にゃんこのいけにえ

両目洞窟人間さんが色々と書き殴ってるブログです。

短編小説「へるぷみーあいあむいんへる」

 ヴァージニア・ウルフはコートを石でぱんぱんにして川に身を投げて自殺したらしい。私は思う、一体何個目の石でこれならいけると思ったのだろうかと。石の大きさにこだわったのだろうかと。石を拾っている時にふいに今なら引き返せるという気持ちは湧いたのだろうかと。

自殺とは意思の勝利だ。我に帰らずに自分を死に追いやることが出来た者のみが死を勝ち取ることができる。
意思の勝利と石の勝利。私は偶然の韻にぷぷぷ〜と半笑いになりながら、河原で石を見つめている。
河原には山ほど、というか宇宙クラスに石があって、そんな気が遠くなって自分で宗教開けちゃうよ〜な量の石からひとつだけ拾う。
その石は表面は研磨しているようにつるりとしていて、楕円型。すりすりすりすり。あひゃひゃ。気持ちいい触りごごちでございますなあ。
私はそれをコートの右ポケットにいれる。石ひとつ分の重みを感じる。でもこれじゃ死ねないと思う。
左ポケットに入っている携帯が振動して画面を見るとLINEの通知で友人のかなちゃんから"土曜日飲まない?"ってきたので、私は"のむのむ〜"って返信する。
それから、ポケットに入っている石を取り出して、川に向かって投げる。
石は川面を三回バウンドしてじゃぼんと沈む。


かなちゃんとは赤茶色の照明で昭和感を演出している大衆居酒屋で飲んだ。「最近は元気?」「いやーぼちぼち。でもこうやって外に出ることができる日もあるしー」「そうー」「うん、そー」
私とかなちゃんはそれから3時間近くいろんな話をする。あほな話に真面目な話、そんであほな話。全ての話が笑い声で包まれていて、内容は覚えてないけども多幸感だけは残っているやつだ。
かなちゃんと駅前で別れる。「またねー」「またねー」
そして一人になって、感情の持って行き方がわからなくなる。
あれだけ、楽しかったのになーと思いながら、徐々に虚無がセイハローして私はあっという間に虚無に包まれていく。
あれだけ楽しかったのになーと思う。過ぎ去った時間が身体に残ってくれないのはどうしてなんだろう。


私は寝続ける。1時間寝て、2時間寝て、3時間寝て、以下省略して、17時間寝る。
起きて立ち上がろうとすると足に力が入らなくなって床に倒れこむ。
まるで上手く操縦できないロボットみたいだなと思いながら、私は冷たい床の上でぼんやりする。
たまに、私は虚無である私を演じている気がする。本当はとても元気で、とても明るくて、なんでもできる人な気がする。
冷たい床を這いずり回り、今度は立ち上がる。
お茶を飲む。冷たくて美味しい。


「元気ですかーー!!」とアントニオ猪木のモノマネ芸人がテレビの中で叫んでいる。
私は元気なのだろうか?
私は本当は辛くないんじゃないだろうか。
私はただ辛いふりをしているだけなんじゃないだろうか。
「元気があれば、なんでもできる。いくぞー!」
アントニオ猪木のモノマネ芸人がテレビの中で叫ぶ。
元気があればなんでもできたのなら、私はなぜ元気だったころ、あんなに何もできなかったんだろう。
何にもできなかったし、何にもできない人の烙印を焼きごてのように押された私はあの時、本当は元気じゃなかったんだ。
ひゃひゃひゃと笑ってみる。そんな思考に至った私を引き戻すように笑ってみる。虚しくて仕方ない。


夢のなかで私は割れたスマホをいじっていた。割れたスマホを何時間もいじっていた。割れたかけらが私の指に突き刺さった。血がドバドバ溢れ出たし痛かったし悲しかったけどもスマホでしか世界を知ることが出来なかったから触り続けた。
目がさめるとスマホは割れていなかった。
そのスマホで延々とツイッターを見た。

