐなんて!!もう!いやだ現実いやだ!なんの希望もないし!やだ!ほんとやだあああああ!!」と喉が痛くなるほど叫ぶ。

「そっか。だからここに来たのか」
さゆり先生は屋上へ続くドアを見つめながら言う。

そうして、すこし考えたような顔をして立ち上がった。


「ちょっと待ってて、すぐ戻るから」
数分後、戻ってきたさゆり先生の手には古めかしい鍵が握られている。

「屋上、行っちゃおっか」

 


重たい扉を開くと風が吹き込む。
夕陽が目に飛び込んでくる。薄暗い場所にずっといたから目が痛い。
目が徐々に明るさに慣れてくる。コンクリートの床。緑色のフェンス。

そしてその向こうに広がる街は夕焼け色に染まっている。

遠くを流れる川が光の反射でブロックノイズのように点滅している。
じゃあね〜と生徒たちの別れを告げる声と、野球部がボールを打つ音と吹奏楽部の演奏の音が同時に混ざって聞こえて、その隙間を女子バレー部のランニングの掛け声が埋める。
遠くの空に半透明の月が見える。

夕方の終わる気配が漂っている。


「もう1日、終わるね」

 さゆり先生が呟く。
1日が終わる。代わり映えのしない毎日が終わっていく。
「ちなみに、別に君を死なせるためにきたわけじゃないよ」
私は頷く。

わかっていた。

提案があった時、どきっとしたけども、死なせるわけにここに連れてくるわけじゃないってこと、頭の悪い私でもさすがにわかる。
「私も先生だからね。職業的に無理だし。あと目の前で自殺されたら後味も悪いし。でも、まあ、見せてもいいかなって思って」
「何を?」
「本当に大したことないこの景色を」
そういって、屋上から見える周囲の景色に私を誘導する。


校舎、部活、帰る生徒たち、はしゃぐ声、自転車のブレーキ音、車と国道と、田んぼ、ラブホテルの看板、住宅街、パチンコのネオンサイン、公民館、幼稚園、私の通っていた中学校、私の通っていた小学校、遠くの遠くに私の家。


私の視界は全部、全部、大嫌いなもので埋め尽くされてる。
周囲の景色を見つめて、見つめられているうちに私は不快感が胸にたまっていくのを感じた。
こんなのに見つめられて死ぬなんて嫌だ。
「生きてたらいいことがあるなんて言わないよ。先生も辛い事ばかりだし、楽しい事あんまないしね」


そういうことをさゆり先生はさらっと言った。悲しそうな言い方ではなく、当たり前のことのように。


「でも、だからと言って死を選ぶのは違うんだよね。まあ、なんとなくね。大人のエゴかもだけだも。それに最後に、そんだけ色々考えてるあなたの死に場所が、この場所ってのは、本当に退屈でかわいそうだと思って。こんな大したことない場所で死ぬのは。まあ死ぬのに大した場所があるかどうかって話になってくるけども」


向かい側の校舎、三階の教室で男女がキスしているのが見える。

私はなんとなく目を背ける。

背けた先、屋上の床のコンクリートにすこし凹んでいる場所があって、そこにすこし水がたまっている。
「もう一度、マッドサイエンティストになってみたら」
先生は私に問いかける。

なんて答えたらいいかまだわからない。
「…なれないですよ」
「うん、なれないよ。マッドサイエンティストにはね。でも、だからこそだよ。実際にはマッドサイエンティストになれないって言ってたけども、だからこそもう一度あなたが昔やってたように無邪気に頭の中でマッドサイエンティストになって、それで世界を破壊し尽くしたらいいじゃない」
「…いいんですか」
「うん。いいよ。私が見ててあげるから」
さゆり先生は少しだけ笑う。
私は頷く。
遠くの方でバレー部のふぁぃっおーって掛け声が聞こえた。

 


ある日、突然、世界中の携帯のsimカードが爆発した。スマホでゲーム中の人は両手が吹き飛んで両腕から血を吹き出す。ポケットに入れていた人は太ももが吹き飛んで、血を吹き出しながらけんけん歩きをする。通話中の人は頭が吹き飛んで、首から血を吹き出す。

みんながみんな、一斉に吹き飛ぶから世界中が一気に血に染まる。痛いよー痛いよーって世界中の人が世界各国の言葉で叫ぶ。


ある日、突然、世界中で巨大化した1000匹の猫が街を破壊する。爪研ぎの要領でビルをかりかりする。ビルは倒壊して人々は押しつぶされる。猫パンチで人々の身体はバラバラになる。この世界は猫のものになる。


ある日、私は嫌いな人間の頭にスパムの蓋をあけるピンをぶっさして、ペリペリペリと巻きあげて頭部を切り開く。脳の代わりにひよこを詰める。

ぴよぴよぴよぴよと鳴き声が聞こえる。

 

 