 

自殺予防のための「命の電話」の職員が死にたくなった時は内線をかけるんだろうか。
ヴァージニア・ウルフは石を詰める前に、遺書を書く前に、誰かに伝えたのだろうか。
自殺だ自殺だと言ったけども、私はまだ死にたいわけじゃない。これは本当。本当だから。
でも、この虚無がなくなったらまた戻らなきゃいけない。働かなきゃいけない。またへらへらしなきゃいけない。どんなことを言われても耐えなきゃいけない。
いつまで?私はいつまで耐えなきゃいけないんだ?
「40代になったら幸せになるよ」と言われた。
高校に入れば、大学に入れば、就職をすれば。苦しい先にはいいことがあるよ、なんて言ってたけども、そんなことなかったじゃない。今度は40代ですか。次は何、老後?
そんな風に先が楽になると思わないとやってられないよね。
私の心はもうぼろぼろでございますよ。
ぼろぼろにしたのは………お前だー!と安い怪談の落ちのように叫びたくなる。
でも、そんなお前も目の前にはいない。いるとすれば生きている目の前の世界だけなんだけども、その底で私はぱくぱくと息をする。
帰りたい。もしくはどこかに逃げ出したい。
こんな私をどこかで迎えてくれる場所があるはずだ。
「よく耐えてきたね!ここでゆっくりしていきなよ!」なんて言ってくれるような。
でもそんな都合のいい場所なんてあるはずがない。
誰かにとって都合のいい場所はあるだろう。でも私にとって都合のいい場所はここにはない。

「死にたいわけじゃないんだよねー」とまたつぶやいて、私は寝続ける。
かなちゃんは「またねー」と言ってくれた。なので、その「また」を叶えるのを当面の目標にする。
それまでは暗闇の中を走り続けよう。
暗闇の中を走り続ける意思があればかなちゃんとの「また」を実現できるだろう。
私はそのことだけを考える。それ以外のことは考えたくない。

 

 

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ほにゃららとした雑文。

ほにゃららという言葉が大好きだ。口に出してこんなに緩んでしまう言葉があるだろうか。ほにゃらら〜と言ってしまった瞬間に緊張感なんてものは冥王星の果てまで飛んでしまってもう帰ってこない。ほにゃららの威力たるや。


猫が可愛らしいのはその鳴き声もあるだろう。なんて言ったってにゃーんだ。
にゃですよ、にゃ。
緩みきっている。
これが「げるぞぞぞ」だったら猫は今のような人気があっただろうか。岩合光昭は世界ネコ歩きなんてしていただろうか。歴史にifはないといいますが、鳴き声が「げるぞぞぞ」の猫を想像するべきだ。

しかしここで鳴き声が「げるぞぞぞ」なだけで猫を嫌いになってしまう人が多かったらそれはそれで嫌だと思う。みんな猫が突然「げるぞぞぞ」って鳴いても変わらずに愛していてほしいと思う。あの見た目で「げるぞぞぞ」なんて可愛らしいじゃないですか。


最近、自分が可愛いと思うものがEテレの番組ばかりだ。正確には0655とロボットパルタだ。27歳男性だけども、この辺への愛、とどまることをしらない。

以前この辺のものが好きって話をしたら「幼児退行したいということなのでは?」と言われたが、否、断じて、否。
「ばぶばぶ!!」ってしたいがために見ているわけではないってことを俺は声を上げて言わなきゃいけない。
むしろ、大人の男性がロボットパルタ好きって言ったら幼児退行って言われるのおかしいでしょ。多様性の社会じゃないんですか。ダイバーシティ言うやつなんじゃないですか。


別にロボットパルタを見て、蘇る性的衝動してるわけじゃない。ただただ「ふへふへ」と緩みきった口で笑って、「あーかわいいなー」となるだけです。
これが幼児退行ならば、もう俺はずっと幼児退行しててやる。やすらぎインダハウスするぞ。

 

 

ただ、不平不満をこじらせるのはよくないのだ。せっかく言葉があるのであれば、俺は一人でも多くロボットパルタの魅力をアジテートすべきなんじゃねえかと考えている。
というわけで近々27歳男性による「どきどき!ロボットパルタのここがかわいい!」という文章をぶち上げようと思う。
同級生たちが親になり、その遺伝子を受け継ぐものa.k.aこどもにロボットパルタを見せているという現実は直視してはいけない。
その反対方向で俺は大声をあげる。
完全にまずい人だ。

 

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ローラン・ビネ『HHhH』を読んだ!

ローラン・ビネ『HHhH』を読んだ!

 

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『カブチーク、それが彼の名、実在の人物だ。』

1
僕には学が無い。47都道府県の場所はいつだって朧げで、書けない感じは山ほどあって、機械の多くはブラックボックスで、歴史なんてのは全く覚えきれなかった。
そう、「歴史」。
ラインハルト・ハイドリヒのことは知っているだろうか?学がない僕は知らなかった。死刑執行人とあだ名された男のことを僕は知らなかった。金髪の野獣と言われた男のことを、ヒムラーの右腕の男のことを、ナチスドイツでユダヤ人大量虐殺の首謀者であり責任者であったこのラインハルト・ハイドリヒのことを僕は知らなかった。
もちろんハイドリヒ暗殺計画、通称「類人猿作戦」のことなんて、それに参加した二人の青年、ガブチークとクビシュのことなんて。


2
ハイドリヒ暗殺計画についての作品は現在に至るまで多く制作されている。映画では1943年にはこの事件を下敷きにフランツ・ラング監督で『死刑執行人もまた死す』が制作され1976年にはルイス・ギルバートによって『暁の7人』が制作され2016年にはショーン・エリスによって『ハイドリヒを撃て!』が制作されている。
この事件は何度も語られている。それこそ、作品の冒頭で作者は父から事件について聞かされる。
じゃあ、改めて歴史を語ることとは何を意味するのか?その歴史を小説に変換することにはどんな意味があるのか?


3
なんて、大きく出たものの、僕はこのテーマについて扱いあぐねている。現在は2017年11月30日。現実の僕は本を読み終えたばかりの休職中の27歳男性だ。僕は実家にいる。実家の場所は日本の大阪。1942年のプラハからは位置も時間も遠い場所だ。
しかし、1942年のプラハはこの本に封じ込められている。僕は行ったことのないし見たことない1942年のプラハが脳に浮かんでいる。


4
作者のローラン・ビネは徹底的に一次資料に拘り、この物語を紡ぐにあたって自分の作為が入り込むことを拒否し続ける。
ローラン・ビネは1972年生まれ。1942年から30年後に生まれた。あの年のプラハは知らない。
だからこそなのか一次資料を集めに集めて書き連ねる。この偏執的なまでの姿勢は1942年を立ち上がらせようとしているのかもしれない。"ドラマ"ではない1942年を。


5
僕はここまで書いて、この小説に対する感想が正しいのかどうか不安になる。他人の評価が気になり「HHhH 感想」で検索をすると、この本のことを辛辣に書いているブログに行き当たった。曰く「ローラン・ビネは記録に頼りすぎている。記録なんてものは簡単に捻じ曲げられるのに。この本は痛みの知らない坊ちゃんが書いた小説だ」。
僕は必死に反論する言葉を探そうとするが、何も浮かばない。


6
僕は1990年生まれで、ローラン・ビネは1970年生まれだ。たしかに"痛みの知らない世代"なのかもしれない。戦争を体験した作家たちは素晴らしい作品を残していった。痛みを知っている人々がその痛みを癒すために描いた作品や、その痛みを後世に伝えるための作品。それらに比べてこのHHhHは痛みの知らない者が作った小説だと唾棄されるものなのか?