 こんな話を毎日さゆり先生にする。

さゆり先生は毎日私の話を聴いてくれる。私は前と同じように毎日、毎日、狂った方法で世界を壊すことを考える。そのうちに自分を殺すことをなんとなく徐々にやめていく。


まだ毎日、保健室にしかいけてない。クラスメイトが来ると相変わらずベッドに潜り込んで隠れている。
でも頭の中ではみんなを殺すことを考えてる。私の頭の中では私はマッドサイエンティストにまたなることが出来て、自由自在に殺している。

 


「私、空想の中で生きてるのが嫌で、マッドサイエンティストになるのやめたんです。でも、だめだった。結局は現実では生きれなかったんです」
「そういうものだよ」
さゆり先生はあの後からたまに屋上に連れて行ってくれる。私たちはたまに屋上に行って、ぼんやりと世界を見つめる。
「私、大丈夫かな、いや、大丈夫じゃないよね。保健室登校だし、毎日人殺すことしか、考えてないし」
「大丈夫だよ、私もそういうもんだったし」
「さゆり先生もそうだったの?」
「そうじゃないけどそうだったよ」
「なにそれ」
「まあ、現実で生きるのはしんどいよね」
「うん」
マッドサイエンティスト続いてるじゃん。なれないって言ってた割には続いてるよ」
「足りないのは学力だけなんですって。やりたいことはたくさんあるんですよ」
「いいなー。やりたいことたくさんあるっていいよ」
「でもやったら私、死刑になることばっかだよ」
「そのうち、死刑じゃないタイプのやりたいこと見つかるよ、それまでは頭の中で殺し続けたらいいじゃない」
「うん」
「そういえば、今日はまだ聞いてなかった。なんかあるの?」
「ありますよ。あれ、向こうの校舎で前キスをしていたカップルがいたんですけども、唇と唇を重ねると皮膚と皮膚が溶解してくっつくリップクリームをつくるんですよ」
「ふふふ」
「唇同士が繋がって、引き剥がせなくなったら、あいつらパニックになって散々愛してるとか言ってたのにすぐ気が狂ってお互いのことをなじり合うと思うんですよ!でも、口自体が繋がってるから、声もちゃんと出せなくて、直接身体同士を行き来するのか!余計に最悪ですね!」
「最悪だね、ふふふー」
さゆり先生が笑って私は少し嬉しくなる。

 


 まだ現実に生きれそうにない。生きているのも憂鬱で仕方ない。でも、頭の中で私は自由自在に飛び回ってる。
みんなを殺してる。
校舎を、部活を、帰る生徒たちを、はしゃぐ声を、自転車のブレーキ音を、車を、国道を、田んぼを、ラブホテルの看板を、住宅街を、パチンコのネオンサインを、公民館を、幼稚園を、私の通っていた中学校を、私の通っていた小学校を、私の家を、そして世界を。
 そしてこんな話を聞いてくれる人がいるのが嬉しい。

毎日、マッドサイエンティストな私はマッドサイエンティストな方法で世界を破壊する方法を考えて、さゆり先生に教える。
さゆり先生はマッドサイエンティストな私に説得をすることもないし、改心を求めることもない。


「今度、それをノートに書いたらいいよ。アイデア帳を作っておくのは大事だよ」
ということで、1ページだけちぎれたA4ノートを引っ張り出してそこにアイデアを書いている。

思いついたものが具現化するのが楽しくなる。文字と絵だけども。

それでも具現化だ。


遠くの夕陽が沈んでも空はまだ赤くて、でもそのうちに青くなって、夜に変わっていく。半透明だった月は明るく光る。
夜のうちに思いついたことをノートに書く。朝になったらまたさゆり先生に見せよう。そう思うと楽しくなってる私がいた。
そういえばもうすぐA4ノートが埋まってしまう。
私はこの世界が嫌いすぎてA4一冊くらいじゃ足りないのです。

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貯金が半分になったので、僕は悲しい。

貯金が50万を切った。
100万あった貯金が半年で半分になった。
つまりは単純に考えればあと半年もこんな生活ならばもう生きていけないってことだ。
ここのところも、相変わらず体調は最悪です。半年も休職してますが、未だに最悪です。
特に一日出歩くと、もうそれだけでダメで、数日はずっと寝ている。本当にずっとずっと。
最近は過眠と不眠が交互に襲いかかってくる。疲れ切って睡眠薬を使うと、翌日は一日使い物にならない。
先生は「治りますよ。大丈夫ですよ」と言ってくれるけども、こんな状態で働ける気なんてしない。
一日ちょっと出歩いただけで、二日から三日はぜえぜえとずっと喘いでる人間がどこで働けるんでしょうか。

身体が元気な時は元気な分、思考が働いて今度はこんな状況をじっくり考えては辛くて辛くて仕方なくて雁字搦めになってしまって、もう精神のソリッドシチュエーションスリラーが延々と続いてる。足首には鎖、中央には自殺死体。ハロー、27歳男性、ゲームをしよう。