 

7
いいや、違うはずだと僕は思いたい。一瞬差し込まれる「大量虐殺があった村を元にしたゲーム」の話を覚えているだろうか。1942年の話をしていたのに2006年のこのニュースが差し込まれる意図は。
ローラン・ビネは遠い過去のことを書いてるのではない。地続きのものとして書いてる。1942年と2006年、そしてローラン・ビネがこの小説を書く2008年は同じ時間にある。歴史小説なんかじゃない。彼にとっては目の前で起こったことなのだ。1942年のプラハにいた人々と同じように。


8
だから、彼は終盤ある引き延ばしを行う。時間は長くなる。数時間が1日に、数日に、数週間に。そうでもして引き延ばしたのは作者である自分がもう一度この時間を描くことで登場人物=現実に存在した人をもう一度殺すことになるからだ。
だから避けようとする。でも歴史は、時間が巨大で抗えない。


9
あまりに巨大すぎる歴史の中で、それに抗いそして名前を残した人々。一方で名前も残せないまま亡くなってしまった多くの、そうあまりに多くの人々。
少ないページだけども、彼らのことを書き連ねる。文学としてではなく、彼らの生きていた証を刻むように。
それは読者を喜ばせるような気持ちの良い話ではない。でもこの歴史に触れてしまったからには避けるのは罪悪感を感じる人々。そう彼らもたしかに生きていた。いや、みな生きていた。巨大な歴史の中で。


10
巨大な歴史の中で小さな人間が出来ることはなんだろうか?絶えず進み続ける歴史の中で小さな人間が出来ることは?小さな人間はただ歴史の中で死んでいくだけなのか?
それに抗うことができるのが物語なのではないのだろうか。ローラン・ビネの『HHhH』はその抗いの記録のように思える。
1942年に生きていた人たちを忘れないようにするために。
全ての痕跡が消えゆく2008年に必死に残そうとした一人の人間の記録のようにも読めるのだ。
1942年のプラハは『HHhH』というタイトルの物語になって産み出された。2017年の僕はそれを読むことができる。そして僕の脳内に1942年のプラハが立ち上がる。
ガブチークが、グビシュが、彼らの仲間が、彼らが愛した女性が、死んでいった者が、プラハが、ハイドリヒが、そしてローラン・ビネが僕の脳内に立ち上がる。
歴史に対して小さな人間にできることは少ないかもしれない。でも、その小さな人間の力強い抵抗は誰かによって記録してくれるかもしれない。物語の形になって生き続けるかもしれない。2017年の僕は1942年の歴史を2008年に生まれた物語で知る事ができた。
1970年生まれのローラン・ビネが悩みながら1942年を刻み込んだこの物語はこの先も生き続ける。
1942年のプラハは生き続けるのだ。

 

 

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

 

 

 

 

短編小説「岸田くんの小指を潰したい」

‪「小指を潰したいんですよ」ってことを岸田くんに伝えたら「えっ?俺の?」って聞き返してきたのでうんうんうん、と頷いたら「あーまじかー」って頭を抱えて無言になってそれから「ちょっと困るなー」って言われたのでそりゃそうだよなと思い、私は机の上にトンカチを置いた。‬
‪ 岸田くんの小指をトンカチで潰すのを許されないからって私は岸田くんに「じゃあわたしのことを愛してないっていうの!」なんてそんな定型的なメンヘラなことは一切言わない。‬
‪ なぜなら岸田くんは十分すぎるほどにわたしのことを愛しているだろうし、そしてわたしもそれには十分すぎるほどに満足している。‬
‪ しかしながら、小指を潰したいという衝動はそういった愛から生まれたものではない。 ‬
‪ むしろ動物由来なものだ。草食動物が草を食むように、肉食動物が肉を食むように、ヤンキーが預金残高を見ずに子供を作るように。‬
‪ わたしはただただ岸田くんの小指をトンカチで潰したいと思ったのだ。 ‬
‪ なので、岸田くんにこの事を伝えた時の感情としては恋人にコスプレを頼むようなものに近かったと思って頂きたい。断られて同然。引かれて同然だと思っていた。‬
‪ なので、岸田くんが「困る」と言った時はさほどショックではなかった。そうだろうなと思うしかない。なにせ小指をトンカチで潰すのを許すのはなかなかに困難なことだ。‬
‪ 「変なこと言ってごめん」‬
‪ とわたしは言う。‬
‪ 「いいよいいよー」と岸田くんは"本当に許しているよ"とわかる音程と声色で返事をしてくれる。優しい。岸田くんは優しい。わたしにはもったいないほどの人だ。でも小指は潰したい。困ったものだ。‬
‪ ‬