気がついたら2月だ。8月から僕だけ時間が止まってるような気がしてる。でも、実際は超高速で時間は進んでいて、現に僕は1秒ずつ死に向かっている。
友人たちはそれぞれの人生の歩みを進めてるし、弟は学年が上がるし、最後の知ってる後輩は卒業するし、親は老けていくし、祖父母もいつまで生きているかわからない。
だけど、僕はずっと2017年の8月から止まっている。預金と生命力が減っていく。

ずっと一般社会に向いてないと言われる人生でそれでもなんとか馴染もうと思ったのは飢えたくなかったからだ。
飢える心配をするのが嫌でなんとか社会に溶け込もうと思ったのに。
実際は社会には出られなくなったし、苦労して数年かけて貯めた貯金は半分も消えたし、一日中寝ているような生活だし、何よりいつだって誰かから非難されているような気分で生きているのがこんなに辛いなんて思わなかった。


何文字も重ねて書いてるのは結局助けてくださいってことなんだけども、誰に言っていて、そしてどうやったら助かるかなんてわからない。
僕の乗っているバスに爆弾が付けられているわけでも、僕がたまたまいたビルにテロリストがいたわけでもない。
偶然それらを上手い具合に排除したら助かったー!やったー!
ってそんな風になれたらと思う。
2時間の映画も、2時間しか救ってくれない。
3分の音楽も3分しか救ってくれない。
本は?本はまだ没入する時間が長いからその分助けてもらえる。
でも、体力がない時は本すら読めない。

それでも、それでも、なんとかやっていくしかない。貯金がなくなったら家を引き払って実家に戻ればいい。
戻ればいいなんて言ったけども、本当は凄く嫌だ。戻りたくない。実家はとてもいい場所だけども、23歳らへんで感じてた、僕は産まれた場所で人生が過ぎ去っていく感覚がとても怖かったのだ。
だから本当は遠くに離れたい。
人生ってのが、そんな変化がないものだとは思いたくない。

母から手紙が届いた。森見登美彦有頂天家族の名言が書かれたハガキを買ったらしくてたまに送ってくる。「悩んでも仕方ないことは悩まない」的なことが書いてあるハガキだったが、そこに書かれた母からの言葉は、母も人生が辛いがなんとか今月は切り抜けたということだった。
だからこそ、頼っている今の状況から本当は脱却しないといけない。
もう親は60超えてるんだ。60超えてまで子供の心配をさせるのは親不孝も親不孝だ。

社会復帰できればいい。
職場に戻って「ご迷惑をおかけしました」と菓子折りも配って、また働けたらいい。
それが一番なんだ。それができるのが。
なんとかしなきゃいけないんだ。
そんなことをミスタードーナツの中で延々と考えてる。
答えのないことを考えたって仕方ないよ。
そう思うけども、答えのない問いがずっと頭の中で踏ん反り返っていて、僕はそれを追い出すことができない。

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5年ぶりに横道世之介を見た。

5年ぶりに横道世之介を見た。

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 友人(a.k.a木戸)が家に来たので映画を流そうということになって、友人(a.k.a.木戸)の名映画DJにより横道世之介がプレイされたわけだけども、最初は自分たちの学生時代を思い出してやんや言うてたのに、気がついたら見入ってしまって、ラストにはぼろぼろ泣いてしまった。改めて見ても本当素晴らしい名作っぷりに打ちのめされてしまった。

 

 5年前の劇場公開時にも見ていて、その時の感想もある。たぶんこの辺にリンクを張っているはず。大切な思い出のような映画。「横道世之介」 - にゃんこのいけにえ

 にしても当時の俺、当時にしてはちゃんとした感想を書いてるな。これよりもしっかりしたものを書ける気がしない。
ただ、やっぱ同じ映画でも5年も経てば見る意識は変わってくる。あの頃は大学生だったけども、僕も卒業したし就職もした。
あっという間に5年経って、そのあっという間さに驚いている。そしてそれはやっぱり同じ映画でも全く違う印象を受けたりした。

久しぶりに見た横道世之介はその豊かさにやられてしまった。全編、あまりの無駄のなさ、そして所作の一つ一つの美しさにやられてしまった。3時間近くあるけどもその長さは一切感じない。鑑賞の感覚としては凄くゆったりしているのに、実際のところは物凄い勢いで物語が進行しているという、その構成に驚いてしまった。
さっきも書いたけども無駄がない。どのシーンも全てが全て呼応し合っている。伏線というより呼応で、それは人生を振り返る時に感じる「あれもこれも今思えば無駄ではなかった」という感覚に近いものだ。
人生というのが出たので、その流れで書くのですが、この映画は何者かになっていく人の話だったんだなと思いました。
これは横道世之介という大学一年生の一年を通して、横道世之介とその関わった人々が皆何かしらで何者かになっていくまでの話だ。
よく言うじゃないですか、人生のターニングポイントの日の話。
そのターニングポイントの日に、ターニングポイントだったと思ったなんて言っちゃう人はそれは嘘だと思っていて、殆どの場合はあとから思い返せば「あの日がターニングポイントだったんだな」ってものばかりだと思う。
そしてそのターニングポイントってのは、突然現れる。そして、それにどうしようもなく突き動かされてしまうものであったり、否応無くその方向に進まなければいけなかったりするのだろう。
例えば、若くして親にならなきゃいけなかったものが、その覚悟を決めた日のこと。
または後年、世界中をボランティア活動で飛び回る人が、その思いのキッカケになったあの海岸で起こった日のこと。
そして後に写真家になる男があの写真に出会ってしまった日のこと。
それは突然やってくる。そして当人もそのことには気がついていない。