 

‪ 今日は岸田くんが晩御飯を作る番で、クリームシチューだった。シチューでお腹を満たしたわたしは座椅子に座りながらスマホをいじっている。キッチンでは岸田くんが洗い物をしている。‬
‪ 「今日ね」岸田くんが話しかけてくる。‬
‪ 「うん」‬
‪ 「会社で、同期と昼食べてたら、彼女の趣味をどこまで許容できるって話になって」‬
‪ 「うん」‬
‪ 「俺は正直どこまでも許容できるんだけども、意外とみんなあれもダメ、これもダメって言って」‬
‪ 「そうなの?」‬
‪ 「うん。たまに話す中山っているじゃん。中山とか、彼女がBL読んでるだけで嫌だって」‬
‪ 「へー」わたしはこの話がどこへ向かうのかがわからずに内心怯えている。岸田くんの声色はいつもと同じ穏やかさを保っている。‬
‪ 「そん時は昼飯だったからそんな踏み込んだ話はしなかったけども、人付き合いって結局、相手のわからなさを許容するってことじゃん」‬
‪ 「うん」‬
‪ 「お互いのわかっているものから交換しあって、最終的にわからない部分をわかろうとしたり、許容したり。なんていうか、そこにこそ、人付き合いというか、もっと付き合うって意味があると思ってて」‬
‪ 「うん」‬
‪ 「だから、霜村さんが俺の指を潰したいって言った時は、最初わかんなすぎて本当に嫌だったの」‬
‪ 「あー、ごめん」‬
‪ 「ちがうちがう。あの、でもね、わかんないからって許容しないのもなんか違うかもなって思ってきて」‬
‪ え?‬
‪ 「小指だけでいいんだよね?」‬
‪「あ、うん」‬
‪ 「潰してみる?そのトンカチで」‬
‪提案しておいてなんだけども、どんだけ優しいんだこの人は。‬

 


‪ 家にあったありったけの氷袋と保冷剤をかき集める。それから救急箱。そして医療機関に電話するためのスマートフォン。これらをテーブルに並べる。小指を潰したら即座に応急処置、そして医者を呼ぶ。わたしたちはこの手順を何度も口に出して繰り返す。‬
‪ 「我々は殺し合いをしているわけじゃない。わかってください」‬
‪ と岸田くんが変にモノマネがかった口調でそう言う。‬
‪ 「あ、藤波辰爾の名言」‬
‪ へー。と思う。藤波辰爾が誰なのかもわかってないけども、わたしたちは殺し合いをするわけではない。わかってください。‬