多分、何者にもなってないと思っている我々も、どこかではなにかのターニングポイントを迎えていたりするのかもしれない。そしてじつは何者かになりかけているのかもしれない。
横道世之介はそのターニングポイントに実は居合わせた人間で、そして彼らや彼女らの何者ではなかった日々の思い出として片隅に残り続けている。

僕らは大人になっていく。目の前にある人生を過ごしていくうちに遠くの思い出を忘れていく。
だからこそ忘れていく。何者でもなかった日々を。そして横道世之介のことを。

でも、たまには思い出す。あの日々のことと、横道世之介という何者でもなかった時に一緒にいた人間のことを。
図々しくて、おかしくて、汗っかきで、よく食べて、優しい人間のことを。
なんとなく思い出す。あんなやついたな、なんて思い出す。
もしくは街の風景の中にかつての自分たちを浮かび上がらせてしまう。
あの日々の自分たちを思い出して、笑って。

彼との思い出は、思い出す度にどうあがいてもシリアスにならない。だから、笑ってしまう。だから出会えたことをよかったななんて思ってしまう。
そんな風な人間になりたいという思いは5年ぶりに見ても変わらなかった。
やっぱり、僕は横道世之介になりたい。


ある青年の大学一年生の一年を通して、切なくて笑える青春ものだけでなく、人生の始まりと終わりまで描き切ったとんでもない大傑作。
改めて見ると死の匂いと生の躍動が物凄い濃厚。あらゆるシーンが呼応していて、この映画の中に「人生」が凝縮されてる。沖田修一監督の演出があまりに凄まじくて、腰抜かす。
全シーン、作り込みが物凄い。衣装一つ、置いてある物、音楽の使い方、役者の演技、全てがすべてとてつもない濃度。
何度見ても新たな発見があるだろうなと思う(今回は池松壮亮が就職する企業が1988年の不動産ブローカーということで、この後のバブル崩壊でめちゃくちゃ大変な目にあったんだろうなと、映画に映っていない部分に思いを馳せてしまった)。
多分まだまだ気がついていない部分があるんだろうな。そしてそれくらいの濃度で、我々の生きてるこの人生も本当は存在しているんだろうな。
一見、のんびりしてるんだけども、実はとんでもない濃度で、とんでもない速度で、気がついたら笑ってしまうほどおかしくて、そんで優しくて。

 

また五年後くらいに見たい。次に見るときは33歳くらいか。世之介が亡くなってしまった時期に近づいてしまう。どんな人生を僕は生きてるだろう。世之介みたいになれてるかな。なってたらいいな。それまでは今を生きて、笑顔でただただ走り抜けたい。

 

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短編小説『笑いながら、へんな歌って言った。』


 外回り中に適当に入った喫茶店で、学生時代に聞いていたナンバーガールのイギーポップファンクラブが流れていたから、僕は必然的に名古屋さんのことを思い出す羽目になってしまった。
 あの部屋で丸くなって本を読んでいた名古屋さんのこと。
 名古屋さんのかっこいい横顔のこと。
 ジャキジャキと鉄っぽく鳴るギターの音は、昼休憩に入る喫茶店としてはいささか大げさすぎるからか、かき入れ時にも関わらず客は少なかった。
 でも、そのジャキジャキした暴力的なギターの方が僕にとっては自律神経がだいぶ整う。少なくとも、ピースフルな空気を振りまいているようなボサノヴァカバー的な良さげな雰囲気の音楽よりは。
 そして、ジャキジャキしたギターの音に耳を傾けているうちに、学生時代に住んでいた大学から徒歩15分の家の匂いが立ちこめてきた。
 初めて一人暮らしをしたあの家。
 オートロックも無いマンションの二階の角部屋。
 部屋にはいつも乱雑に洗濯物が干してあって、壁に適当に拾ってきた映画のチラシをはっつけていて、本があちこちに散乱していて、音楽が常に鳴っていたあの部屋。
 有り余るほどの自由と窮屈なほどの僕の好きなもので埋め尽くされた部屋の匂い。