‪ テーブルに岸田くんの左手を置く。右手を傷つけると利き手であるため生活が余計に不便になるとのことで左手を選択した。‬
‪ わたしはトンカチを持って小指への軌道を何度も確認する。‬
‪ 「このトンカチって、何のために買ったんだろうって思ってたけども、このためだったんだね」と椅子に座ってテーブルに腕をべったりさせた岸田くんが上目遣いで話しかけてくる。Amazonで500円のトンカチ。‬
‪ 値段の割に手によく馴染む気がする。‬
‪ わたしは深呼吸をする。‬
‪ 岸田くんも深呼吸をする。‬
‪ 「やる時は躊躇いなくいってね。多分半端にする方がやばいと思うし」‬
‪ わたしは頷く。‬
‪ トンカチを岸田くんの左手の小指に軽く当ててわたしは振り上げる。‬
‪ 「あー!待って!待って!」‬
‪ と岸田くんは叫んで、わたしはぴたって体を止める。‬
‪「痛くて、舌噛んだらやばいなって思って」‬
‪ と言って、岸田くんはハンドタオルを持ってきて、自分の口に突っ込む。‬
‪ そしてさっきと同じ体勢になって「ひゃあふがふがふが」という。‬
‪ わたしはその光景の異常さに気色悪さと高揚感を覚えながらもう一度、小指にトンカチを触れさせる。‬
‪ 岸田くんの左手。‬
‪ 初めて握った時はどきどきしたなとか、この人の大きな手がわたしは好きだなとか色々思い出す。‬
‪ 安心感のある大きさなのだ。‬
‪ あー、だから潰したいんだなーと納得をする。‬
‪ 誰でもいいわけじゃない。岸田くんの小指だからいいんだ。‬
‪ 岸田くんは必死に目を瞑ってる。そんなに優しすぎると身を潰すよ、と思う。‬
‪ わたしは息を吸い込んで小指を見据えてトンカチを振り上げて、振り下ろす。‬

 


‪ 「はい、ちょっと間違って手に振り下ろしてしまったみたいで。はい。すいません。よろしくお願いします」‬
‪ とわたしは頭を下げながら救急車を頼む。‬
‪ 目の前では痛みで歯をカチカチ鳴らす岸田くんの姿がある。‬
‪ わたしは電話を切ると、岸田くんにロキソニンを飲ませてあげる。‬
‪ 痛みは途切れないだろうけども、少しは減るんじゃないだろうか。‬
‪ それから、わたしは岸田くんの側にいる。‬
‪ 岸田くんは右手にタオルで包んだ保冷剤を持っていてそれを左小指に当てている。タオルは赤く染まっている。‬
‪ 「ごめんね」とわたしは本当に謝る。‬
‪ 「いいよ、いいよ」と息を荒くしながら岸田くんは答える。‬
‪ 「後悔してない?」‬
‪ 「してないって言ったら嘘になる」‬
‪ 「やっぱり」‬
‪ 「うん。でも、全然、怒ってない。本当に」‬
‪ と岸田くんは本当に怒ってない音程と声色で返事をしてくれる。‬
‪ わたしはそれが嬉しくて泣きそうになる。‬

‪ ‬


‪ トンカチを小指に振り下ろした瞬間、視界が歪むほどの多幸感が襲った。心の底から生まれてよかったって思えるような多幸感。でも痛みに悶え苦しむ岸田くんの姿を見て心から後悔した。小指は潰れてしまっていて血がだらだら溢れているし爪は潰れてしまった。多分骨を折れているだろう。‬治るまでどれくらいかかるだろう。小指を潰したいって願いは叶ってよかった。けども、ダメージを受けた岸田くんを見るのは本当に心から辛い。

 

 

遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてくる。
‪ 「本当にごめんね」 ‬
‪ ともう一度謝って、岸田くんの肩に頭を寄せる。そしたら岸田くんも頭を寄せてくれてわたしは許されたような気になる。‬なので「ありがとう」って言う。

「ならよかった」

 わたしは涙を少しだけ流す。もうすぐ救急車が到着する。わかってくれるだろうか。喧嘩だとか思われたらどうしよう。その時、岸田くんのものまねを思い出す。
‪ 我々は殺し合いをしているわけではない。それだけはわかってください。‬

 

 