 名古屋さんがうちに来るようになったのはいつぐらいだろうか。


 騒げれば場所なんてどこでもいい大学生向けにチューンナップされた薄いお酒と油にまみれた棒きれのようなポテトフライが3000円でたらふく胃に詰め込むことができる居酒屋で行われた何度目かのサークルの飲み会。
 隣の人の声すらも聞こないような騒がしい飲み会。
 大勢のサークルのメンバーに紛れて僕と名古屋さんはいた。

 名古屋さんは先輩だった。
 名古屋さんとはそれまでも何度かはしゃべっていたが、大した話なんてしていなかった。
 名古屋さんの口調や、名古屋さんの端々から出る趣味趣向がそんなに合わないなと思っていて、人付き合いが得意でない僕にとって名古屋さんは別の惑星から来た人のような印象を持っていた。
 名古屋さん自身、場の中心にいるタイプではなく、こうした飲み会の場でも、薄い酎ハイを飲んでは目を鋭くし、ぼけーっとその場に居続けるような人だった。
 名古屋さんはその日も目を鋭くさせて、白い肌を回ったアルコールでやや赤くさせてその場に座っていた。


 福岡の天気予報はTMネットワークがなぜか流れているって話をしたときだった。
 「まじで?あれ小室哲哉なの?」
 名古屋さんは鋭い目から一転、大きく目を開いて食いついたのだった。
 福岡出身なのに名古屋という変わった名字を持った名古屋さんは福岡から出る前によくその天気予報を見ていたのだった。
 名古屋さんは突然席を立ち、僕に近寄る。
 同級生や先輩が名古屋さんが僕の隣に座れるようにスペースを作る。どことなくにやにやしながら。
 「あれ、TMネットワークなの?TK?」
 「テツヤ・コムロっすよ。あれ。ファンタスティックビジョンって曲です」
 「うへー気がつかなかったなー。なんで知ってるの?」
 「天気予報をYoutubeで見るのが趣味で」
 「え、まじで」
 「はい」
 「うわー、変な子だ。え、じゃあほかの地域の天気予報だとなんか音楽変わってたりするの?」
 名古屋さんはもの凄く食いついてきた。
 僕はいろいろと説明をした。それが特段面白い話だったようには思えないけども、名古屋さんはずっとうんうんとうなずいていた。
 名古屋さんは名古屋さんでずっと僕のことを「変だ」とか「趣味悪い」と言いながら、楽しそうにしていて、それが僕もとても楽しかったことを覚えている。
 それから僕と名古屋さんはよくしゃべるようになった。


 店長の趣味なのか相変わらずジャキジャキとナンバーガールが流れる喫茶店で僕はハヤシライスを頼んだ。560円。
 優しい価格のハヤシライスは優しい価格に似合った優しい味だった。
 一時期、僕はハヤシライスを作るのに凝っていた。
 といってもワインを入れるだの、そういうことじゃなくて、ハヤシライスには何を足せば美味しいかってことに凝っていた。
 毎日ハヤシライスを作ってはいろんなものを足した。
 味付けにケチャップを入れたり、ソースを入れたり、お酢を入れたり、ウェイパーを入れたり。
 「意外とウェイパーが美味しいんですよ」
 サークルの部室で僕は名古屋さんに言う。
 空きコマに暇なのでサークルの部室に行くと、たいてい名古屋さんがいた。
 当時卒論に追われていた名古屋さんはその現実逃避先にサークルの部室を選んでいた。
 名古屋さんは僕の姿を見ると挨拶をして、それからいつもとりとめもない話をした。
 凄く盛り上がるとかじゃない、とりとめもない話。
 そのとりとめもない話の一つとして、僕はハヤシライスに何かを足す話をした。
 「あのさ、味覚死んでるの?」
 きょとんとした顔で冷静に言葉のパンチを放つ名古屋さん。
 僕は全盛期の赤井英和のフットワークで言葉のパンチを交わしながら「死んでないですって」とカウンターパンチ。
 「なんか辛いの?ストレスある?そんで味覚死んだ?」
 「だから死んでないですって。ウェイパー入れてみてくださいよ」
 「死んでもやだね」
 名古屋さんは笑う。名古屋さんは笑うとき歯が見える。
 歯を見せて笑うんだなってそのとき思った。
 いつなのかすら思い出せないくらいずっとだらだら続いていた日々の記憶の一つ。


 その後もハヤシライスちょい足し研究は続く。
 ハヤシライスに何が合うか。その究極の研究に僕は若い時間を使っていた。
 焼いたウィンナーを乗せたり、フレッシュなトマトを乗せたり、551のシュウマイに、王将の餃子、そしてアップルパイを乗せた。
 「え、アップルパイ?」
 いつも通りの午後の日、サークルの部室でレジュメを読んでいた名古屋さんは僕の発言に思わずを顔をあげた。
 「はい。意外と合うんですよ」
 「あー森山くんが狂ってるのって味覚じゃ無くて、頭だったんだね」
 名古屋さんは妙に納得したように言った。
 「いやいやいや、名古屋さん食べたことないからそんなこと言うんですって」
 「いや、無理。食べたくない」
 名古屋さんは本気でひいている顔をする。
 ただ僕にはこの感動を共有する必要があった。
 「一回食べたら感想変わりますよ」
 「いや、まじ無理絶対、死んでも嫌」