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文学フリマに行ってきた。

文学フリマに行ってきた。
家を出て、電車を数本乗り継いで、挙げ句の果てにモノレールまで乗って、地の果てのような場所に降り着いたそこが文学フリマだった。
文学とロックは死んだと断定されがちですが、そんな言葉を言ったやつ出てこいと言いたくなるほどの人の群れに、汗がドバドバと止まらなくなってしまった私は適応障害で休職中。
そんな自律神経がさっそくバグりながらも、はじめての文学フリマということでわくわくして見て回った。
はじめに行ったのは西島大介先生のブース。西島大介先生の作品がずっと好きだった私は、ブースにいる西島大介先生を見るなり自律神経がバグりメガネが曇るほど汗が出た。
出されたばかりの「アオザイ通信」を買うと西島大介先生がサインを書いてくれると言うではないか。
私はあわわわわとなりつつ、サインを書いてもらい、そしてその間に何か一言喋りかけたかったが脳が全く回らない。


普段の脳ならば
「J.BOYって曲を出した歌手、2名お答えください…。じゃあ走ってー」
「えーーーとえーーー、あ!ハマショー(ブー!)あ、フルネームか!浜田省吾!(ピローン!)えーとあとは、あとは………えーーー、あ!フェニックス!!(ピローンピローン)」
と脳内フレンドパークができるほど余裕で回るのに、一切動かない。天亜門事件でバケツ持って戦車の前に行った人ぐらい動かない。


で、やっと出たのが「I care because you doめっちゃ好きです…」って言葉だった。音量はミュート寸前で。そんでI care because you doってのは西島大介先生の半自伝的な作品で、Aphex twinX japanが交錯して、好きな人には好きなタイプの作品で…というのはいいでしょうか。
そんな自律神経崩壊小声27歳男性にも西島大介先生めっちゃ優しかったので、凄く食いついてくださったが、緊張しすぎてなにを話してくださったか全く覚えてない。本当に申し訳ないです。
あと、本当は「アトモスフィア、まじ好きっす。あの構成、本当神だと思います。ウェイ!」って言いたかったのですが、脳がフリーズしてたんだからしょうがないね。
本とサインをもらえてとにかく幸せでした。
アオザイ通信』めちゃくちゃ面白かったです。

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その後、後輩から頼まれていた買い物をばしばしやりまくる。汗はだらだら流れっぱなしだ。汗がだばだば出ているので自己尊厳が限りなくゼロになってしまっていたので、さっとその売り場に行き、売り子さんの目も見ずに小声で「あ、ください」って言いづける27歳男性はっきり言ってここが最底辺だったと思いたい。「人はなぜ落ちるかわかりますか、這い上がるためですよ」とバットマンビギンズのマイケル・ケインのセリフ、今こそ俺に響いてほしい。


後輩からのおつかいを済ませて、あとは自分の気になる本探し。
その段になってとにかくその幅の広さに圧倒された。
これほど多くの人が伝えたいことや書きたいことがあって、一冊の本に仕上げて、このような場で売っているという事実、めっちゃ胸熱くなる。
みんな普段はどんな生活してるの?日常しんどくない?どうやってやりすごしてる?そんなことを聴きたくなったまじで。
一期一会だと思って、興味が湧いた本はとにかく買っていった。休職中で預金口座の数字が減っていくのに胃をきりきりさせて、節約のためにカレーを二週間食べ続けていた俺の姿はそこにはなかった。俺はその時、知の戦士(ウォーリアー)として文学フリマの会場で財布と言う名のアックスを振り回していたのだ。

 

 

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気がついたら十八冊買っていた。
何をしているんだと思った。


というわけでこの冬は買った十八冊を次々と読んでいきたいと思う。「買った本は読めよ!」は舞城王太郎のピコーン!の名台詞でございますが、俺も怒られないようにちゃんと読む。

あと俺も文学フリマに出展してえ。
自意識過剰な俺は、自意識を本の形にして、その本を「買ってくれ〜読んでくれ〜」と要求するウォーキング・デッドになってみたいと思ってる。
当面はそれを人生の目標に生きていきたい。
人生の目標ってのは大事なのです。