 その日、初めて名古屋さんが家に来た。
 後から思い返せば、女の子を家に呼んだのなんて初めてのことだった。


 ハヤシライスを食べながら、立てかけてある小さなメニューにあれが書いてあるのに気がついた。僕は手をあげる。ウェイターが気がつく。
 「すいません。アップルパイも追加で」
  アップルパイは400円。
  あの頃買っていたアップルパイはスーパーで売っている120円で6つくらい入っている奴だった。
  それとハヤシライスがとても合ったのだ。


 「やっぱり、合わないよこれは」
 僕の部屋でハヤシライスをかけたアップルパイを食べた名古屋さんは心底嫌そうな顔をして僕に言った。
 「えー。そうですか」
 「うん、なんなら気持ち悪い」
 「えー」
 「ってかハヤシライスなんだからライスで満足しときなよ」
 「それを超えていきたいじゃないですか」
 「超えなくていいんだって。ライスがゴールなのに、ゴールテープ切ってから走ってんじゃないって」
 僕は渾身の研究発表がぼこぼこに否定されたのを聞いて、そこそこにショックを受けた。こんなにも美味しいのになって思いながらハヤシライスをかけたアップルパイを食べる。
 「あーなんかそれ見てるだけで、もはやグロい」
 名古屋さんは嫌悪感で作られた顔を僕に見せる。
 「全然乗ってくれないじゃないですか」
 「全然に決まってるって。バイオテロだよ」
 「テロって」
 「原理主義者だよ」
 「ハヤシアップルパイの」
 「うん、これに関しては多分森山君が初めての教祖でしょ」
 「うわー権力ですね」
 「誰も入信しないよそんな宗教」


 アップルパイが運ばれてくる。
 僕は残っていたハヤシライスの一部をかけてアップルパイを食べ始める。
 カウンターに入ったウェイターと目が合った。
 ぎょっとした顔で僕を見ていた。
 そうだ、そんな顔を名古屋さんもしていた。


 「森山君は普段部屋で何してるの?」
 「えー、音楽聴いたり、本読んだり、映画見たり」
 「面白みないなあ。へいへいぼんぼん」
 「ひどい」
 「ハヤシライスをアップルパイにかけて食べるような人だからもっと狂ってるようなことしてるかと思った。死体で家具作るとか」
 「違いますよ。しないですよ、そんなこと」
 「じゃあ、何聞いてるの?音楽は。この間のカラオケでも歌わなかったから何聞いてるのかなって」
 「えーと、ちょっと前のバンドなんですけども」
 僕はつけっぱなしのパソコンに保存してあるその曲を探す。クリック。
 「これです」
 安くて小さなスピーカーから流れ始める。
 ナンバーガールのイギーポップファンクラブ。
 ジャキジャキしたギターの音。安いスピーカーをびりびり震わすベース。喉がつぶれるように叫ぶボーカル。気が狂ったようにたたくドラム。
 「正直、同世代では聞いている人が少ないからすぐマイナーって言われるんですけども、全然そんなことなくて、めちゃくちゃ後年に影響を与えてるというか、伝説的なバンドで」
 僕は早口でまくしたてる。
 名古屋さんは僕の演説には耳を傾けず、涼しい顔で音楽に耳を傾けていた。
 それで曲が終わるとこう言った。「これ変な歌だね」名古屋さんは少しだけ笑っていた。
 そのときも名古屋さんの歯が見えた。


 一度、名古屋さんの手帳を見た。サークルの部屋に名古屋さんだけがいて名古屋さんは手帳に書き物をしている途中で突っ伏して寝ていた。
 手帳には「シャンプー切らしたから買うこと」「定期券の更新」みたいなメモと猫の落書きが書いてあった。下の方に眼帯をした二足歩行気味な猫が書かれていてその隣に吹き出し。その中に僕が教えたそのバンド名が書いてあった。
 その下には「アップルパイは二度と食べれない」とも。
 本当に悪いことをしたと思った。

 

 「あ、平山夢明
 本棚にしまった本をじーっと眺めていた名古屋さんが突然ぽつり。
 「え、名古屋さん知ってるんですか?」
 「読んだこと無い」
 「あ、そうなんですか」
 「でも、HUNTER×HUNTERの富樫が、この人の短編はすげえって言ってたから」
 「へー」
 「そういえば、HUNTER×HUNTERってどこまで読んだ?」
 「読んだこと無いです」
 「え、森山ってHUNTER×HUNTER読んだこと無いの?」
 「あ、はい」
 「うそ、まじで、そんな人類にいるの?」
 「いますって」
 「まじかよ」
 「でも、名古屋さんも平山夢明読んだことないじゃないですか」
 「それとHUNTER×HUNTERは違うよ」
 「違わないですって」
 いつも通りの喧嘩じみた会話をした後に、名古屋さんはまた突然ぽつりと。
 「じゃあ、読んでみよっかな」


 名古屋さんはまるでベッドの上で土下座をしているような体勢で本を読んでいた。
 「うわー。なにこれ。本当最悪なんだけど。よく読めるなこんな本。うわー最悪」
 平山夢明の容赦の無い短編を読みながら名古屋さんはずっと悲鳴をあげていた。
 でも、ページをめくる手のスピードは緩まなかった。
 「名古屋さん、その体勢しんどくないですか?」
 「うん?あ、これ?私、本を読むときはいつもこれなんだよね」
 「へー」
 「読みやすいよ。うわー。ってかまた人死んでるし」
 その最中無音になるのが嫌で、ずっとあのバンドの音楽を流していた。
 丸まって本を読む名古屋さんの横顔になんとなく見とれた。
 名古屋さんは、かっこいい横顔をしていた。
 「・・・森山くん、なんで黙ってるの」
 「名古屋さんって横顔かっこいいですね」
 「なにそれ、えー、森山くん、そんな気、私にはないからね」
 「あ、大丈夫です。僕も」
 名古屋さんはあきれるような顔をした。
 それからまた本を読み始めた。
 数ページめくったら「森山くん」と呼ばれた。
 「森山くんって、なんかくらげっぽいね」って本を読みながらぽつりと。
 「くらげ?」
 「うん。くらげみたい。」


 僕は音楽を聞いたり、本を読んだり、洗い物をしたりして、ふと名古屋さんに目を向けると名古屋さんはそのままの体勢で眠ってしまっていた。とても穏やかな顔で眠っていた。
 起こすのも悪いなとおもったので名古屋さんに毛布をかけて、部屋の明かりを暗くして、僕は椅子に座り、机に突っ伏して眠った。

 

 僕は今、喫茶店でアイスコーヒーを飲んでいる。
「アイスコーヒーは溶ければ溶けるほどかさが増すのだよ」って名古屋さんは二度目に家に来たときに言っていた。
 店内BGMは同じバンドの別のアルバムに変わった。
 「このバンドってライブの方がかっこいいね。相変わらず変な歌だけど」って名古屋さんは7度目に家に来たときに言っていた。
 机の上には食べ終わったアップルパイの皿。
 「アップルパイは絶対に他の人に勧めたらだめな。特に女子には。一発で嫌われるから」って名古屋さんは9度目かの家に来たときに言っていた。

 

 何度目かに名古屋さんが家に来て本をいつもの体勢で、いつものかっこいい横顔で読んでいた。
 「あーわかった!」と突然名古屋さんは叫んだ。
 「どうしたんですか?」
 「・・・森山くんって、なんか特別感ないよね」
 名古屋さんはぽつりとつぶやいた。
 「・・・特別感ないですか?」
 僕は面食らってしまって、ふと言葉が出なかった。
 「うん。なんかいつもフラット。平面って感じ」
 「・・・」
 「うん。特別感がない。うん。ないよ。うん。ない」
 なんて答えたらいいかわかんなくて、僕もぼんやりしてしまった。 部屋で流れていた音楽はそのバンドのラストライブの音源だった。 「そこが森山君らしいっていえば、らしいんだけどね」
 「・・・」
 「まあ、森山君、幸せになりなよ」
 と言って名古屋さんは読書に戻った。


 そうこうしているうちに、名古屋さんはまた眠ってしまった。
 僕は名古屋さんにまた毛布をかけて、部屋の明かりを落として、椅子に座った。
 ラストライブは最後の曲になっていた。
 最後の曲はそのバンドのデビュー曲だった。

 

 名古屋さんはその日を境に家に来なくなった。
 2週間後、名古屋さんは大学を卒業した。


 喫茶店から出て、イヤホンをつける。ナンバーガールの音楽がまだ聞きたくて、音量大きめで聞き始める。OMOIDE IN MY HEADが流れる。「福岡県博多区からやってきましたナンバーガールです。ドラムスアヒトイアナザワ」それから乱打されるドラム。
 そしてギターがかき鳴らされる。
 自分たちの卒業式のサークルの飲み会で「なあ。森山って名古屋さんとつきあってたの?」って同級生が聞く。
 周りが「おっしゃ、よく聞いた!」とはしゃしたてる。
 「つきあってないよ」
 「じゃあ、なんかしたの?」
 「なんも」
 「まじで?名古屋先輩ってめっちゃ部屋に行ってたんでしょ?」
 「うん」
 「でも、なんもしてないの?」
 「うん」
 みんなはあきれた顔をしていた。
 「なんか言ってたの名古屋さん」
 「あー、なんだろ。クラゲみたいとか・・・特別感がないとか。・・・そんなこと言われた」
 みんなは納得した顔をして席に戻っていく。
 隣にいた同級生が「ちょっとお前、がまんせえ」と言って僕の肩を強めにたたいた。とても痛かった。
 「幸せになりなよ」って言われたことだけは言わなかった。
 まだ、かみ砕けてなかった。名古屋さんの言葉が。
 そして、自分の気持ちも。
 「ウォイ!!!!」とイヤホンの中の客が叫ぶ。

 イヤホンの中のナンバーガールは演奏の熱をあげていく。
 ナンバーガールが解散したのは15年前。
 名古屋さんに最後に会ったのは5年前。
 名古屋さんが結婚して山梨さんに名字が変わったのは2年前。


 2年前、名古屋さんから久しぶりに電話がかかってきた。
 そしてその時に僕と名古屋さんは久しぶりに喋った。
 「久しぶり、森山君」
 「久しぶりです。あ、山梨さんになるんですね」
 「うん。また都道府県名だよー」
 「なんかそういう磁力の人なんですね」
 「なにそれー磁力とかわかんないし」
 「すんません」
 「ははは。変わってないな、森山君は」
 「名古屋さん、あ、山梨さん」
 「名古屋でいいよ」
 「名古屋さんも変わってないですね」
 「うん。そんなに人は5年じゃ変わんないってことだよ!」
 「ははは、そんなもんですか」
 「うん、そんなもんだよ。ってか森山君ってまださ、アップルパイにハヤシライスをかけて食べてるの?」
 「あ、はい。まだやってます」
 「ははは。あのさ、今日ね、旦那にやってあげたの。それ」
 「え、まじっすか」
 「そしたら、すげえうめえ!って言ってて。ははは、うちの旦那と森山君って話合うかも」
 「合いますね、まぶだちになれますよ」
 「まぶだね。ははは。今度さ、ぜひうちに遊びに来てよ。」
 「はい。ぜひぜひ」
 少しだけ間が空く。なんとなく空気が変わった気がした。
 「・・・なんか変だね。わたしばっかり森山君の家に行ってたからさ」
 「そういえばそうですね」
 「なんであの頃あんなに森山君の家に行ってたんだろうね」
 「なんででしょうね」
 「わかんない。私ら別に話合うわけでもなかったのに」
 「結局一番盛り上がったのってTMネットワークの時でしたし」
 「天気予報の。ははは、懐かしい。本当だね」
 「でも楽しかったですよ」
 「うん。今でもよく話してるよ。森山君のこと」
 「え、本当ですか」
 「うん本当」
 「あー嬉しい」
 「ははは。いいな、森山君」
 また間があいた。
 それから名古屋さんが一呼吸する音。
 「・・・森山君はずっと変わらずにいてね」
 「えーなんですかそれ。変わんないですし、名古屋さんも、変わんないでくださいよ」
 「・・・私は無理だよ」
 「そうですか?」
 「・・・うん、私は・・・うん。」
 「・・・」
 間が空く。間が。数秒の。会ってなかった数年の。最後に僕の家に来た日からの。
 「あ!HUNTER×HUNTER読んだ?」
 名古屋さんは何にも言わなかったように話を変えた。
 「あ!まだです」
 「おい森山いい加減読めってー。何年経ってると思ってるんだよー」
 「すいません」
 「次、会うときまでには読んでおけよ。ってか読まなかったらうちの敷居またぐんじゃないぞ」
 「名古屋さん厳しいっす」
 「ははは。じゃあ、突然ごめんね」
 「いえいえ。あ、名古屋さん」
 「うん、何?」
 「本当、結婚おめでとうございます」
 「・・・うん。あ、森山くん」
 「はい?」
 「変わんないでいてね」

 

 15年前の演奏は音源になって再生ボタンを押せば何度もよみがえる。
 そこに変化はない。
 あの頃の僕の思い出も思い出すたびなんの変化もなく思い出せる。 そこに変化はない。
 絶えず、これからの未来だけが変わっていく。
 あれから2年経ったけども、一度も名古屋さんにはあってない。 旦那さんにもあってない。
 名古屋さんがどうしてるかなんて全く知らない。
 名古屋さんは変わってしまったんだろうか。それとも変わっていく自分が怖くなったんだろうか。
 もう名古屋さんは僕の知っている名古屋さんじゃないのだろうか。 イヤホンの中のナンバーガールOMOIDE IN MY HEADの演奏を終えて、続けてラストライブの最後の曲を演奏する。
 イギーポップ・ファンクラブ。
 「変な曲だね」と名古屋さんが言った曲。
 あの部屋で流れていた曲。
 僕が大好きな曲。
 それでも名古屋さんは多分、どこかの街の、どこかの家で丸まって本を読んでいるんだろうなって思う。
 あのかっこいい横顔で本を読んでいるはずだ。
 それだけは変わっていないはず。
 だから僕は名古屋さんの本を読む横顔を思い出してみる。
 あのかっこいい横顔を輪郭を。
 ちょっとだけ思い出してみる。
 ちょっとだけ。
 ちょっと。

 

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